エピローグ その6 家族
清香との戦いが終わり、二週間の時が過ぎた。
負傷者の治療に一週間、半壊した即応部隊の基地を最低限復旧させるのに一週間。その間博孝は寝る暇もなく働き続けていたが、その日は基地を離れ、沙織と共に“とある施設”を訪れていた。
「あっ、おにぃちゃん! さおり!」
その施設に到着するなり、『構成力』の接近で気付いていたと思わしきみらいが出迎える。博孝は飛びかかるようにして抱き着いてくるみらいを抱き留め、その場で一回転して勢いを殺してから地面へと下ろすと、元気溌剌といった様子のみらいに苦笑を浮かべた。
「元気いっぱいでけっこうなことだけど、ほどほどにな? 周りに人目もあるしさ」
博孝達が訪れた施設――被害が少なかった第四空戦部隊の基地では周囲に人目があるのだ。空戦部隊の基地ということで所属するのは年配の者が多く、みらいの行動を微笑ましく見ている者が大多数を占めているが、公私の切り替えは大事である。
博孝がそう言って注意を促すと、みらいは頬を膨らませながらも従った。
「うん……でも、にしゅうかんぶりだったし……」
「そうね。二週間も離れてたら抱き着きたくもなるわよね」
博孝から身を離しながら呟くみらいに、沙織が微笑みながら同調する。そして膝を折ってみらいと目線を合わせ、そのまま十秒ほど抱き締めると、表情を平常のものへと戻してから身を離した。
「でも、博孝の言う通り人目もあるわ」
「……うん」
表情を引き締めてみらいを注意する沙織。博孝と沙織が注意をしたことでみらいも納得したのか、唇を引き結んで真面目そうな――みらいからすれば真面目と思われる表情を作った。
「にんむごくろうさまです! ほりょはこっちです!」
そして敬礼をしながらそんなことを言い出す。幼子が背伸びをしているようなその振る舞いに博孝の口元が緩みそうになるが、それをなんとか堪えて敬礼を返した。
「ご苦労、河原崎伍長。行くぞ、長谷川曹長」
「はっ!」
周囲の目もあるため、博孝は形式に則った対応をする。沙織もそれに倣うと、みらいの先導で歩き出した博孝に従った。
みらいが口にした通り、博孝はこの基地に収容されている捕虜に関して確認しにきたのである。
第四空戦部隊はかつて斉藤が所属していた部隊だが、先の戦いにおいて基地の被害が少なかった。そのため『天治会』の『ES能力者』を収容するための施設の一つとして扱われており、捕虜が暴れた時に備えてみらいが詰めていたのである。
さすがに大人数の『ES能力者』を捕虜として捕らえておくことは難しく、この基地に捕虜として収容されているのは二十人程度だ。捕虜の多くが協力的であり、管理は難しくないのだが、“もしもの場合”に備えて分散させてあった。
捕虜の中には清香に操られていた者が多く、自ら進んで『天治会』へと所属していた者は先の戦いでほとんどが命を落としている。危険度が高い者に関しては『零戦』が引き取って監視をしているため、大きな問題にはならないだろう。
国に管理される『ES能力者』の立場を疎んで『天治会』に所属した者、他国への“妨害任務”の一環として所属した者、そして、紫藤の父親である武治のように家族や友人などを人質に取られて強制的に所属させられていた者。
この基地に捕虜として置かれている者は、様々な理由から『天治会』に所属せざるを得なかった者ばかりだ。そのため博孝が清香を討ち取った今、自ら望んで事を荒立てるような真似はしなかった。
それでも、様々な国の『ES能力者』が捕虜として捕らえられている現状は非常に宜しくない。清香に操られていたとはいえ、見方を変えれば多国籍軍が日本に襲撃を行ったとも取れるのだ。
他国でも『ES能力者』や『ES寄生体』が暴れたため大きな被害が出ていたが、日本と比べればその規模は小さい。何も知らない者からすれば『ES寄生体』の大量発生に乗じ、宣戦布告もなしに複数の国が連携して襲ってきたとしか見えなかった。
