閑話:とある女子訓練生の慕情と野口曹長の決断
――野口秋雄。
現在の階級は曹長であり、年齢は今年で三十歳。かつては山岳戦を得意とする第七ES戦闘大隊に所属し、対ES戦闘部隊の一員としてその腕を振るってきた。
表向きの性格は怠惰かつ面倒臭がり、博孝達訓練校第七十一期卒の面々からは不良兵士扱いされている。ただしそれだけで兵士として生きていけるはずもなく、任務の際には周囲を統率するだけの力を発揮した。
その技量は生身の人間としては高く、対『ES能力者』用武装と条件さえ揃っていれば、“普通”の訓練生レベルの『ES能力者』ならば渡り合えるほどである。
かつて所属していた部隊では、周囲の仲間達が次々に命を落としていくことに苦痛を覚えて異動を決意。戦闘が発生しないと考えられていたES訓練校へと異動する。
それでも腕を落とさないよう訓練を続けていたのは、過去の経験によるものだろう。運が悪ければ一体で部隊を壊滅に追い込む『ES寄生体』を、単独で撃破し得るまでに磨いた肉体と経験を錆び付かせるわけにはいかなかった。
生身の人間でありながら、『ES寄生体』と接近戦を行って撃破するという偉業を何度も達成している。野口と付き合いがない兵士からすれば、最早『人外』か『狂人』にしか思えなかった。
“諸事情”により、現在の撃破数は三桁まで伸びている。それもここ一年の間に稼いだ撃破数は伸びが尋常ではなく、軍上層部からは撃破数の水増しが行われたのではないかと調査されたほどだ。
この点に関しては柳が口添えし、野口に『ES寄生体』の“試し斬り”と“試し撃ち”をさせたことを証明できた。武器だけ渡してあとは自力で『ES寄生体』を狩ってくるよう命令したと聞き、むしろ同情したほどである。
そんな高い技量を持つ兵士の野口だが、ここ最近――というよりも、ここ一年ほど頭を悩ませていることがあった。
その悩みの種は、白崎伊織という少女に関してである。『大規模発生』の際に助けた縁で好意を寄せられるようになったのだが、その好意の度合いが世間一般とは大きく異なった。
一目惚れだけとか、吊り橋効果だとか、そういった言葉では済まない強烈な好意。初めてきちんと会話をした時は引っ込み思案な少女だという印象だったが、言葉を交わす内にどんどん押し込んでくるようになった。
最近の子供はこれほど強烈にアピールしてくるのかと思った野口だが、どうやら伊織が特別なだけらしい。
もしも伊織が常に押し付けるようにして好意をアピールしていれば話は別だったが、野口としては困ったことに伊織は違った。最初の頃はともかく、野口を立て、自分の好意を受け入れてほしいと静かに願うのである。
逃げるようにして即応部隊へ異動したことも咎めず、むしろ心配されたほどだ。野口が怪我一つなく元気に過ごしていることを喜び、安堵の涙を流すほどに。
野口が急に離れたのは伊織の想いを試すためと思われたが、それで熱が冷めていればと思った側面もある。しかし伊織はまったく揺らがず、むしろ野口の隣に立つべく訓練に力を入れているらしかった。
対ES戦闘部隊用の寮、曹長かつエースということで割り当てられた個室のベッドに寝転がりつつ、野口は混然とした思考をまとめていく。
つい先ほど、訓練校以来の付き合いがあり、歳が離れた弟か友人のように思っている博孝から一つ頼まれたことがある。それは明日近くの街に連れて行ってほしいという願いであり、野口はこれを了承した。
野口も丁度休暇であり、丁度良い暇つぶしになると思ったのである。だが、博孝から向けられた提案が厄介だった。
「折角ですし、“あの子”の顔でも見てきたらどうですか? 訓練校はちょっと遠いですけど、向こうも休日だったら会えるでしょう?」
そんなことを告げる博孝に、野口は動きを止めてしまう。博孝はそんな野口の顔を見ながら、とぼけるようにして視線を天井に向けた。
「ああ、でも、訓練生は外出のための事前申請が必要ですし、タイミング的には間に合いませんかね……」
