閑話:とある女子訓練生と野口曹長の約束
「……伊織」
「え……秋雄、さん?」
この場で再会するなどとは到底思えぬ、想い人の声。その声に反射的に振り向いた伊織は、訓練校の校長である房江と共に立つ野口の姿に目を見開いた。
博孝から聞いた通り、野口は先の戦いで大した怪我もしてないのだろう。立ち姿に負傷の影はなく、驚きで占められていた伊織の心に安堵が広がった。
しかし、同時に疑問も浮かぶ。野口と会えたことは喜ばしい――心底から喜ばしく、嬉しく、幸せだが、何故訓練校に野口が姿を見せたのか。『星外者』を撃破した即応部隊に所属する野口は多忙を極め、休暇を取ることすら困難なはずなのだ。
かといって目の前の野口が偽者などということもない。伊織が野口を見間違えるはずもない。仮に『変化』というES能力があったとしても、伊織の目は誤魔化せない。
「……河原崎先輩ですね?」
そうである以上目の前の野口は本物で、その上で野口がこの場に立つであろう理由を作り出せる人物。その名前を確認を込めて口にした伊織だったが、存外に低い声色になっていた。
(秋雄さんには“何も言わない”って約束したのに……)
ぷくり、と小さく頬を膨らませる。今度会うことがあれば、訓練の名目で殴りかかっても罰は当たらないだろう。
そんなことを頭の片隅で考える伊織だったが、単純に博孝の方が一枚上手だっただけである。何故ならば博孝は伊織に関して“自分の口からは”伝えないと約束したのであり、他の手段に関しては何も言及しなかった。
「ああ? 博孝がどうしたって? あいつなら書類に埋もれて死にかけてたぞ? 俺がここに来たのは任務の一環だしな」
それを理解しているが故に、野口も真顔で白を切る。
博孝からは伊織に関して何も聞いていない。ここに来たのも部下の休暇を上官が利用し、書類の運搬という雑事を押し付けたからだ――無論、“建前”だが。
(軍人としちゃあ建前ってのは大事だからな……)
そもそも博孝に対して伊織に関する情報の開示を求めたのは野口の方だ。博孝は機密という真っ当な理由を盾にして口を閉ざしたが、全ての“お膳立て”を整えて野口を訓練校へと送り出した。
「博孝……ああいや、河原崎空戦少尉と岡島陸戦少尉が訓練生に行った治療に関して、経過観察をしてくるよう“うちの上官”に頼まれてな。書類の運搬と受け取りに駆り出されたんだよ。どこもかしこも手が足りねえんだ」
そう言って野口は革製の頑丈な鞄を掲げてみせる。すると、それまで笑顔で話を聞いていた房江が口を開いた。
「治療したらそれで終わり、とはいかないのよ。白崎さん、一年もすればあなたも正規部隊に行くのだから、その辺りのことは覚えておきなさいね? 訓練も良いですけど、書類仕事に関しても学んでちょうだいな」
『ES能力者』だろうと書類仕事からは逃げられない。そう告げる房江に、伊織は博孝を疑ったことを内心で恥じた。
(お仕事の一環で……それなら仕方ないですね)
重要な書類を運ぶとなれば、相応に腕の立つ人員が必要だ。しかし『ES能力者』の面々は多忙であり、『ES能力者』を除くとなると野口は打ってつけだろう。
伊織のことを聞いたからではなく、任務で来たのだ。そう伊織は納得したが、野口と会えたことに比べれば正直なところどうでも良い。野口が来た理由よりも、目の前に野口がいるという事実の方を優先すべきなのだ。
表面上は野口と房江の言葉に納得したように、その裏では野口の言葉以上に優先すべきものはないと斬り捨てる。
「そうでしたか……改めまして、お久しぶりです秋雄さん。お怪我もないようでなによりです」
思考を切り替え、喜びを笑顔に乗せて伊織が微笑む。例え任務のついでだろうと、野口が顔を見せに来てくれたのは望外の喜びだ。
もしも伊織に尻尾が生えていたら、今頃は全力で振り回していただろう。例えそうでなくとも、今の喜びを以ってすれば『ES寄生体』の十や二十、あるいは百でさえも撃破できそうだった。
敵性『ES能力者』が襲ってきたとしても、鼻歌混じりに粉砕できそうである。
「ああ、久しぶりだな……で、だ。まあ、その、それで、なんだ……あー、その、だな」
心底から歓迎し、喜んでいることがわかる伊織の笑顔に野口は視線を逸らす。頬を掻き、視線を彷徨わせ、何事かを言おうとしては口を閉じた。
そんな野口の様子に、伊織は僅かに首を傾げる。普段の野口ならば何か用があれば即座に言ってきそうなものだが、と不思議に思った。
「復旧作業中で授業もないし、怪我が治って間もないし、白崎さんは少し休んできて良いわ」
野口が言いよどみ、伊織が首を傾げる中、房江が微笑ましそうに笑いながらそんなことを言い出す。その言葉を受けた伊織は数度目を瞬かせると、慌てた様子で首を横に振った。
「えっ……で、でも……」
他の者が復旧作業に尽力しているというのに、自分だけ抜け出すのは気が咎める。そう言い募ろうとした伊織を制し、房江は穏やかに微笑んだ。
「大丈夫よ。あなたが抜けた分はわたしがやっておくから。おばあちゃんだけど、これでもまだまだ元気なつもりなのよ? それに、彼の任務には治療を受けた生徒に話を聞くことも含まれているらしくてね。休憩ついでに付き合ってあげなさいな」
見る者を安堵させるような微笑みを浮かべ、房江は伊織の両肩に手を置いてそう告げる。それは半ば命令のようでもあり、伊織は渋々ながら頷いた。
「それでは、お言葉に甘えまして……」
野口と一緒にいられる時間を拒むなど、天地がひっくり返ってもありえない――ありえないのだが、伊織としては死にかけた負い目もあって少々気後れしてしまう。
そんな思いを野口に知られるわけにもいかない。だが、その思いが伊織の表情に出ることはなかったが、房江は囁くようにして言った。
「人間誰しも、何よりも大切なものがあるものね……あなたにとっては彼がそうなんでしょう? あなたの先輩達が作り出してくれた“平和”に少し浸ってきなさいな」
「っ……は、はい……でも、なんで気付いて……」