そのため“上”の方では現場の『ES能力者』達以上の修羅場が訪れており、捕虜から聞き出した情報をもとに、所属する国家に対して外務省を通じて猛抗議をしている最中である。
世界的に名を馳せている源次郎が矢面に立ち、“本当に”侵攻されないよう注意しつつも今回の戦いに関して落としどころを探っているそうだ。話がまとまれば捕虜も解放できるだろうが、現状ではそれも難しかった。
――そして、解放するには色々と問題がある捕虜も存在する。
コツコツと軍靴による足音を立てながら基地内を歩き、時折向けられる敬礼に応えながら、博孝は基地の地下へと案内された。
コンクリートで造られた殺風景な壁と廊下。廊下を進めば左右にいくつもの扉が設けられ、中からは人の気配と『構成力』を感じられた。
部屋の中には今回の戦いで捕虜になった『ES能力者』達が囚われており、以前清香達『星外者』に監禁された博孝としては思わず眉を寄せてしまう。
「ここだよ……です」
そして廊下の一番奥、一際頑丈そうな扉の前で立ち止まったみらいがそう言った。地下に降りる時もそうだったが、脱走などに備えて等間隔で『ES能力者』が立っており、みらいが案内した扉の両脇にも見張りの『ES能力者』が立っている。
博孝が姿を見せると即座に敬礼が向けられ、博孝は内心で苦笑しながら敬礼を返した。階級が上だという面もあるが、清香との戦いによって軍内部で顔と名前が知れ渡っているのである。
“面会”の許可はもらっているため沙織やみらいと共に扉を開け、部屋の中へを足を踏み入れた。するとそれに気付いたのか中の捕虜が――ベールクトが顔を上げて目を見開く。
「……お兄、様?」
「ああ……顔を見にくるのに時間がかかって悪かったな」
呆然とした声を漏らすベールクトに対し、博孝はバツが悪そうに頬を掻いて答える。
言い訳をするつもりはないが、戦いが終わってから今に至るまで本当に時間がなかったのだ。ようやく仕事に一区切りがついたため足を伸ばすことができたが、即応部隊の基地に戻れば再び書類と戯れる時間が始まるだろう。
捕虜であることを示すためか、ベールクトの両腕には手枷が嵌められている。さらには服装も淡い緑色の囚人服に変わっており、見慣れたドレス姿ではなかった。
それでも食事などはきちんと出されているのか顔色は良く、突然来訪した博孝に目を丸くしているだけである。
博孝は感覚を研ぎ澄ませてベールクトの『構成力』を探るが、清香に操られていた時のような違和感はない。清香が消滅したことでその支配から脱したベールクトだが、悪影響なども残っていないようだった。
里香もそうだが、博孝も『天治会』の捕虜と会う時は清香の『構成力』が残っていないかを確認するようにしている。
清香が消滅した以上問題ないと思っているが、用心をしておくに越したことはない。それでも今のところ清香の『構成力』が残っている者は存在せず、博孝も里香も密かに安堵で胸を撫で下ろしていた。
博孝がベールクトの様子を確認していると、それを感じ取ったのかみらいがどこか不機嫌そうな様子で博孝の前へと移動する。そしてベールクトを庇うように立ち、博孝の視線から遮ってしまった。
「いじめちゃだめ! べるはいいこだよっ!」
「――――」
博孝の視線に何を感じ取ったのか、両腕を広げたみらいがそう吠える。そんなみらいの行動に思わず沈黙した博孝だったが、時間が経つにつれて口角が吊り上がり、最後には堪えきれず噴き出してしまう。
この二週間で何があったかは知らないが、ずいぶんと“お姉ちゃん”になってしまったらしい。外見だけで判断するならばベールクトの方が年上に見えてしまうが、庇うようにして立つみらいの姿は妹を守ろうとする姉の気概に燃えていた。
「お姉様っ……」
