第二百六十五話:終わりの始まり その10
崩壊した富士駐屯地の一角。地面に横たわるベールクトは、薄っすらと残った意識の中で自身の状態を確認する。
柳の斬撃で負った傷は深く、致命傷だ。傷口からは次々と血が溢れ出ており、白い光となって消えていく。ベールクトは治療系ES能力を習得していないため、血を止めることすらできない。
「お……に、い……さま……」
救出された博孝の姿は既に見えなくなっている。それでもベールクトは博孝を求めるように腕を伸ばそうとしたが、意に反して体は動こうとしなかった。
遠からず尽き果てる命。駆け足で近づいてくる死の気配を感じながらも、ベールクトの胸中にあったのは博孝のことだけだ。
ほんの数日といえど共に過ごした日々は、ベールクトとしても予想外なほどに充実していた。博孝が『天治会』側に来れば楽しいだろうと思っていたが、言葉を交わすだけで楽しく、心が安らいだ。
それは生まれて初めて得た安穏とした生活。常人から見れば常軌を逸した環境だったが、ベールクトからすれば戦いもなく、博孝の傍で過ごすだけで心地良さを感じていた。
楽しかった。みらいが知らない博孝の一面を知れた優越感があった。心が安らいだ。いつの間にかみらいのこともどうでも良くなっていた。心の底から“楽しい”という感情を知ることができた。
敵に囚われていた博孝からすれば、ベールクトも敵の一員。しかし博孝はベールクトに気を配り、庇ってもくれた。清香に叱責された時も、庇ってくれたのだ。
――それがどうしようもなく嬉しかった。
「死……にたく……ない……」
このまま死にたくない。博孝にとっては迷惑で、自分勝手だと理解していても、このまま死にたくなどないのだ。
まだまだ話したいことがあった。博孝が言うのなら、みらいと和解することもできただろう。傷つけた人々に頭を垂れ、謝罪することもできた。
そんな機会は、もう訪れない。誰に看取られることもなく、このまま『構成力』の塵となって消えていくだけだ。
「そんな、の……嫌ぁ……」
自身の死を前にして、ベールクトは涙を流す。全身を駆け巡る激痛などどうでも良い。このまま命が尽きることに対する絶望感が涙を流させるのだ。同時に、これまで自身が行ってきたことに対する後悔も湧き上がる。
『天治会』や『星外者』の命令に従い、好奇心の赴くままに暴れてきた。だが、博孝と過ごす内に“正常”な判断を覚え始めたベールクトにとって、己の行いが恥ずべきものだと気付いたのである。
普通に育っていれば自然と備えたであろう良識や倫理観を持たず、人形のように命じられるがままに戦ってきた。他の『アンノウン』と異なり、独自技能を発現したことで使い捨てにされることはなかったが、それでもいつ死ぬかわからなかった。
これならば、楽しさや未来への希望など知る前に死んでおきたかったと思えるほどである。そうすればこのまま失意と絶望を味わいながら死んでいくこともなかったのだから。
「あらあら……これはまた派手にやられたわね」
そんなベールクトの耳に、この場にいるはずがない人物の声が聞こえた。億劫になりながらも視線を向けると、そこにはいつの間に現れたのか、清香の姿がある。
「あ……ああ……」
清香の姿を見たベールクトの口から、絶望の声が漏れた。『進化の種』に対する作業も完了しておらず、博孝を取り返され、富士駐屯地も崩壊。そんな状況で清香が戻ってきたことで、ベールクトは己の死を確信する。
「周囲の人間達は怪我をしていても死んではいない……さすが『穿孔』ね。ただ、ここまで思い切り暴れるとは思わなかったけど」
周囲を見回しながら、清香は何故か楽しげに笑う。その笑みが理解できず、ベールクトは死の淵に瀕しながらも困惑したように清香の顔を見上げた。すると、清香はベールクトへと視線を落として笑みを深める。
「こんなに傷ついて……可哀想に」
そして、信じられないような言葉が出てきた。間違っても笑顔を浮かべながら言う台詞ではなく、ベールクトは怒りよりも先に恐怖と戦慄を覚える。
清香はベールクトの反応に目尻を下げると、膝を折ってすぐ傍へと顔を近づけた。
「そんなに怯えなくても良いのよ? このまま放っておけばすぐに死ぬような存在を追い討ちするほど冷たくないの」
ともすれば慈愛の笑みにも見える表情を浮かべて、清香は言う。しかしベールクトはそれで安心できることはなかった。