まるで伊織の葛藤を見透かすように鋭く、それでいて優しさを多分に含んだ声だった。伊織は内心を見抜かれた恥ずかしさ、気遣いへの感謝からはにかみ、頬を染めて俯きながら小声で尋ねる。
「ふふっ、これでも伊達に歳を食ってないの。さ、お行きなさい」
互いに小声だったため、野口は不思議そうな顔をするだけで気付いていない。そのことに感謝しつつも、伊織は房江の厚意に甘えるのだった。
「訓練校周辺で『ES寄生体』が出たって聞いたが、ここまで酷かったのか……」
「ええ、そうなんです。でも人的被害は皆無ですから」
場所を移し、第七十五期訓練生が使用する食堂。そこで野口は缶コーヒーを片手に、伊織はスポーツドリンクを片手に状況確認という名の雑談を行う。テーブルを挟んで椅子に座り、言葉をかけ合う。
「秋雄さんの方も大変だったんじゃないですか? ニュースや新聞で見ましたけど、日本各地で激戦だったって」
「まあ、な。俺はかすり傷で済んだが、部下が何人も逝っちまったよ」
野口は伊織の疑問に苦い笑みを浮かべながら答え、懐に手を入れて煙草の箱を取り出す――が、すぐに懐に戻した。
「吸わないんですか? あ、部屋に行って灰皿取ってきましょうか?」
「そんな気分じゃなくてな……って、なんでお前さんの部屋に灰皿が?」
実は隠れて煙草を吸っていたのだろうか。そんなことを考える野口だが、人間用の煙草など『ES能力者』にとっては空気と変わらない。
伊織も隠れて悪いことをしたがる年頃なのだろう。野口にも思い当たる節がある。煙草は上官や同僚、部下の死をきっかけに吸い始めたが、学生の頃には気に食わない上級生相手に何度も喧嘩を仕掛けたものだった。
うんうん、と理解を示す野口。伊織は野口の反応に首を傾げたが、その意図を悟って慌てて手を振る。
「ち、違いますっ! そ、その、もしかしたら秋雄さんがわたしの部屋に来て、その時に吸うかな、なんて……」
「……お、おう、そうか。ご、御期待? に沿えなくて悪かった……な?」
顔を真っ赤にしながら頭を振る伊織に、野口もなんと答えれば良いかわからない。伊織は針で突けば血が噴き出そうなほどに顔を赤らめ、野口はしきりに視線を彷徨わせた。
「…………」
「…………」
そして訪れる、奇妙な沈黙。遠くから復興作業の音や掛け声が聞こえてくるが、野口と伊織は互いにタイミングを失ってしまった。
野口はコーヒーを軽くすすり、伊織は手持無沙汰に両手を開閉する。それでも時折目が合っては慌てて逸らし、沈黙を加速させていた。
もしもこの場に博孝や恭介がいれば、『年齢を考えてくださいよ年齢を』と言いながら野口に対してドロップキックの一つでもお見舞いしただろう。野口も己が置かれた状況を理解しているが、どうにも普段通りには振る舞えなかった。
もうじき三十歳を迎える野口だが、女性経験が皆無というわけではない。学生時代は周囲の評価に反して高い人気があり、学年でも一、二を争うほどの人気ぶりだった。兵士になってからは一時期浮名を流すほどだったが、ここまで対応に困る異性は初めてである。
兵士、それも『ES寄生体』を相手にする対ES戦闘部隊所属ともなれば、世間一般では高給取りの部類に属する。基本給に加えて危険手当を筆頭とした各種手当がつき、『ES寄生体』を倒すことができれば別途報奨金が出る。
かつて野口は対ES戦闘部隊に所属しており、共同で撃破するだけに留まらず単独で『ES寄生体』を狩り続けていた。その度に報奨金が出ていたため、“女遊び”に手を出していたのだ。
今でこそある程度落ち着き、『ES寄生体』も害虫を駆除するように殺すことが可能になった野口だが、命を賭けて『ES寄生体』と殺し合うのは極度の緊張を強いるものである。
命の危機によって昂ぶり、女性へ逃げることも仕方ない――と、野口は誰にともなく心中で言い訳した。明日をも知れぬ命であり、手元に使いきれないほどの金があるとなれば使いたくなるのが人の性だろう。
また、一時期は修羅の如く生きていた野口の姿も、一部の女性から見ればとても魅力的に映ったらしい。柔らかく言うならばワイルドな、直截に言えばマフィアやヤクザとは別方向で危険な男性だったのだ。それも極めて突き抜けた凶悪さである。
鍛え上げた肉体に精神。眼光は鋭く、血と硝煙の匂いを漂わせるその姿。ヤクザでさえ思わず道を譲るような殺気を漂わせていたが、『ES寄生体』を狩り続けた境遇を考えればそれも当然だろう。
飛来する光弾を掻い潜り、直撃すれば即死しかねない近接攻撃すらも回避し、ナイフ一本で『ES寄生体』を仕留めるような手練れだ。非番の際は拳銃にナイフ一本という軽武装だったが、それだけあれば例え銃器で武装したヤクザだろうと容易く狩れる。
そんな野口に惹かれる女性も一定数存在したが、結局野口は浅い付き合いに留め、付き合っては別れ、付き合っては別れを繰り返した。
当時は過酷な現実に抗うが如く『ES寄生体』を相手に暴れ、周囲の戦友の死に精神を削られ、その肉体にも浅からぬ傷を負っていたのだ。そうして荒んでいく野口の姿に、付き合いきれる女性はそう多くない。
そのような経験がある野口だが、伊織が相手となると勝手が違う。今まで付き合ったことがある相手とは根本的に異なるものを感じており、野口を戸惑わせるのだ。
年齢差が大きいというのも理由の一つだろう。学生から今まで、付き合うとすれば同年代か年上がほとんどだった。
『ES能力者』とは付き合ったことがないというのも理由の一つだろう。さすがの野口でも、『ES能力者』の女性と付き合ったことはない。伊織のように好意全開で突撃してくる相手もいなかった。
それ故に、野口は困る。一度会話が途切れてしまうと、新たな話題を絞り出すのが辛い。
「あー、その、なんだ」
「は、はい」
「いや……なんでもねえ」
会話の取っ掛かりを探すものの、言葉が続かなかった。そのため野口は気分ではないと言っていたはずの煙草を取り出し、火を点けて一服する。
(間が持たない時はこの手に限る……って何の解決にもなってねえ!)