そんなみらいの啖呵に感動した様子で瞳を潤ませるベールクト。博孝はベールクトの反応にも“妹らしさ”が滲んでいたことに笑みを深めたが、頬を揉み解すことで表情を平静のものへと戻した。
――元の表情に戻すまで、十秒ほど時間がかかったが。
「いじめたりなんてしないさ。今日は色々と用があってベルに会いに来ただけだしね」
頬を膨らませて立ち塞がるみらいの頭を撫で、安心させた博孝がベールクトへと視線を向ける。その視線を受けたベールクトは僅かに身を震わせたものの、背筋を正して博孝の言葉を待った。
「さて、と……改めて、久しぶりだな。元気そうでなによりだよ」
「ええ、お久しぶりですお兄様。わたしの方は、その、お、お姉様がなにかと世話を焼いてくださったので……」
僅かに頬を赤らめ、言いよどむベールクト。どうやらみらいは“妹”ができたことが嬉しかったらしく、この二週間で徹底的に構い倒したらしい。
訓練校第七十一期卒業生の面々は兄や姉であり、市原達は後輩であり、砂原の娘である楓やアイドルの優花は友人である。だが、これまでにない立ち位置である妹という存在の登場に、みらいとしては居ても立ってもいられないようだった。
(俺は戸籍上の兄だけど、ベールクトは“色んな意味”で妹だからな……可愛がりたくなるし、構いたくなるのも当然か)
『天治会』によって生み出された人工の『ES能力者』であるみらいとベールクト。みらいに関しては発見されてすぐに、ベールクトもこの二週間で身体検査が行われたが、その結果はみらいとベールクトの関係性と浮き彫りにさせた。
博孝はベールクトから直接聞いていたが、検査の結果でわかったのはみらいとベールクトが正真正銘の“血縁”であることだ。ベールクトの話では他にも同じような境遇の者がいたそうだが、捕虜の中では発見されていない。
今のところ、みらいにとってもベールクトにとっても互いに一人きりの家族なのだ。戸籍上は博孝の家族であるみらいだが、みらいにとってはベールクトも特別な存在なのだろう。
「仲が良くて俺としても嬉しいところだよ。さて、それでだな……」
姉妹として仲を深めた様子のみらいとベールクトに、博孝は目を細めた。だが、ここに来たのは二人の仲を確認するのが目的ではないのだ。
博孝が目配せをすると、それに気付いた沙織が鞄から封筒を取り出す。封筒の中には書類が納められており、そこにはこれまでの調査で判明したベールクトに関する情報が書かれていた。
ベールクトも素直に調査に応じたからか、そこには大量の情報が記載されている。博孝がこの場を訪れたのは、まとめられた情報に齟齬がないかを確認するためだ。
博孝が相手ならばベールクトが嘘を吐くとは思えず、もしもベールクトが暴れたとしても沙織と二人がかりならば容易く鎮圧できる――という“建前”で忙殺されそうな書類仕事から抜け出してきた。
「ここからは真面目な話でな……みらい」
真剣な声を出すと、それを察したみらいも渋々といった様子でベールクトから距離を置く。二週間の時間をかけて姉妹として仲を深めたみらいだが、公私を分ける時だと察したのである。
博孝は姿勢を正したベールクトに対し、書類の内容を読み上げていく。
名前、出身地、『天治会』での階級および立ち位置、保有するES能力、これまでに参加した作戦に関する情報。他にも細々とした情報が載っていたが、博孝は一つ一つ読み上げて齟齬がないことを確認していく。
ベールクトの場合は名前や出身地など、“正しい答え”が存在しない部分もあった。そのため特記事項として人工の『ES能力者』であることも記されているが、みらいという前例があったため源次郎達も問題視していない。
――“問題”は、他にもあるのだが。
「さて……読み上げた内容に間違いはないか?」
「……はい」