『星外者』の一員である清香の性格は、嫌という程知っている。口では優しげなことを言いながらも、一秒後にとどめを刺されていてもおかしくはない。
博孝は清香の“正体”を知ってから毛嫌いしていたが、その気持ちはベールクトにも共感できる。自分よりも遥かに強くなければ、命を握られていなければ、誰が従うものかと思っていた。
(いっそのこと、コイツを……)
最期の気力を振り絞れば、仕留めることは無理でも手傷を負わせることぐらいはできるかもしれない。そうすれば逃げた博孝の助けにもなるだろう。
博孝には迷惑をかけたが、数日とはいえ兄妹として接してくれたのだ。そんな博孝のためならば、今にも尽きようとしている命を代償にしても惜しくはない。
油断しているのか、ベールクトが反旗を翻すとは思っていないのか、清香は隙だらけだ。『構成力』を可能な限り集中させて攻撃を行えば、清香を仕留めることすら可能かもしれない。
「でもね……」
ベールクトの腕が動こうとした瞬間、清香の声のトーが変わった。まるで囁くようなその声に、ベールクトは無意識の内に耳を澄ます。
「可哀想なベールクト。貴女の姉はこれからも幸せな毎日を過ごすというのに、貴女はここで泥に塗れて死ぬんだから」
「……っ!」
その言葉は、まるで魔法のようにベールクトの精神を揺さぶる。
「兄を取り戻して、優しいお友達に囲まれて、意中の人を追いかけて……ここで死のうとしている貴女とは大違いね?」
「そんな、こと……」
たしかに博孝は救出されたが、今後どうなるかわからない。
みらいを可愛がる者達も、今後どうなるかわからない。
みらいが博孝と同じぐらい大切だと言った恭介も、今後どうなるかわからない。
そもそも、『星外者』達がそれを許さないはずだ。ベールクトは『星外者』達の目的を知らなかったが、博孝を奪われた以上奪還に赴くはずである。そうなればみらいに幸せな結末が訪れるとは思えなかった。
「あの子に逃げられたのは痛手だけど、致命的じゃないの。『穿孔』が頑張ってくれているから、最後のピースも手に入りそうだしね」
「……?」
清香が何を言っているかわからない。そのためベールクトは疑問を抱いたが、その疑問を塗り潰すようにして清香は言葉を重ねる。
「不公平だと思わない? 妬ましいとは思わない? 憎らしいとは思わない? 似たような生まれだというのに、まったく違う道を歩む姉が。周囲から可愛がられ、大切にされる姉が……ねえ?」
それは数えきれないほどにベールクトが思ってきたこと。何故みらいだけがと、何故自分ではなかったのかと、積み重ねてきた怨嗟だ。
博孝と言葉を交わす内に、それはただの八つ当たりだと気付いた。自分が抱いている感情はただの嫉妬で、幸せそうなみらいを絶望のどん底に叩き落としたいという醜いもの。
その立場を羨んだ――妬ましいほどに。
みらいを殺したいと思った――狂おしいほどに。
それが歪んだ願いだと理解しつつも、ベールクトは止まれなかった。しかし、それを止めたのが博孝である。
ベールクトはみらいではなく自分の傍にいてほしい、味方になってほしいと博孝に願った。その答えは聞けずじまいだったが、博孝の性格を考えれば答えは決まっているだろう。
(それでも、お兄様がわたしを止めようとするのなら……)
博孝とは仲を深める以前のようには戦えない。敵だというのに、生まれて初めて優しく接してくれた博孝を殺せるわけがない。そんな博孝が止めるのならば、みらいへの矛先も下ろすだろう。
「貴女の“お兄様”を自分だけのものにしたいとは思わない?」
その囁きには、甘美な響きがあった。思わず目を見開くベールクトに、清香はにたりと笑う。
「貴女の境遇にはわたしも同情しているのよ? どうして自分だけが辛くて、どうして姉だけが幸せなのか……ここまで事態が進めば貴女のお兄様も絶対に必要ってわけじゃない。生かしておくこともできる」
そう言って、清香は歪に微笑んだ。
「――あなたは本当にこのままで良いの?」
このまま死んで、それで良いのか。ほんの僅かに得た幸せを胸に抱きながら命を落として、それで本当に満足なのか。
清香の言葉はまるで乾いた砂漠に染み込む水のようだった。それまでは清香に対する反抗心から死を受け入れようとしていたが、清香の言葉で感情が逆転する。清香が訪れる前の、孤独に死を迎える恐怖がよみがえってくる。