内心で自分自身に激しいツッコミを入れるが、事態は解決しない。博孝と話していた時には伊織に対して色々と言いたいことが浮かんだのだが、いざ伊織を目の前にすると言葉に詰まってしまう。
――それでも、このままではいられない。
野口は深々と紫煙を吐き出すと、携帯灰皿を取り出して火を消す。そして自身を鼓舞するように缶コーヒーを一気に飲み干すと、真っ直ぐに伊織を見詰めた。
「く、訓練校の復旧状況はどうだ?」
そしてヘタレた。思わず当たり障りのない話題に逃げてしまった。
「……? さっき見た通りですけど……」
「ああうん、そうだよな」
電話で確認するならばともかく、つい今しがた自分の目で確認したばかりである。思わず頭を抱えてしまう野口だったが、数回深呼吸をして気持ちを落ち着けた。ついでに腰元に括りつけた相棒たる山刀の柄を握り、切に祈る。
願わくは、敵と戦う時のような勇気と無鉄砲さをもたらしてほしい。
「伊織」
「は、はいっ」
静かに、真剣に声をかける野口。その表情は『ES寄生体』を前にしたように張り詰めており、殺気にも似た剣呑な気配を放ってもいる。
常人が相対すれば即座に回れ右をして逃げ出すであろう気迫だ。しかし、伊織にとってはそうではない。
(秋雄さん、真剣な顔も格好良い……)
恋というフィルターを透過すれば、野口が放つ気迫など伊織の慕情を募らせる材料にしかならなかった。今の伊織でも至近距離で野口と戦えばどうなるかわからないが、野口相手に抱く恐怖など欠片もない。
野口は伊織の心情など読み取れず、今度こそはと覚悟を決めて話題を振る。
「報告書ではお前も怪我をしたって話だったんだが……もう体は大丈夫なのか?」
訓練校に来た目的は、伊織に会うことだ。野口の中でも考えがまとまっておらず、会って何をしたいか、何を話したいかまでは決まっていなかったが、本人を前にすると余計に考えが乱される。
「お恥ずかしい限りです……ちょっとだけ無茶をしちゃいました。あっ、でもでも、もう大丈夫ですよ? 河原崎先輩と岡島先輩が治してくれましたからっ!」
そう言って元気さをアピールするようにポージングを取る伊織。本当のところはちょっとどころではない無茶をしたのだが、それを野口に知られたくなかった。
そんな後ろめたさを隠すように、伊織は艶然と微笑む。全てを喜びで覆い尽くすように、朱に染まった笑顔を向ける。
「もしかして、心配……してくださったんですか?」
「当たり前だ! この状況で心配しない奴が――」
伊織の言葉に対し、野口は反射的に声を張り上げた。しかしすぐさま何かに気付いたように言葉を切ると、愕然とした様子で頭を掻きむしる。
「……秋雄さん?」
突然取り乱した野口の姿に伊織は困惑した。野口は苦しむように、痛みを堪えるように眉を寄せ、今にも泣き出しそうだったからだ。それでも数秒も経てば野口も自制を取り戻し、表情を元に戻す。
その瞳だけは、泣きそうに歪んでいたが。
「薄情なやつだと笑ってくれ……いや、怒って罵ってくれて良い。伊織、お前のことを心配だと思ったのは、今日になってからだったんだ。それまではまったく思い浮かばなかった……いや、“思い浮かばない”よう自分に言い聞かせてたんだ」
懺悔するように、血を吐くように野口は言う。心配に思ってからは即日で駆け付けたが、今日に至るまでの二週間、伊織のことは考えないようにしていた、と。
野口と伊織は友人だ。伊織はそのような関係で止まる気は微塵もないが、現状の間柄を表すには友人と評するしかない。
夫婦や恋人ならば当然のように心配するだろう。だが、友人ならばどうだろうか。
きっと大丈夫だからと信頼するにしても、そこには心配の情が宿るはずだ。その点で言えば野口は薄情とも言えるだろう。友人どころか明確に好意を寄せてくる伊織を心配しないなど、血も涙もないと言われても仕方がない。
伊織からの一方的な愛情に応える義務はないとは云えど、野口とて友人だと認めるぐらいには心を開いている。故に、今回の戦いでも心配するのが当然というものだろう。
「あ、“そんなこと”ですか」
「……は?」
だからというべきか、野口は伊織の反応に思わず間が抜けた声を漏らしてしまった。思わず伊織の顔を凝視する野口だったが、伊織は相変わらずの笑顔である。
「秋雄さんは忙しかったんですよね? 小隊長ですし、仕事も山積みなんだろうなぁって思ってました」
「なんっ……いや、そう言われるとそうなんだが……」
確かに伊織の言う通り、忙しかったのは事実だ。二週間が経った今だからこそ、博孝に話を振って即座に訓練校へ向かえたとも言える。
しかし、である。忙しかったことと伊織を心配しなかったことは話が別だ。顔を見に行くことができなくとも、電話で声を聞くことぐらいはできたはずなのだから。
「河原崎先輩からも聞きました。秋雄さんはほとんど無傷だったって。でも、怪我がなかったわけじゃないですよね? それに、部下の方たちも亡くなった……だからそっちを優先するのは当然ですよ」
それが当然だと言わんばかりの態度で話す伊織に、野口は強く困惑する。
もしかすると自分が間違っていたのか。“友人”を二週間心配しなかった自分は正常だったのか。
それとも――伊織は野口が心配するとは最初から思っていなかったのか。
「……それとこれとは別だろ? 例え忙しかろうが、ダチの心配をするのが当然で……」
形容しがたい違和感が己の内側に生じたことを察しつつも、野口は一般論を以って説明を行う。いくら野口が死にやすい兵隊稼業に就いているとはいえ、親しくした友人や戦友が激戦地に放り込まれたとなれば心配の一つはするものだ。
野口は伊織のことを友人だと思っており、実際にそれを口に出して伝えてもいる。それを考えれば、『伊織のことを友人とすら思っていない』などと伊織が勘違いするはずもない。
そうでないならば、何故伊織は“そんなこと”だと言い捨てるのか。それが野口には理解できなかったが、伊織は顔に浮かべていた微笑みを深いものへと変える。
「わたしのことを心配しなかったって言いましたけど……今、こうしてわたしの目の前にいてくれるじゃないですか。わたしはそれだけで十分です」
「――――」
その言葉に、野口は思わず絶句した。伊織の言いたいことが理解できなかったのではなく、意図の全てを理解してしまったからだ。
伊織からすれば、自身の想いは一方通行のものだ。以前野口が友人だと言ったが、伊織が感じているのは愛情だ。好意を抱き、恋慕し、募りに募らせて愛すら抱いた。