そう言われ、野口は自分に言い訳をしながらも連絡を取る。
――伊織が休日でなければ、会う必要もない。
――外出の申請が間に合わなければ、会う必要もない。
――そもそも伊織が会おうとしなければ、問題もない。
そんなことを考えつつ、まずは訓練校の防衛を務める部隊へ連絡を取った。即応部隊へ異動する前に在籍していた部隊であり、友人知人も大量にいるため話を通しやすい。
それと同時に、自分は伊織が持つ携帯電話の番号も知らないのだなぁ、などと思った。一応検閲や機密の関係もあるため手紙でやり取りはしているが、聞こうと思えば聞けたはずだ。
『ES能力者』が持つ携帯電話は機密保持のために通話先が制限されているが、“家族や恋人”相手に電話する分には問題もない。
(いや、俺はそのどちらでもねえし……聞いてもつながらねえし……)
現在の時刻は午前八時。訓練校の部隊に連絡を取っても、訓練生である伊織は今頃朝食などで時間に追われているはずだ。だから電話をかけて連絡が取れたとしても、絶対に間に合わない。
そう自分に“言い訳”をしつつ古巣の部隊に連絡を取り――奇跡は起こる。
『あの……秋雄さん、ですか?』
電話をして僅か三分後、久しぶりに会話をしていた“元部下”が電話を変わるなり、伊織が電話口に出たのだ。
話を聞いてみれば、訓練校の敷地内にある防衛部隊の周辺で掃き掃除をしていたらしい。
『……なんでそんなことを?』
『え? 秋雄さんがお世話になった部隊ですし、わたしも秋雄さんのことでお世話になったので……』
疑問を込めて尋ねると、不思議そうな声が返ってくる。伊織が言うには、野口が世話になっていたから、野口のことで世話になったからと、時間が空いた時に掃除をしているらしい。
早朝に自主訓練を行い、時間が空いたため“たまたま”掃除しているところに野口が電話をかけてきたのだ。その偶然に、最早運命的な作為すら感じてしまう野口である。
『ふふっ……まさか秋雄さんの声を聞けるだなんて、今日は良い一日になりそうです』
『お、おう……』
心底嬉しそうに話す伊織に、野口の胃がキリキリと痛んだ。まさか野口が異動した後も防衛部隊の面々と接しているとは思わず、即座に電話を取れる位置にいた“偶然”が怖い。
元同僚達は、野口の電話を受けるなり急いで伊織を呼びに行ったのだろう。そうでなければ、ここまで早く電話口に出ることもなかったはずだ。
『行け、伊織ちゃん! あの『絶対『ES寄生体』殺すマン』を撃墜するんだ!』
『俺達も応援してるからな!』
そして、電話越しに届いた声には覚えがある。訓練校で勤務していた頃に野口の部下につけられた者達であり、伊織との仲を応援していた者達だ。どうやら“外堀”はいまだに埋まったままらしい。
『ありがとうございますっ……あ、それで秋雄さん? 今日は何かあったんですか? 電話をしてくださるのは、その、とても嬉しいのですけど……驚きと嬉しさで心臓が痛いぐらいです』
俺は胃が痛いよ、などと言うわけにはいかない。野口は会う機会があれば元部下達を教育してやろうと考えつつ、言葉を濁す。
『あー……えっとだな……』
いざ話を切り出すとなれば、緊張よりも躊躇の方が勝ってしまう。三十路になる野口が、『ES能力者』とはいえ世間では高校生の伊織に『会おうか?』と誘うのだから。
野口は過去に複数の『ES寄生体』と遭遇してしまった時のことを思い出す。その時の緊張感、敵を殺しつつ味方を逃がす算段を立てる苦悩を呼び起こされつつ、携帯電話を握り締めた。
『もしかしてですけど、わたしに何かご用が? な、なんてっ……野口さんがそんなことを言ってくださるわけないですよね……』
最初は恥じらいと喜びを、途中から悲しさを声に滲ませる伊織。年頃の少女らしい願望めいた言葉だったが、即応部隊にいる野口が自分に会いに来るなどとは思えなかったのだ。
『い、一応、そうであるようなないような……いや、多分、そうなんじゃねえかな?』