時間をかけて内容に漏れがないか確認する博孝。それを聞いたベールクトは小さな声で返事をすると、居心地が悪そうにしている。自分がこれまで何をしてきたかを博孝から確認され、後悔が押し寄せているのだ。
ベールクトはみらい以上に外見と実年齢の差が激しく、『天治会』の戦力として運用された期間も短い。みらいと比べれば様々な面が発達しているが、その年齢はみらいの半分にも満たなかった。
博孝は思わず眉を寄せ、不快感を表に出してしまう。しかしすぐさまそれに気付き、指で眉間を揉みほぐしながら口を開いた。
「生まれ方、育った環境……情状酌量の余地があると俺は思ってるけど、『天治会』の一員として悪事に加担してきたのは事実だ。ちなみに、ベルと同じような境遇の子は?」
みらいやベールクトだけでなく、他にも人工の『ES能力者』が存在しているはずだ。そう断定して尋ねる博孝に対し、ベールクトは表情を悲しげなものへと変えた。
「……みんな、生まれる前に死ぬか、生まれてすぐに死ぬか、育ってる途中で死ぬか、訓練中に死ぬか、任務で死ぬか……わたしと同じぐらい育つことができたのは五人もいなかったと思います」
「……そうか」
ベールクトの言葉に頷き、博孝はみらいに目配せをした。すると、それを察したみらいがベールクトの傍へと駆け付け、慰めるようにしてベールクトの頭を抱き締める。
報告書の内容に関してはおおよそ確認できたため、公私を分ける必要もなくなったのだ――と、博孝は自分に対して言い訳をした。
清香との戦いが終わってからの二週間で、日本各地から多くの情報が集まっている。その中には『天治会』側の被害も含まれていたが、ベールクトと似たような外見の死亡者がいたとは聞いていなかった。
みらいとベールクトが同一の遺伝子から生み出されただけであって、他の人工『ES能力者』に関しては別だということだろう。ベールクトの語った“仲間”がどうなったのか、今となっては知る術もない。
博孝はベールクトに悟られないよう小さくため息を吐くと、終盤に差し掛かった報告書へと目を落とす。
「一応聞いておくけど、率先して人を殺したことは?」
みらいに抱き締められたことで落ち着きを取り戻したベールクトに振りたい話題ではなかったが、職務だと自分に言い聞かせて博孝は尋ねる。その質問を聞いたみらいの眉尻が吊り上がったが、みらいも職務を弁えているため何も言わなかった。
ただ、ベールクトを抱き締める力が、ほんの少し強くなっただけである。
「……ないです。その、何かあればフェンサーが肩代わりしてくれていたので……」
「そうか、フェンサーが……」
みらいの行動に背中を押されたのか、ベールクトは後悔を感じさせる声で答えた。その返答を受けた博孝は、交戦したことがあるフェンサーの顔を思い出しながら声を漏らす。
博孝が交戦した時はベールクトと共に行動していたが、“色々と”サポートしていたのだろう。何を思ってベールクトを庇っていたのかは、フェンサーが死んだ以上聞くこともできないが。
聞くべきことを全て聞き終え、博孝は困ったように頭を掻く。これ以上何か聞けば、子猫のように威嚇しているみらいが飛びかかってきそうだ。
『活性化』をコピーするべく博孝のもとへと現れたみらいだが、ボタンを一つ掛け違えればベールクトの立ち位置に自分がいたと理解している。だからこそベールクトに構い、庇おうとするのだろう。
「『天治会』が生み出したとして、まともな教育を受けさせてもらえなかったのは確定、と。社会常識は踏み倒すだろうし、情操教育なんて教えるはずもないだろうし、教えられたのは精々戦闘方法ぐらいか……それもかなり杜撰ってのが何とも言えないな」
これ以上聞くことはない。それを示すように書類を封筒に戻しつつ、博孝はベールクトの今後に関する話へと移る。
言葉にした通り、ベールクトは生まれも育ちも特殊だ。