だからこそ、伊織は野口が二週間経った今になって姿を見せても何も言わない。むしろ喜ばしく、歓喜のあまり抱き着いてしまいたいぐらいだった。
“以前”の野口ならば、任務のついでとはいえ伊織の様子を確認するためだけに訓練校へ赴こうとはしなかったはずだ。
一見すれば面倒見の良い性格の野口だが、それだけではないことを伊織は知っていた。野口は誰とでも打ち解ける代わりに深入りせず、明け透けに接しながらも一歩引いて接している部分がある。
伊織の見立てでは、お互いに色々と察しつつも馬鹿なノリで接することができる博孝が比較的野口と親しいぐらいだ。歳が離れた同性の友人として気軽に話し、何かあればお互いに頼り合うことができるほどに。
しかしながら伊織はそうではない。元々伊織は野口にとって悩みの種であり、それなりに長い時間をかけてゆっくりと、一歩ずつ着実に間合いを詰めたからこそ今がある。
二週間経ってから様子を見に来たとしても、それは伊織からすれば格段の進歩なのだ。どれだけ期間が空いたとしても、野口が自身のことを気にかけてくれたことに違いはないのだから。
「伊織、お前……」
伊織との間にある意識の差に、野口は知らず知らずの内に息を飲んでいた。
伊織は野口に好意を寄せており、会えばその度に言葉にして示す。それは好きだとか愛しているだとか、ありふれたものでありながら心からの本心である。
出会った当初はともかく、今の伊織は自身の想いに対して何かしらの返答は求めていない。無論、野口がその気持ちに応えるならば泣いて喜ぶだろうが、何かを強制することはなかった。
対価は必要ない。ただ、好きでいさせてほしい。
だからこそ伊織は自身が重傷を負ったことを野口に伝えないよう博孝に頼んだ。もしも博孝が伝えていれば、野口は入院している間に見舞いに訪れただろう。伊織のことを考えなかったといっても、聞いてしまえば動かずにはいられない。
そうやって“迷惑”をかけるぐらいならば、何も伝えない方が良いのだ。
(なんだよ、それ……)
伊織の意図を察した野口は思わず内心で呟き、それと同時に疑問を抱いた。
かつて伊織が初めて野口の元に押しかけてきた時は、勢いに任せて告白をしてきた。本人もしどろもどろで何度も爆弾発言を行い、野口に“責任”を取ってほしいと迫ってきたのだ。
しかしながら野口が拒否をすると手を変え品を変え、行動に変化が起きた。好意を表に出し、言葉に乗せてくるのは変わらなかったが、一歩引いて野口が不快に思わないよう振る舞ったのである。
野口はそれを惚れた相手に合わせて行動を変えただけだと思った。野口に好かれるべく、野口が好む態度を取るようになったのだと。
だが、伊織はその範疇を明らかに超えている。野口が振り向くのを最上と思ってはいるだろうが、例え振り向かなくとも良いと思っている。
そこまで考えた野口は、心の中で何かが噛み合う音を聞いた気がした。
(ああ、そうか……コイツを“歪めた”のは、俺か)
その呟きに込められていたのは、諦観と絶望。己が今までに何をしたか思い出し、野口は深い自己嫌悪に陥る。
いくら伊織が一途だとはいえ、野口の態度に何も思わなかったはずもない。伊織の押しの強さもあったが、何も告げずに即応部隊へ転属したことなど極め付けだろう。
(そういや、即応部隊に異動してから初めて会った時には既に変わってたな……)
このままでは“まずいこと”になると判断して異動を願い出た野口だったが、訓練校の修学旅行と柳の護衛任務が重なって再会した時、伊織の反応には戸惑う部分が大きかった。
野口に対して好意を示し、野口に何かあれば心配する点は変わらなかったが、野口からの反応はそこまで気にしていなかった。野口がデートに誘った時などは大喜びしていたが、三時間前に到着するなど野口に迷惑をかけないよう徹底していた節がある。
それもこれも、野口の態度が原因だろう。本当に伊織を思うならば、初めて押しかけてきた時に冷徹に拒絶するべきだった。伊織のことを慮って柔らかく拒絶したが、それこそが間違いだったのだ。
今となっては、全てが遅いが。
「秋雄さん? どうかしたんですか?」
無意識の内に歯を噛み締めた野口に、伊織が心配そうな顔をする。野口はため息を吐きながら首を振ると、背もたれに体を預けて目を閉じた。
なんとも馬鹿げた話だと野口は自嘲する。伊織のことを思って態度に気を付けていたはずが、余計に伊織を雁字搦めにしていたのだ。その結果としてこれほどまでに伊織は歪んでしまった。
伊織が向ける好意を、若い頃特有の熱しやすくも冷めやすいものだと判断したのが間違いだったのか。それとも伊織の危うさを見抜きつつも深入りを避けて放置したのが間違いだったのか。
(言い訳だな……)
そこまで考えた野口は頭を振って否定する。伊織は何も悪くない、悪かったのは態度に曖昧なものを混ぜてしまった自分自身だ。
『大規模発生』の際に伊織を助けたことに関しては後悔していない。それが野口の職務であったし、恐怖に震える子供を助けるのは当然のことだ。
問題は“その後”の対応だったわけだが、最早ここまで事態が進めば野口としてもどうすれば良いかわからない。
この場に来たのは、自分自身の中に明瞭でない渦巻くような感情があったからだ。
伊織のことを心配に思う気持ち、今まで伊織のことを思い浮かべようともしなかった自分自身への怒り、伝えたいと思った“何か”。
それらが野口を動かした。しかし結果はこの様である。伊織の現状に気付き、どうすれば良いかわからなくなってしまった。
伊織の奮闘ぶりに関しては、房江からも話を聞いている。戦う力がなく、怯えることしかできなかった後輩達を守りきったと。
その点だけを見れば、以前とは比べ物にならないほど成長している。だが、野口に関してだけは話が別だ。憧れて、好意を寄せて、慕情を募らせて、挙句の果てに“今”がある。
そんな伊織にどんな言葉をかければ良いのか。野口は一向に答えを出さない自分の頭を拳銃で撃ち抜きたくなったが、何の解決にもならない。
考えがまとまらないままで野口は伊織へと視線を向ける。伊織は野口を心配そうに見つめていたが、野口と視線が合うと柔らかく微笑んだ。
「わたしは大丈夫ですよ?」
そして、慈愛すら込めて言い放つ。その言葉を聞いた野口は顔をしかめると、八つ当たりだと自覚しながらも問いかける。
「……何が大丈夫だってんだ?」
「わたしは死んでません。たしかにその、大怪我しちゃいましたけど、ちゃんと生きてます」