「死にたく、ない……」
「そうよね、死にたくないわよね」
「死にたくない!」
「そうよね、生きて幸せになりたいわよね」
ベールクトを励ますように清香が声をかけるが、その口元は弧を描いていた。必死に生きようとするベールクトのその姿に、清香は目を輝かせている。
『ES能力者』はその感情の多寡が『構成力』にも影響を及ぼす。それは『星外者』も同様だったが、元々が人間である『ES能力者』と違って感情の起伏が乏しい。そのためもしも同等の技量を持つ『ES能力者』が相手ならば、その差で敗北するだろう。
それならば、『アンノウン』はどうなのか。『ES能力者』とも『星外者』とも違う、その中間とも呼べる存在。『天治会』が所有する『アンノウン』は“失敗作”ばかりだが、ベールクトはただの失敗作ではない。
感情を発露し、独自技能を発現した特別な個体だ。清香の言葉によって感情を大きく揺らされたベールクトの体は赤く輝き始め、柳に斬られた傷を覆い始める。
それを見た清香は目を細め、ベールクトが負った傷に手をかざした。
「ああ……素敵よベールクト。貴女の絶望と希望は美しくもあるわ」
清香の手から黒い『構成力』が溢れ出し、赤い光に混ざり合うようにして傷口を覆っていく。ベールクトは自分の体が変質していくのを実感しながらも、それに抵抗することはない。
清香は楽しげな様子でベールクトを眺めていたが、しばらくすると接近してくる気配に気付いた。そちらへ視線を向けると、空を飛んでいたラプターが傍へと下りてくる。
「首尾は?」
「上々です。『穿孔』には致命傷を負わせました。それとこちらを」
そう言ってラプターは『星外者』の首を清香へと渡す。清香は微笑みながら受け取ると、満足そうに頷いた。
「これで準備は万端ね。あとは時が経つのを待ちましょう」
清香の見立てでは、“全て”が終わるまで残り三日といったところだろう。そこまで事態が進めば、最早後戻りもできなくなる。
「コイツと互角に戦ってくれた『穿孔』には感謝をしましょうか」
最後にそれだけを言い残し、清香は満足そうな笑みを浮かべるのだった。
「チィッ……嫌な予感がしやがる」
砂原との約束通り博孝達を『いなづま』へと送り届けた柳だったが、湧き上がる予感を堪えながら来た道を単身で戻っていた。
予想していた敵の妨害はなく、無事に『いなづま』へ帰還できたことは喜ばしい。だが、最低でも二人はいるという『星外者』が現れなかった以上、全ての戦力が砂原の元に集まっている可能性があった。
それに加えて、先ほどまで遠くから伝わっていた違和感が消失している。砂原が戦闘を開始してから感じていたものが消失したというその事実に、嫌な予感がするのだ。
砂原が勝利したのならば良いだろう。しかし、それならばすぐに帰ってくるはずだ。それだというのに砂原が帰ってくる気配がなく、柳は斉藤と町田に『いなづま』の守備を任せて飛び出してきたのである。
何が起きても即座に対応できるようにと腰の『柳刃』の柄に手をかけながら飛ぶ柳だが、発現していた『探知』に『構成力』が引っ掛かった。
「……なんだ?」
思わず呟く柳。『構成力』が引っ掛かるのは別に良いが、感じ取った『構成力』はあまりにも弱すぎる。燃え尽きる直前の蝋燭のように、発現している『構成力』も不安定だ。
その『構成力』には覚えがある――ような気がする。あまりにも弱々しい『構成力』だが、慣れ親しんだ気配があった。
「まさか!?」
嫌な予感が増し、柳は感じ取った『構成力』の方向へと進路を変える。そして全速力で飛び、僅かな時間でその『構成力』のもとへとたどり着いた。
そこにいたのは、砂原である。返り血を浴びたのか血だらけだが、“正面から”見て怪我を負っている様子はなかった。
「なんだよ……さっきの奴は仕留めちまったのか? こっちは何も出なかったってのに……砂原?」
安堵の感情を隠して悪態を吐く柳だが、何も答えず、何の反応も返さない砂原に疑問を覚える。それどころか柳の声が聞こえていないように、素通りしてしまった。
「……この野郎、無視とは良い度胸――」
『いなづま』に向かって帰還しているのだろう。きっと早く教え子達に会いたいに違いない。そんなことを考えた柳だが、風に乗って届いた血の臭いに眉を寄せた。それは鮮血の臭いであり、柳は即座に砂原へと追いつき、そして気付く。
「っ!? おい、砂原!?」