『星外者』が『活性化』を持つ『ES能力者』を人工的に造ろうと画策し、その結果として生まれたのがみらいやベールクトである。『活性化』を発現しなかったため『天治会』の戦力として扱われていたが、かなり雑な扱いだったことが窺えた。
ベールクトの戦い方は莫大な『構成力』と『火焔』に頼った力任せなものだ。みらいよりも技術的に拙く、その精神も育っていない。
砂原のような教官がいなかったのならば話もわかるが、博孝が交戦した感想として、フェンサーなどは教官職が可能な実力と経験を兼ね揃えていた。環境が許さなかったのかもしれないが、ベールクトの才能を思えば非常に杜撰な結果である。
『火焔』という独自技能があるとはいえ、きちんとした教導を受けずにほぼ我流でここまで至ったというのなら、凄まじい天稟だと博孝は思う。博孝達は砂原という師の元で徹底的に鍛えられたが、ベールクトは我流でありながら博孝達に匹敵する強さを持つのだ。
身近なところで考えれば恭介並みか、それ以上の才能だろうと博孝は思う。そして、“だからこそ”ベールクトを野放しにすることはできない。
「ここで問題になるのがベルの今後の処遇に関してなんだけど……」
そう言って水を向けてみると、ベールクトは覚悟を固めた様子で頷く。
その隣ではみらいが親猫を守ろうとする子猫のような威嚇を継続しているが、博孝は見なかったことにした。他人の目があればさすがに見逃せないが、ベールクトの調査という職務は既に終わっている。
「さすがに無罪ってわけにはいかない。それは理解してるよな?」
「……はい。どんな罰だろうと喜んで受けます」
そのため博孝がベールクトの処罰に関して話を進めると、みらいの眉が一気に吊り上がった。
「おにぃちゃん!」
「落ち着きなさい、みらい。博孝があなたと同じ境遇の子を見捨てると思うの?」
頬を膨らませて不満を表明するみらいだが、苦笑した沙織が宥めるようにして言うことで辛うじて踏みとどまる。そして沙織の発言を理解しかねたように目を瞬かせ、博孝と沙織の顔を交互に見た。
博孝はみらいの態度に小さく笑うと、隣に立つ沙織から新たに一通の封筒を受け取る。ベールクトへの最終確認を行い、“今後”に関して伝える者としての職務がまだ残っているのだ。
「最近の兄離れを喜べば良いのか悲しめば良いのか……ここは喜ぶべきかねぇ」
それでも、嬉しさを滲ませた愚痴を呟いてしまうのを止められない。ベールクトを庇うためとはいえ、みらいがここまで反発するのは博孝としても予想以上だった。
博孝は一度咳払いをして空気を引き締めると、封筒を開けて一枚の書類を引っ張り出す。そして真剣な表情でベールクトを見詰め、書類の内容を読み上げていく。
「『天治会』空戦部隊所属、ベールクト。日本ES戦闘部隊監督部、長谷川中将の名代として貴官への処罰を申し渡す」
処罰という言葉に反応したのは、やはりと言うべきかみらいである。それでも源次郎の名前で正式に通達されていると聞き、ベールクトの手を握り締めるに留めた。
そんなみらいの行動に対し、ベールクトは静かに微笑むだけである。例えどんな処罰が下されようと、全ては自業自得だと受け入れるつもりだった。
博孝はみらいとベールクトへ等分に視線を注ぐと、厳かに告げる。
「河原崎みらい空戦軍曹と同じく、日本の国籍を取得。その上で日本の『ES能力者』として今後の復興活動に尽力し、その後も『星外者』に対する戦力として運用する。なお、この命令に関して拒否権はない……以上だ」
――故に、博孝の言葉を理解するのが一瞬遅れてしまった。
「…………え?」
数秒置いて呆けた声を出すベールクト。思わずみらいの方に視線を向けるベールクトだったが、みらいも理解しかねたように首を傾げている。
そんな二人の反応に目を細めた博孝は隣に立つ沙織と笑みを交わし合い、ベールクトに対して柔らかな声を投げかける。