野口は返ってきた言葉を理解しかねた。何を思って伊織がそんなことを言い出したのか、それが理解できない。
「秋雄さんは強いけど優しい人ですから……」
苛立つ野口の気配を感じたのだろう。伊織は笑顔を引っ込めると、真剣な顔つきになる。
「――わたしが死んだかも、なんて考えたくなかったんでしょう?」
全てを見透かすような言葉に、野口の呼吸が止まった。言葉を失う程度の驚愕ではない、体が硬直して呼吸が止まり、野口の目が見開かれる。
「な……にを……」
辛うじてそれだけ絞り出したが、言葉が続かない。伊織は真剣な表情のままだったが、その瞳に僅かな憐憫の情を浮かべる。
「秋雄さん、さっき言いましたよね? 今回の戦いでも多くの部下を“見送った”って……わたしもそうなってたらって考えちゃったんじゃないですか?」
伊織が口にしているのは、野口が二週間もの間伊織の安否を確認しなかった理由。野口本人も明確に理解していなかったソレを、伊織は言葉に変えていく。
「もしかするとわたしの自惚れなのかもしれません。でも、秋雄さんはわたしのことを考えないようにしていた……つまり、わたしの生死を確認したくなかったんですよね?」
伊織は野口のことを深く想っている。だが、それは野口の全てに盲従するということではない。野口の性格を理解し、野口が何に対して悩んでいるかを推測できるぐらいには見てきたのだ。
野口は強いと伊織は思う。
肉体的にも精神的にも鍛え、多くの『ES寄生体』を狩り続けてきたその技量を考えれば、『ES能力者』にも匹敵し得るだろう。さすがに空戦が相手となると戦う手段も限られるが、陸戦の新兵が相手ならば切り崩すことも可能だ。
しかし、野口の周囲にいた者達はそうではないのだ。野口よりも弱く、『ES寄生体』と戦う度に傷つき、倒れてきた。周りの戦友は野口を置き去りにして殉職し、その代わりに野口だけが生き続けてきたのである。
野口は弱いと伊織は思う。
何十、何百と戦友や部下を見送ってきた野口にとって死は身近な存在だ。だが、だからといって何も感じないわけではない。むしろ多くの死を見送ってきたからこそ、身近な人間の死を恐れる。
だからこそ野口は伊織の安否を確認できなかった。怪我で済めば良いが、もしも死んでいたら――。
「ねえ、秋雄さん」
「……なんだ?」
優しく問いかけながら伊織は椅子から立ち上がった。そしてゆっくりと歩き、野口の隣に座ると野口の手を握る。
「わたし、秋雄さんのことが大好きです。強くて優しくて、でもちょっと脆いところがある……そんな秋雄さんが大好きなんです」
囁くように、少しでも野口の心に届くように、伊織は穏やかな口振りで言葉を続けていく。
「さっきは“そんなこと”って言って流しちゃいましたけど、秋雄さんが訓練校に来てくれて本当に嬉しかったんです。あなたの中に、わたしの存在が少しでもある……それが嬉しかったんです」
心の底から喜びが感じられるその言葉に、野口は返す言葉を持たない。静かに相槌を打ち、続く言葉を促す。
「秋雄さんがわたしのことを迷惑に思っていたことも、本当はわかっていました。何を考えて異動したのかも、全部わかっていました」
いくら伊織でも、野口が異動した理由を察していた。野口には自分のことを慮って異動したのだと言ったが、“それだけ”ではないことも察していたのだ。
「あなたは強くて優しいけど、臆病な人……ごめんなさい、秋雄さん。わたしが想うだけに留めていたら、あなたをここまで悩ませることもなかったんですよね」
想うだけで止まれなかったことは、伊織としても申し訳なく思う。自分一人の胸の内に仕舞っておくには、あまりにも想いが強すぎたのだ。
それが結果として野口を追い詰めた。野口は伊織のことを歪めたと思っていたが、それは逆の立場からも言えることである。
伊織の言動が、行動が、野口にも変化をもたらしていた。野口は己の変化に気付かなかったが、伊織は己の変化も野口の変化も共に察し、これ以上野口の“負担”が増えないようにと気遣っていたのだ。
伊織は野口に心配をかけたくなかった。
野口は無意識の内に伊織が死んでしまっている可能性を忌避した。
お互いに、それだけの話である。
「はっ……ははは……」
呆然としていた野口の口から、乾いた笑い声が漏れた。伊織の言葉を噛み砕き、斟酌し、理解し――何も気付こうとしなかった自分自身を殴りつけたくなる。
全ては野口の勘違いだった。伊織のことを慮っていたつもりだったが、それは最早侮辱ですらあった。伊織はただ、野口本人よりも野口のことを理解し、野口のためにと想って行動していたのだ。
数えきれないほどに仲間を見送り、自分だけが生き残ってきた野口。そんな野口だからこそ、伊織のことを意識して忘却していた。
伊織は訓練校という比較的安全な場所にいたが、『星外者』との戦いは日本各地で激戦を巻き起こした。
室町のクーデターに同調した兵士達の離反に、『天治会』の襲撃。さらには清香に操られた『ES能力者』達が暴れ、大量の『ES寄生体』や『ES寄生進化体』まで押し寄せた。
そんな状況ならば、訓練校にいる伊織が無事である保証はない。伊織のことを思うのならば即座に訓練校の状況を確認し、その安否を気遣うべきだっただろう。だが、野口はそうしなかった――できなかった。
伊織の言う通りに、野口の“弱さ”がそれをさせなかったのだ。
野口は伊織に握られている左手ではなく、右手で己の顔を覆う。そして何度も深呼吸をすると、絞り出すようにして呟いた。
「……なんとも、まあ、無様なことだなぁ、おい……」
意識して伊織のことを忘れていたということは、翻せばそれだけ伊織のことを強く意識していたということだ。
――もしも伊織が死んでいれば、立ち直れないぐらいに。
「秋雄さん……」
呆然と呟く野口の姿に、伊織は気遣わしげな声をかける。これまで野口のこのような姿は見たことがなく、伊織にとっても予想以上の反応だった。
己の行いを唾棄し、絶望すら覚えたその姿。顔を覆った右手は野口の後悔を表すように震えており、僅かに見える口元も震えている。
そんな野口の姿を目の当たりにした伊織は、心臓を鷲掴みにされるような衝撃を覚えた。
伊織にとって、野口は“強さ”の象徴である。異性として恋い焦がれるだけでなく、『大規模発生』の際にただの人間の身でありながら『ES寄生体』を倒して己を救ったその雄姿は、今でも伊織の脳裏に鮮明に焼きついていた。
野口の背中を追いかけ、いつかは追いつきたい。隣に立ち、野口を支えられる自分で在りたい。そう思うからこそ伊織も一年という期間で急成長することができた。