砂原が負った傷――それも背後から抉られたであろう心臓部の穴に、柳は思わず絶句した。柳の目から見て、その傷はあまりにも大きく深い。下手をしなくても心臓が潰されている。
柳は慌てて砂原を抱きかかえると、飛ぶ速度を一気に上げた。
「しっかりしろ! すぐに『いなづま』まで連れて行く!」
安全な場所に下りて治療を施したいが、柳は治療系ES能力がそれほど得意ではない。また、現在空域が安全であるという保障もなかった。砂原が『星外者』を仕留めたかわからず、追撃が行われる可能性もある。
そのため応急処置を施しながら『いなづま』を目指すが、それでは砂原がどこまでもつかわからない。
「……柳、か……」
自分が抱きかかえられていることに気付いたのか、砂原が声を出す。その声は普段と比べればあまりにか細く、弱々しい。
「喋るな! 傷を塞ぎながら撤退する!」
柳に傷を塞ぐ技量はない。しかし砂原を元気づけるようにそう声をかけ、真っ直ぐに『いなづま』へと向かう。
柳も一応『治癒』を発現できるが、砂原が負った傷はその程度では塞がらない。最低でも『修復』が必要で――もしかすると『復元』でも治しきれないか。
砂原の傷口からそう判断する柳だが、治せそうな人物に心当たりがあった。宇喜多ならば砂原を助けることができるかもしれない。だが、今現在どこにいるのかわからない。
「……ラプター、に……不意、打ちを、食らってな……情けない……限りだ……」
「だから黙ってろって! くそっ、こんなことなら治療系ES能力もしっかりと鍛えておけば良かったか……意識を手放すなよ! できるならお前も自分で傷口に『治癒』をかけとけ!」
『防壁』を発現して風を遮りつつ、『構成力』の消耗を度外視した速度で空を翔ける。空戦部隊でも余程の緊急事態でもない限り行わない飛行法だが、空戦の『ES能力者』が出せる最高速度は音速よりも遥かに速い。
『探知』を併用して周囲の索敵を行い、砂原に『治癒』をかけ、『飛行』の速度は限界以上。柳の技量を以ってしても制御で手一杯になりそうだが、今は一刻を争うのだ。
今の状況で砂原を安全に治療できるとすれば、やはり『いなづま』しかない。『支援型』の者も複数人いるため、砂原を助けられる可能性があった。
それは、限りなく低い可能性だったが。
「お前を、戦わせ……なくて……正、解だった、ぞ……」
「ああ!? 死に掛けた状態で何を言ってんだ!?」
ぼそりと呟く砂原に、柳は必要以上に大声で返答する。砂原は意識を失うまいと目を開けているが、その眼差しは虚ろだ。喋れること自体が奇跡に近く、生きていることもまた奇跡に近い。
もっとも、それも遠からず終わるだろう。砂原の顔には死相が浮かんでおり、柳はこれまでに砂原と似た顔付きの男を何人も見てきたのだ。その経験から言えば、あと一時間もてば奇跡という言葉では済まなくなる。
「……まあ、聞け……お、前の能力、だと、相性が……悪すぎる……全力の『収束』で、どうにか……という相手だった……」
「……何だと?」
砂原が伝える内容に、柳は思わず眉を寄せた。砂原の技量は柳もよく知っている。さらに言えば、この状況で嘘や冗談を口にする性格でもない。死に瀕しているのならばなおさらだ。
そんな砂原が、柳では勝てないという。柳の技量をよく知る砂原がだ。ならば、それは事実なのだろう。
砂原が最も高い攻撃力を発揮するのは、『収束』による打撃である。それに対し、柳は武器を使った斬撃だ。点と線の違いが、『星外者』を相手にすれば致命的な差となる。
刺突を使えば話は別だろうが、自身の四肢を使って攻撃を繰り出す砂原とは自由度が段違いだ。その点から、砂原は柳では『星外者』に勝てないと判断した。
「何が……あったかは、知らん……仲間割れ、をしていたが、まだ敵は……残っている……だから……」
そこまで言って、砂原の言葉が途切れる。柳は砂原の様子を確認したが、体から力が抜けつつあった。
「わかった! もういいから回復に努めろ! すぐに『いなづま』に着く!」
これ以上体力を消耗させるわけにはいかない。そう判断した柳は声を張り上げ、更に速度を増す。
そうして僅かな時間で『いなづま』へと帰還する柳だが、『いなづま』の甲板では予想だにしない光景が広がっていた。
「わたしに『活性化』を使って! 早く!」
目を覚ました里香が、締め上げるようにして博孝を揺さぶっていたのだ。