もしもこの場に博孝がいれば、『さっさと肯定してやってくださいよ』と言いながら背中を蹴り飛ばしただろう。それほどまでに中途半端な野口の言葉だったが、電話越しでも伝わるほどに伊織の空気が明るくなる。
『ほ、本当ですかっ!?』
『……まあ、うん。急な話なんだが、明日時間があればと思ってな……外出する用事もあるから、そっちに足を伸ばそうかと……』
本当に急な話だから、無理なら無理でいい。そう言って逃げ道を作る野口だが、伊織は一途に、幸せそうに言う。
――例え一分、一秒、一瞬の逢瀬でも良い。言葉の一つ、ほんの一度視線を交わすだけでも良い。それで満足だ、と。
野口に会いたい。言葉を交わしたい。例えそれがほんの僅かな時間でも、自分は構わない。切々とそう語る伊織に、野口は逃げ道が消えていくのを感じつつも尋ねる。
『でもほら、訓練校の規則では外出の事前申請が』
『大丈夫です。どうにかします。わたしの担当教官、その辺りの融通が利く方ですから』
だが、嬉々とした様子で答える伊織にとってみれば、“そんなもの”は何の障害にもならなかった。
伊織がどうにかするというのならば、言葉通りどうにかするのだろう。野口はそう思い、明日の予定を伝える。
『それじゃあ、訓練校近くの街……バス停の近くに行く。時間は正午ぐらいになるだろうが、それでも良いか?』
『はい、“絶対に”行きます。お待ちしてますね?』
断固たる決意が感じられる声色に、早まったかと思わないでもない。仮に外出申請が通らなければ、強引に突破してきそうだ。
『……あ、はい。秋雄さん、ちょっとお電話代わりますね?』
『は?』
そうやって予定を立てると、唐突に伊織が電話を誰かに譲った。それに疑問を覚えていると、電話越しに野太い声が聞こえてくる。
『野口曹長かね?』
『その声は……少佐殿!?』
電話を代わったのは、野口が防衛部隊にいた頃に世話になった直属の上官だ。少佐はやけに低い声で、淡々と言葉を紡ぐ。
『久しぶりに声を聞いたが……白崎訓練生を置き去りにして即応部隊に行った割りには元気そうでなによりだ』
『いきなり反応が冷たすぎじゃないですかね!?』
怒りが滲んだその声に、野口は戦慄を覚えながら叫ぶ。かつての上官が何故出てくるのかと思ったが、どうにも伊織が関係しているらしい。
『訓練生は、お前が去った後もお前が世話になったからと足繁くここに来てな……自ら進んで掃除などをしてくれているのだ。もしかしたらお前が帰ってくるかもしれないから、この寮を綺麗にしておきたいとな』
『そ、そうなんですか……』
元上官の言葉に、野口の胃が余計にキリキリと痛む。こうやって他人の口から伊織が野口のためにどんなことをしていたか聞くと、さすがに悪い気がしてきた。
『我々は軍人であり、公私の区別をつけなければならん。しかし、我々は軍人である前に一人の人間だ。ここまで一途で健気だと、思うところもある……』
そこで一度言葉を切ると、少佐の声が一段下がった。
『我が部隊のアイドルを泣かせればどうなるか――わかるな?』
『い、イエッサー!』
電話越しに銃弾でも飛んできそうな殺気である。さすがの野口も言い訳をするわけにはいかず、ベッドから跳ね起きて敬礼をした。
そんな野口の返答に満足したのか、少佐は口調を緩めて言う。
『仲人の件、楽しみにしているからな?』
『そういえば、そんなことも言ってましたね……その件につきましてはよくよく吟味し、前向きに善処したいと考えております』
『誰がそんな政治家みたいなことを言えといった!?』
元上官の怒鳴り声を聞きつつ、野口は明日の予定が決まったことに“緊張と安堵”を抱くのだった。
そして翌日。博孝達を即応部隊の基地から最も近い街に下ろした後、野口は訓練校の方向へと車を走らせた。
セーターにスラックス、それに短めのコートという出で立ちだが、脇の下には自動拳銃を納めたホルスターを吊り下げており、腰元には柳が作った山刀を括りつけてある。