そんな野口が、自分の前で“弱さ”を剥き出しにしている。
その事実に伊織の心中は軋みを上げ――同時に、言葉に出来ないほどの昂揚感を覚えた。
自分で言葉にした通り、伊織としては野口の負担になることは望んでいない。一方的に想いを押し付けてしまったことは反省しているが、それは伊織自身でも止められない熱情に因るものだ。
野口から友人として見てもらえただけでも十分に嬉しかった。『嬢ちゃん』ではなく名前を、伊織と呼んでもらえるだけで嬉しかった。しかし、今回の一件で野口が友人以上の存在として自分見ていたことが明らかになった。
それが伊織にとってはこれ以上ないほどに嬉しく、心を震わせる。
「――無様でもいいじゃないですか」
だが、“それ”では駄目なのだと伊織は思う。自身が憧れ、恋い焦がれた男に負い目を与えて罪悪感に浸らせるなど、状況が許しても伊織の矜持が許さない。
それ故に伊織は声色に厳しさを込め、野口の手を強く握り締める。
「秋雄さんはひどい人です。わたしが押し掛けたのが原因ですけど、何も言わないで異動しちゃいました。あの時は足元に穴が開いたみたいで、思わず膝をついちゃうぐらいショックでした」
責めるように厳しく、それでいてどこか優しさがこもった声だった。
「秋雄さんはひどい人です。会う度に嬢ちゃん嬢ちゃんって、わたしの名前を呼んでくれるまで何ヶ月もかかりましたよね。もしかして、わたしの名前を覚えてないのかなって凹みました。実はすごくショックでした」
強く握った手をほどき、指を絡める。
「秋雄さんはひどい人です。わたしの方から追いかけたら逃げちゃうのに、不意打ちみたいにデートに誘ってわたしを驚かせました。うん……嬉しかったけど、心臓が飛び出るかもって思うぐらいビックリしました」
指を絡めた野口の左手を、伊織は持ち上げる。そして大切なものを包むよう、両手で握り締めて額に当てた。
「秋雄さんはひどい人です。好きだとも嫌いだとも言ってくれません。受け入れてくれないなら、いっそ嫌いだって言って切り捨ててくれれば良かったのに……」
額に当てた、自分の両手で包んだ野口の手。伊織は目を閉じて手の中の温もりを感じ取ると、口元をほころばせる。
「秋雄さんはひどい人です……本当に、本当に、ひどい人です」
非難するように言い募りながらも、その声は柔らかい。伊織は野口の手を握ったままで目を開けると、驚いたように顔を歪める野口と視線を合わせた。
「秋雄さんがわたしのことを考えて距離を取っていたって、わかってました。自分の半分ぐらいの歳の女の子に言い寄られても困るだけって、わかってました」
最初の出会いこそ強烈で、ただの人の身でありながら『ES能力者』を救ったその姿に強く惹かれたといえど、今でも伊織の想いは変わらない。
「それでも好きです」
改めて、伊織は己の想いを言葉にする。受け入れられることを願うからではなく、野口の心を晴らすために。無様だと己を卑下する野口の全てを肯定するために。
「河原崎先輩達の面倒を見ていた時の優しい顔が好きです。わたしを助けてくれた時の険しい顔も好きです。わたしが作ったお弁当を、なんだかんだと言いながらも食べてくれた優しさが好きです。面倒臭がりを装って、実は頑張り屋なところも好きです」
出会って一年程度。傍にいられた期間はそれよりも遥かに短い。年齢は倍近く離れていて、自分から近づかなければ一向に近づいてくれない。
それでも伊織は野口の良いところを知っている。それと同じぐらい、悪いところも知っている。知るように努力し、覚え、忘れなかった。
忘れようが、なかった。
「――例え無様だろうと、大好きです」
野口のことを考えれば、身を引くのが最善だとわかっていた。野口の優しさにつけこんで押しかけていた自覚もあった。しかし、野口と接している間に思ったのだ。
目の前の男は、誰かが重しにならないとあっという間に消えてしまう。容易く死線に踏み込み、そのまま帰ってこなくなる、と。
『ES能力者』ではないただの人間の身でありながら、三桁もの『ES寄生体』を倒したその実績。他者が聞けば称賛するしかない偉業だが、野口がそれだけ死線に踏み込んだ証しでもある。
『星外者』が倒れたことで平和が訪れた世界ではあるが、『ES寄生体』まで絶滅したわけではない。兵士である野口はこれまで通り任務へと赴き、『ES寄生体』と戦い、倒し、そして――死ぬ。
“このまま”では何の前触れもなく、これまで百を超える『ES寄生体』を倒した男が死ぬと伊織は思った。死線に踏み込んだままで帰ってくることができず、野口本人も戻る気にならず、そのまま死ぬだろう、と。
だからこそ伊織は自分こそが野口の“生きて戻る理由”になりたかった。死に瀕した際、死を受け入れるのではなく拒むための存在になりたかったのだ。
結果として今回の戦いでは伊織の方が重傷を負い、野口の方がほとんど無傷という形に終わっている。だが、人間である野口は伊織のように頑丈ではない。ES能力で怪我を治すこともできず、少しの不運が重なるだけで死んでしまう。
もしかすると野口もそれを望んでいるのかもしれない。これまで数えきれないほどの戦友と共に戦列に立ち、数えきれないほど先立たれてきた。一人で残されてきた野口は、いざ“自分の番”が回ってきても笑って死ぬのではないか。
――“そんなもの”は認めない、認められない。
伊織にとって、野口は惚れて好いて愛した男なのだ。例え友人としか見られずに終わっても良い。だが、このまま野口が野垂れ死にすることだけは我慢できない。
これが自分自身の我が儘でエゴだということは伊織も理解しているが、止まる気は微塵もなかった。
握り締めた野口の手を優しく解き、伊織は真っ直ぐに見つめる。
「秋雄さん、わたしと約束をしましょう」
「……約束?」
先程よりも険しさが抜けた野口の顔に、怪訝そうな色が宿った。伊織の言葉と想いは野口にも十分に伝わっていたが、このタイミングで口にする約束とは何なのか。
僅かに警戒心が働いた様子の野口に、伊織は内心で苦笑する。以前は伊織が何か言う度に身構えていたのが、懐かしく思えたのだ。
「“次”に会うための約束です。友達として一緒に遊びに行きましょう。わたしは絶対に約束を守りますので、秋雄さんも約束を守ってください」
そう言って伊織は右手の小指を差し出す。子供だと思われるかもしれないが、指切りというのは案外馬鹿にできない。言葉だけで約束を交わすよりも、何かしらのアクションを挟んだ方がそれだけ印象に残るのだ。