「ついでに、というには語弊があるけど、中将閣下はベールクトの素行に問題がないかを調査するため、それとある程度常識を覚えるまでは“監視役”が必要だと考えた」
ベールクトとみらいの反応を見ながら、博孝は言葉を続けていく。
「つまり、ベールクトに対して責任者をつけての保護観察処分ってことだ。ただし、責任者に関してはベールクトが暴れても押さえ込める人じゃないと務まらない」
そう言って博孝は書類を沙織に手渡すと、ベールクトの傍へと歩み寄った。
「というわけで、監視役には俺が立候補して承認された。連名で沙織も名前を貸してくれたし、暴れようとしたら俺と沙織が二人がかりで鎮圧するからな?」
「……え?」
ベールクトの素性を知り、なおかつベールクトが暴れても取り押さえることができ、その上で階級的に問題がない人物。そのような条件で限定した場合、該当する『ES能力者』は非常に限られてしまう。
立場が立場だけに博孝も怪しいところだったが、過去のみらいの不安定さを盾に押し切ってきたのだ。もしも不安定になったとしても『活性化』があり、ベールクトが暴れたとしても今の博孝ならば対処が可能である。
そして、笑顔で述べる博孝に対してベールクトは理解が追い付かない。そんなベールクトの反応に微笑みつつ、博孝は畳み掛けるように言う。
「それと、日本の国籍を取得するって言っても年齢的には保護者も必要になる。だから沙織の爺さんにお願いして、手を回してもらおうと思っててな」
目を瞬かせるベールクトに、博孝は楽しげに笑いながら右手を差し出した。
「なあベルちゃんよ、俺とみらいが本当の兄と姉になるってのはどうだ? 今なら騒がしいけど優しい両親がもれなくついてくるぜ?」
「えっ……あの、それ……は……」
博孝が差し出した右手に視線を向け、博孝の顔を見上げ、再び右手へと視線を落とす。その動作を何度も繰り返し、ベールクトは博孝の言葉を飲み込もうと頭を働かせた。
「――えいっ!」
混乱し、思考を停止させたベールクトを動かしたのはみらいである。ベールクトの右手を掴んで強引に持ち上げ、そのまま博孝の右手を握らせて満面の笑みを浮かべた。
「これでほんとーにみらいがおねぇちゃん!」
「こらこら……こういうのは本人の意思が重要なんだぞ?」
やったー、と喜びの声を上げて部屋の中を跳ね回るみらい。博孝は周囲を跳ねるみらいに苦笑していたが、握ったベールクトの手は離さなかった。
「……いいん、ですか?」
「ん?」
小さく、困惑を含んだ呟き。思わず聞き返す博孝だったが、ベールクトは恐々といった様子で再度呟く。
「本当に……いいんですか?」
それは、ベールクトにとって酷く緊張を強いる問いかけだった。
博孝が冗談でそんなことを言うわけがないとわかっている。冗談めかして聞いてきたが、そこに至るまで様々な苦労があったのだということも理解できる。いくらベールクトが『天治会』に生み出された人工の『ES能力者』といえど、敵だったことに変わりはないのだ。
博孝を兄と呼び、みらいを姉と呼んでいたが、だからといって“本当の兄妹”になれるとは思ってなどいなかった。
今後訪れるであろう『星外者』へ備えるための戦力として扱われるのだとしても、ベールクトとしては首を横に振ることなどできるはずがない。差し出され、握られた手を振りほどくことなど、できるはずがないのだ。
「ベルの能力については知られてるし、戦力になるって名目で沙織の爺さんに頼めばその辺も処理してくれるだろうし、問題はない……うん、喜び過ぎた父さんが母さんに投げ飛ばされるかもだけど、問題はないな、うん」
どこか困ったように、照れたように博孝は左手で頬を掻く。ベールクトはそんな博孝の顔を見詰め、握られた右手を見詰め、今まで飛び跳ねていたもののいつの間にか隣に立つみらいを見詰め、大きく頷く。
「――はいっ!」
その日、ベールクトは喜びで涙が流れることを初めて知った。