他にも拳銃のマガジンが二本に手榴弾が一個、予備の刃物として軍用ブーツの裏に小型ナイフを仕込んでいた。更にセーターの下には防刃素材で作られたシャツを着込み、防御性を増している。
羽織ったコートにはいくつかのバッジをつけているが、これは『ES能力者』が己の立場を周囲に知らしめるために用意されたものと同様だ。有事の際に私服姿だと協力を得にくいため、身分証明書の他に階級章や部隊章を付けるよう徹底している。
現在野口が身に付けているのは、対ES戦闘部隊に所属していることを示す部隊章に曹長を示す階級章、更には『ES寄生体』の撃破数が百体を超えたことで特別に授与された記章だ。
どう考えても異性と会う際に用意する装備ではないが、どこで『ES寄生体』と遭遇するかわかったものではない。休日とはいえ気が抜けず、野口はハンドルを操作しながらため息を吐いた。
「せめて短機関銃を……いや、これだけ持ち出せれば『ES寄生体』ならいくらでも料理できるが……」
柳が作った山刀さえあれば、接近戦でも『ES寄生体』を狩れる。そう考える野口だが、純粋な火力として自動拳銃だけでは心許ない。
(何を考えてんだ俺は……これから戦場に行くわけでもあるまいに)
物騒なことを考えていたが、頭を振ってその考えを追い出す。これから会うのは伊織であり、重装備を整える必要はないのだ。
――あるいは、戦場に赴く時と同等の緊張があるのかもしれない。
「ははっ、いや、ねえよ……ねえだろ……」
何故伊織と会うことで緊張しなければならないのか。危機感という意味では緊張が必要だが、伊織が野口を害するとも思えない。ならば、緊張しているのは野口自身の心情が原因か。
落ち着かない気分を抱えたままで、高速道路から下りる。その後は一般道を車で走り、割と最近まで駐屯していた訓練校近くの街まで到着した。
車は有料駐車場に停め、伊織との待ち合わせ場所へと向かう。時間は正午を過ぎており、少しばかり伊織を待たせてしまっているかもしれない。
伊織が待ち合わせ場所にいると疑いもしない自分に気付くことなく、野口は小走りで道を行く。
そして、野口が思った通り伊織は集合場所にいた。伊織は春を思わせる桜色のワンピースに薄手のコートという姿であり、外見的には高校生になったばかりの少女に似合ったものである。
「ねえ、いいじゃん。ちょっとお茶しようぜ?」
「俺達『ES能力者』だとかまったく気にしないし、楽しいところに連れてくからさー」
そんな伊織の周囲に、“余計なもの”がいなければ素直に感嘆しただろう。伊織よりも多少年上に見える男二人が、ニヤニヤと笑いながら声をかけているのだ。
「わたしは待ち合わせの相手がいますので……」
「さっきから見てるけど、全然来ないじゃん。三時間ぐらい待ってるでしょ?」
笑顔で断る伊織と、それに食い下がる男達。その会話が聞こえた野口は、三時間前から待っている伊織にツッコミを入れるべきか、三時間前からずっと伊織に目をつけていた男達に蹴りを入れるべきか迷ってしまった。
おそらくは伊織の相手が現れないことを確認して声をかけたのだろうが、三時間近く待ってから声をかけたのならばその根性を称賛したい気分である。同じ男である野口からすれば、そこまで我慢したことを褒めてやりたかった。
――声をかけている相手が、伊織でなければ。
「そこのガキ共、俺の連れに何か用か?」
「あん? 誰がガキ――」
声をかけられて振り向いた男は、不機嫌そうな言葉を途中で途切れさせることとなる。いつの間に接近したのか野口は男達の背後に立っており、堅気の者とは思えない目付きで二人組の男を見ていたのだから。
言葉を失った男達は野口の顔を見て、胸元の部隊章や記章を見て、最後に服越しでも鍛えられていることがわかる肉体や、服のあちらこちらにある“不自然な膨らみ”を見た。
「秋雄さんっ!」
固まった男二人を放置して、伊織は嬉しそうに野口の名前を呼びながら抱き着く。正面から抱き着いてきた伊織を受け止めた野口だが、その視線は男二人から外れていない。