「約束、か……」
以前、デートをした際に野口も言っていた。予定が合えば遊ぼうと、食事にでも行こうと。
自分が口にした言葉を思い出し、野口は伊織が差し出した小指をじっと見つめる。
いくら博孝が『星外者』を倒したといっても、兵士である以上はいつ死ぬかわからない。そのため不確定な約束を交わすというのは野口としても引っかかるものがあった。
そんな野口の不安も伊織は見通す。小さく微笑み、約束を一つ付け足すことにする。
「はい、約束です。あと、わたしはもう一つ秋雄さんに約束します。これはわたし個人の約束……宣誓みたいなものなので、秋雄さんは気にしないでください」
伊織の言葉に野口は首を傾げた。一体何なのかと話の続きを促し――伊織は華やかに微笑む。
「わたしは絶対に死にません。今以上に強くなって、誰が相手だろうと、何が相手だろうと負けません。それを約束します」
「っ……伊織、お前……」
野口が親しい人間の死を恐れるのならば、死ななければ良い。伊織が導き出した答えは非常にシンプルだが、『ES能力者』として生きていく以上は死の危険が付きまとう。
そんな不信と不安を、伊織は笑い飛ばした。
「わたしは絶対に生き続けます。秋雄さんが“約束”を守り続けてくれる限り、絶対に死にません。秋雄さんが会おうって思えばいつでも会えます」
野口は自分が死ぬことよりも他人の死を恐れている。だからこそ、伊織は『自分は死なない』と宣言した。もしも“離れる”ことがあるとすれば、それは野口が命を落とした時だけだろう。
「……もしも、もしもだ。俺が任務で死んだらどうする?」
伊織の気持ちと考えはわかった。その上で野口は静かに尋ねる。
それは、かつての野口が伊織に対して抱いた危惧だ。押しかけてきた伊織に対し、執着する相手が死ねばそのまま死にかねないと野口は判断した。
その時点で伊織のことを慮っていたとも言えるが、それは野口自身、遠くない内に命を落とすと思っていたからだろう。
「泣きます。悲しんで泣き喚きます――でも、生き続けます」
そんな野口の疑問に対して、伊織は微笑んだままで答えた。
「生きて、生きて、生き続けて。どれぐらい先になるかわかりませんけど、おばあちゃんになってから死にます」
『ES能力者』の寿命に関しては、いまだにわかっていない。『ES能力者』の中でも最高齢である源次郎を基準に計算して三百年程度の寿命が見込まれているが、これもどうなるかわからないのだ。
どんなに長い時間だろうと、生き抜いてから死ぬと伊織は言う。
「……どう足掻いても、俺の方が先に死ぬな」
「ええ。わたし、『ES能力者』ですから」
例え戦死しなくとも、寿命の差で野口の方が先に死ぬ。しかし、伊織はそれで構わない。
そう断言する伊織の姿に、野口は目を細めた。初めて出会った頃に感じた危うさなど、今は微塵も見受けられない。
それが妙に嬉しく、また、寂しくも思う自分がいることに気付き、野口は妙な感慨を覚えた。
「“途中”からは約束を守ることも、新しい約束をすることもできなくなっちまうが……」
「それでも何十年もあるんですよ?」
それで良い。伊織にとっては、その何十年どころか何年、何日でも十分過ぎる。例え野口が死ぬことがあっても、その間に積み上げた思い出だけで生き抜くことができる。
伊織の表情と声色には、一片の躊躇も嘘もなかった。それを見抜ける程度には付き合いがあり、野口は深々とため息を吐く。
「……その熱意を、他の男に向けりゃあいいものを」
「秋雄さんが相手だから向けるんですよ?」
暗に『ES能力者』の男に想いを向けろと言ってみるが、伊織は揺らがない。野口は再度ため息を吐くと、ゆっくりと首を振る。
「情けない話だが、俺にはお前さんほど想える自信がねえ。それで良いっていうのか?」
「相手と同じぐらい思い遣らなくてもいいじゃないですか。秋雄さんがわたしのことをそれだけ想ってくれるのなら嬉しいですけど、絶対にわたしの方が秋雄さんのことを強く想ってますし」
自信満々で言い切る伊織に、強くなったと野口は思う。『ES能力者』としての技量もそうだが、“人間として”強くなっているのだ。
もしかすると、出会った当初に伊織に対して抱いた印象も間違っていたのかもしれない。そう思えるほど、伊織の言葉には力強さがあった。
野口は伊織から視線を外すと、懐から煙草を取り出して咥える。そして火を点けて紫煙を吸い込み、天井に向かって吐き出した。
「……あー、煙草もやめるかねぇ」
「なんでですか? 秋雄さんが煙草を吸う姿、わたしは好きですよ?」
突然の野口の言葉に、伊織は不思議そうな顔をする。この流れで何故煙草をやめることにつながるのか、伊織には理解できなかったのだ。
野口は真横から注がれる疑問の視線に対し、体を捻って伊織に背中を向ける。そして、ぽつりと呟いた。
「まあ、なんだ……“長生き”しないといけねえな、なんて思ってな」
ぶっきらぼうな、羞恥心を隠すような口振りだった。その言葉を聞いた伊織は笑顔を崩して目を見開き、次いで、ゆっくりと笑顔へと戻っていく。
「秋雄さんの好きにしたらいいと思います。わたしはどんな秋雄さんでも大好きですから」
「はっ、そうかい」
伊織の言葉に小さく笑い、野口は煙草を携帯灰皿へと押しつける。そして体ごと伊織の方へ向き直ると、口元に笑みを浮かべながら頭を掻いた。
「何もこんな不良兵士を捕まえなくてもいいだろうに」
「わたしにとっては誰にも負けないぐらい最高の英雄で、愛しい男性ですから。それこそ秋雄さんなら『武神』にも勝てると思ってます!」
「いや、待て、待ってくれ。普通に死ぬからな?」
新兵の『ES能力者』ならあしらえる自信があるが、さすがに『武神』が相手だと一撃で殺されるだろう。これも伊織なりの冗談なのだろうが、素で信じていそうで怖かった。
「ふふっ、さすがに冗談ですよ。でも、わたしにとって秋雄さんが英雄であることに違いはありません。強くて優しくて、でもちょっぴり臆病でいじわるな、わたしだけの英雄。それが秋雄さんです」
だが、返ってきた伊織の言葉に野口は目を見開く。無邪気に、それでいてこれ以上ないほどの信頼と愛情が込められた言葉に、野口は数秒の間を置いてから笑い出した。
「く……はははっ。ああくそっ、負けだ負け! 俺の負けだよちくしょう!」
大声を上げて笑い始めた野口に、伊織は何事かと目を丸くする。そんな伊織の反応を見た野口は余計に笑い声を大きくし、一分ほど笑い続けてから表情を引き締めると、傍にあった伊織の手を握った。