「そ、そんな目で見たって俺らがビビるとでも思って――」
「あれ、秋雄さん? この記章ってたしか、『ES寄生体』を百体以上撃破した時にもらえるやつですよね?」
「――いやなんでもないんです失礼しました」
さっと右手を上げ、この場から逃げ出す男二人。野口はその逃げっぷりに感心してしまい、無言でその背中を見送る。そしてその姿が消えたのを確認すると、ため息を吐いた。
「悪い、待たせたみたいだな」
「いえ、わたしが勝手に待っていただけですし……あっ」
淡々と謝罪する野口だが、その謝罪を聞いた伊織は途中で何かに気付いたように慌てて離れる。本当に野口が来てくれたことに喜んで抱き着いてしまったが、それが恥ずかしかったのだ。
「ご、ごめんなさい……わたしったらはしたない真似を……恥ずかしいです」
両手を頬に当て、真っ赤に染まった顔を隠す伊織。その動きで年齢に不釣り合いなほどに大きな胸が服越しに強調されたが、野口は鉄のような精神力で視線を逸らす。
つい数秒前まで抱き着かれていたが、そのインパクトは凄まじいものがあった。
「急な連絡で悪いと思ったが、よく外出の許可が下りたな?」
意識を逸らすため質問を飛ばしてみる。実際に気になっていたことでもあり、本当に外出許可が下りるとは思っていなかったのだ。
「教官に『わたしの一生を左右するんです』って頼んだら、快く許可してくださいましたよ?」
「……そりゃ真剣にそんなことを言われたら、向こうだって無碍にできないわな」
「房江校長にも直訴して外出許可をもらいました。そうしたら笑顔で『いってらっしゃい』と」
「それでいいのか校長先生!?」
思わず頭を抱える野口だが、房江からすれば大場から受け継いだ“可愛い子ども達”の将来以上に重要なものはない。『ES能力者』として技量を高めることも重要だが、それ以上に一人の人間として重要だと判断したのだ。
もっとも、『ES能力者』は極力早めに伴侶を見つけることが推奨されているからこそ許可できた面もある。伊織は本気であり、野口も迷いさえ絶てば受け入れるだろうと“元上官”から報告を受けていた。
それらに加えて、伊織は外出させなければ休日だろうと一日中訓練に没頭してしまう。どんな敵からでも己と野口の身を守れるようにと、訓練生時代の博孝や沙織に匹敵、あるいは凌駕する訓練量を己に課してしまうのだ。
休む切っ掛けが野口に関係した範囲だけであり、野口が利用していた寮の掃除時間が休息に含まれるほどである。そこに渡りに船と言わんばかりのタイミングで野口から外出の誘いが来た。そのため、伊織を休ませるためにも教官と房江は外出許可を出したのである。
「ま、許可が下りた以上は何も言わねえ……が、無理してねえか?」
伊織と会ったのは去年の末、修学旅行で柳の工房を伊織たちが訪れた時が最後だ。その時に聞いた話では、短期間で『瞬速』を習得しつつあるという。だが、『瞬速』の難易度の高さは博孝達を見てよく知っている。
野口の目から見て、博孝達第七十一期訓練生の中でも目立って成長が早かった博孝達。そんな博孝達でさえ、『瞬速』を習得するのに時間をかけていた。
『瞬速』を習得し、『飛行』まで発現すると宣言した伊織ならば博孝達並に――教官が砂原ではない分、博孝達以上の猛訓練を行っている可能性が高い。
さすがに自分のために強くなると言われた以上、野口としては心配をしてしまう。だが、その心配するような言葉を聞いた伊織は信じられないように目を見開いた。
「秋雄さん……わ、わたしのことを心配してくれるんですか?」
「当たり前だろ!? むしろここまで事情を知ってて心配しないとか、どこの鬼畜だ!?」
感動した様子で身を震わせる伊織と、どれほど薄情に思われているのかとツッコミを入れる野口。伊織は目の端に涙すら浮かべており、とても感激した様子だった。
(あれ……もしかして、俺って滅茶苦茶冷たい男だと思われてるのか?)
野口に心配してもらえたことが嬉しかった伊織だが、“それだけ”で感動すると考えない野口からすれば、普段の自分の態度が酷過ぎたのかと考えてしまう。
伊織に惚れられ、告白され、その返答を保留し、何だかんだと言い逃れして、伊織が諦めてくれないかと何も告げずに異動して、自分のために努力をしてくれることにまで目を瞑って――。
(……そう考えると、本当に酷いな)
伊織から向けられる好意に甘え、自分の都合を優先している。無論、伊織の気持ちに応える義務もないのだが、これまでの付き合いで憎からず思っているのだ。
最初の頃は伊織があまりにも強烈にアタックしてくるから逃げ回っていたが、落ち着いた今では楚々とした態度で接してくる。野口の考えを尊重する姿勢も取っており、その配慮の仕方は野口としても後ろめたく思う程だ。
野口の答えがどうなるかわからないという不安に駆られながらも、毎日訓練に励む伊織。その姿を直接見てきたわけではないが、野口もそれなりに修羅場を潜ってきた身だ。さり気ない伊織の動作だけで、その技量はある程度推察できる。
「なあ……俺から聞くのもおかしな話だが、俺のどこが良いんだ? 自分で言うのもなんだが、お前さんならもっと良い男を捕まえられると思うぞ?」
だからきっと、そんな問いかけをしていたのは野口の心が揺らいでいるからだ。本当にこのままで良いのかと、本当に“自分で良いのか”と、苦悩が口から零れる。
そんな野口の問いかけに、伊織はキョトンとした様子で首を傾げた。しかし、すぐに満面の笑みを浮かべる。
「秋雄さんだから良いんです。それ以上の理由なんて、いりません」
シンプルかつ直球な答え。それを聞いた野口は困ったように頬を掻くが、伊織はそんな野口を励ますように言葉を続ける。
「そうですねぇ……最初はその、“恥ずかしいところ”を見られてしまったので、責任を取ってもらおうと考えまして……」
「アレって俺のせいじゃねえよな!? もしも責任があるとすれば襲ってきた『ES寄生体』の方だよな!? あと誤解を招く発言は勘弁してくれほしいんだがな!?」
誤解を招きそうな発言を大声で掻き消し、野口は周囲を見回す。幸いなことに今の会話を聞いている者はいなかったらしく、大声を出した野口だけが注目されていた。
伊織はそんな野口の様子にクスクスと笑い、楽しそうに微笑んでから胸に手を当てる
「ただ、一目惚れしたっていうのも本当でして……あとは秋雄さんと会う度に、どんどん好きになっていって……こんな気持ちになったの、初めてなんですよ?」
自分の胸に手を当てたままで、大事な記憶を思い出すように目を閉じる伊織。その表情はどこか嬉しそうで、どこか切なそうで、十歳以上年下の少女とは思えないほどに大人びて見えた。
「秋雄さんが距離を取った時も、この気持ちは少しも治まらなかった……むしろ燃え上ってしまった……離れていても秋雄さんのことが好きなんだって、思い知りました」
そこまで言って、不意に伊織の目尻に涙が浮かぶ。
「でも、離れている間に秋雄さんの身に何かあったらと思うと胸が苦しくて……わたしが知らないところで秋雄さんが死んじゃったらって考えると、夜も眠れなくて……」
言葉の通り、不安そうな様子で言葉を吐き出す伊織。野口のことが心配だと、自分のことよりも野口が無事である方が嬉しいと、切なげに語る。
――伊織が訓練に没頭するのも、そういった不安から逃げるためなのかもしれない。
「安心しろ……俺は死なねえよ」