「伊織、改めて謝罪する。すまなかった。俺はお前を見くびっていた……いや、敢えてそう思うことにしていたんだろうな」
それは、野口の偽らざる本心だ。伊織のことを思い遣るという名目で、己の逃げ道を探していたのだ。しかし、今目の前にいる伊織は――“女性”は、そんな逃げ道を許容した上で野口を肯定し続けた。
「お前さん、良い女になったな。俺にゃあ勿体ないぐらいだ」
「そ、そうですか?」
故に、野口も本気で伊織と向き合う。散々待たせ続けた逃避に、終止符を打つ。
突然手を握られて照れている伊織。驚きもあるがそれ以上に嬉しそうなその顔を見て、野口の決意は固まった。
「ああ――惚れちまうぐらい良い女になった」
「…………………………え?」
数秒、何を言われたのか理解できずに伊織は首を傾げる。だが、真剣に、真っ直ぐに見詰めてくる野口の眼差しと態度に、じわじわと理解の色が広がっていく。
「そ、それは、あのっ、えっと、そ、“そういうこと”ですか?」
何がどういうことなのだろうか、などと野暮なことは言わない。野口は口の端を釣り上げて笑うと、伊織の手を握る力を強める。
「お前さんが訓練校を卒業するまでに答えを出すって言ったよな? あれ、取り消させてくれ。ちぃとばかし早いが、今、この場で応える……いや、俺の方から言わせてほしい」
真剣な野口の声色に、伊織も表情を引き締めた。ただし、表情とは裏腹にその心情は正直だ。首筋から急激に朱色に染まりつつあり、僅かな時間で期待と嬉しさで伊織の顔が真っ赤になる。
――そんな伊織を美しいと、可愛いと思ってしまったのは、野口の心情の変化によるものか。
「惚れたよ。お前さんに言われるまで自分のことすら理解してなかった馬鹿な男だが、そんな男で良ければ一緒に生きてほしい……ま、なんだ」
顔を真っ赤にして“告白の言葉”を聞く伊織に対し、野口は自嘲する。
伊織の言う通り、酷い男だと野口は思う。これまで距離を取って素っ気なくしていたというのに、一度自覚してしまえばもう駄目だ。一年という短い時間で自分のことを自分以上に知り、その上で脆さを含めて全てを肯定してくれたのだ。
――目の前の少女を手放したくないと、強く想ってしまった。
野口は伊織を立たせると、自分も立ち上がる。その間も伊織の手を握ったままだったが、それを気恥ずかしいと思うよりも嬉しく思ってしまった。
手を握ったままで向かい合い、野口はじっと見上げてくる伊織を同様に見詰め返す。
「お前さんの言葉を借りる形になるが、“約束”をしよう」
一回、二回と深呼吸をしてから野口が切り出す。それは伊織への宣誓であり、野口自身への決意の言葉。
「俺は絶対に死なねえ。死ぬとしたら畳の上で大往生だ。それまで絶対に生き抜く」
「……はい」
野口の宣言を伊織は静かに受け止めた。顔は紅潮したままだが、目尻には少しずつ涙が溜まっていく。
「伊織、お前さんより早く死ぬことについては勘弁してくれ。どう頑張っても五十年かそこらが限界だ」
「……許します。我慢します。でも、頑張ってくれると嬉しいです」
どうやっても避けられないが、野口の言う通りこればかりは仕方がない。だからこそ、野口と伊織は数十年先の未来よりも今この時を優先する。
「あとはまあ、ほら、アレだ……」
伊織を見詰めたまま、野口が言いよどんだ。そして言葉を探すように目を閉じるが、野口が何かを言うよりも先に伊織が動く。
「秋雄さん、大好きですっ!」
正直に言えば野口の口から聞きたかった――が、こうやって野口を促すことも大事だと、伊織は思う。
そもそも、さすがの伊織も限界が近かったのだ。自分の想いを言葉にして、飛び付くようにして野口に抱き着いていた。
野口はそんな伊織を慌てて抱き留めたが、またもや自分の心中を先取りされてしまったことに嘆息した。
「ああ……俺もだよ」
そう言って自分の意思で伊織を抱き締め、野口は優しく微笑むのだった。
野口秋雄は兵士である。
ただの人の身でありながら、『ES寄生体』も倒せる歴戦の兵士。ただし、その強さとは裏腹に弱さも抱えた、ただの人間だった。
白崎伊織は『ES能力者』である。
気弱で大人しく、争いごとも苦手な少女。ただし、一人の男を愛し、様々な面で強くなった少女だった。
これは、一人の少女と一人の兵士が結ばれ、長い永い人生を共に歩き始める第一歩。
共に約束を交わして歩き始めた――そんなお話である。
前回の閑話、1万5千字超えた上にシリアスだったから少しは軽い雰囲気にしよう → 2万字近い上に相変わらずのシリアス
どうも、作者の池崎数也です。
なんだかんだと続いていた野口と伊織の閑話も、これにて閉幕でございます。本編の『あとがき』に倣い、伊織と野口に関して以下に少々書ければと思います。
閑話なのに本編の頃から数えて全部で7話。文字数も今回は2万字近く、合計で10万字を超えるでしょうか……中編作品一本書くより長くなりました。
『大規模発生』にて降って湧いた、当初はプロットにも存在しない伊織でしたが、読まれた方の反応の良さもありまして下手なレギュラーキャラよりも輝くことに……閑話の序盤ではちょっとアレなキャラでしたが、最終的には彼女も拙作のコンセプトに則って『成長』した、という形で書けていれば幸いです。
本編では自重していた『重い』キャラとして描く機会にもなったので、作者としては満足です。前作を読まれていない方には通じないと思いますが、優希とサクラの中間みたいな感じですかね。
不良兵士でぐだぐだ言いながら『ES寄生体』を倒す野口にも、色々と抱えているものがありました。博孝達にとっては良き兄貴分で歳の離れた友人のような立ち位置でもありましたが、実のところは割と切羽詰っていました。
伊織を除き、全部に気付いていたわけではないですが、それを少しでも察することができたのは博孝だけであり、それもあって博孝は恭介たちを連れて野口のもとに遊びに行っていたという裏話が。
本編で種明かしできなかったそういった部分も描写できていれば、とも思います。本編で描ければ良かったのですが、野口まで掘り下げて書くと本編の話数がさらに伸びていたので……。
次の閑話を書くとすれば砂原に関する物語……のような気もしますが、純粋に砂原の後日談になるかはわかりません。以前感想欄にて返信した際の不幸な『きょうすけ』さんが出てくるかもしれません。
それでは、こんな拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。