そんな伊織の心情に、野口は自然と伊織を抱き締めていた。身長差があるためやや不格好だが、それでも伊織の頭を抱くようにして自分の方へと引き寄せる。
伊織の言う通り、野口はいつ死ぬとも知れない身だ。明日にでも敵と交戦して死ぬ可能性もある――が、数十年後に畳の上で大往生する可能性もあった。
本当に、いつ死ぬかわからない。そんなものは、数多の死線を潜り抜けてきた野口がよく知っていることだった。
野口の伊織に対する印象は、決して悪いものではない。ただし、伊織のように明確な好意を抱いているわけでもない。
それでも、これほど一途に想いを寄せられて無下に跳ね除けられるほど、冷淡でもなかった。
「まあ、その、なんだ……嬢ちゃんが訓練校を卒業するまでにはきちんと答えを出す」
野口の口から出てきたのは、やはりというべきか先延ばしにする言葉。しかし、いつもならばここで終わるであろう言葉には、続きがあった。
野口は頬を掻きつつ、苦笑混じりに言う。
「だから、それまでは今日みたいに会おうや。食事しても良いし、遊んでも良い。お互い予定が合うかわからねぇが……まあ、こっちは多少融通が利くから、合わせる努力はしてみる」
「え……そ、それって……」
伊織は信じられない言葉を聞いたように、声を震わせながら野口の顔を見上げた。野口はそんな伊織の視線から逃げるように顔を背け、今度は頬ではなく頭を掻く。
「こちとらもう三十だ……嬢ちゃんみたいに若い子と話や趣味が合うとは思わねぇが、こうやって顔を合わせて話すぐらいなら……まぁ、なんとかならぁな」
伊織の年齢が年齢だけに、野口としてはどう言えば良いかわからない。それでも“今後”のことを話し、最後には視線を合わせてから不器用に笑った。
「あとはまぁ、前に友達からって言ったからな……これからは白崎……いや、伊織って呼ばせてもらうか」
『良いか?』と尋ねる野口だが、伊織からの返事はない。伊織は野口の言葉を噛み締めるように何度も頷き、最後には嬉し涙を浮かべながら野口へと抱き着く。
「もちろんですっ! 愛しています、秋雄さん!」
「俺の話を聞いてたか!? 今ものすごく段階が飛んだぞ!?」
首にしがみ付くようにして抱き着いてきた伊織にツッコミを入れながらも、野口は口元を緩めた。
伊織の卒業までの間にどうなるかはわからない。しかし、これから何度も会う内に、野口の“答え”も決まっていくだろう。
今の時点でおおよその答えは固まっていたが、この場で口にすることはない。
「ったく……とりあえず、メシにするか。ほら、行くぞ伊織」
「はいっ! 秋雄さん!」
――まずは、今までの空白の時間を埋めていくべきだと、そう思ったから。
なお、思いの外伊織との会話に熱中してしまい、慌てて博孝達を迎えに行きながらも自分の言動と決断を思い出して激しく悶えることになる野口だったが、それはまた別の話である。
Q.どうして野口が即応部隊の基地に帰ってきた時に疲れていたのか?
A.羞恥心と葛藤を堪えながら高速道路を爆走して帰ってきたので、物理的に疲れました。伊織との間に『何か疲れるようなこと』があったわけではありません。
どうも、本編よりも閑話の方が筆の進みが早い池崎数也です。
タイミング的にピッタリだったので、野口と伊織の恋模様を閑話でお届けしました。多分、本編が完結するまではこれ以降の閑話が挟まることはないと思います。
それでは、こんな拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。




