第十九話:初任務 その3
沙織は、人生で初めてとなる“実戦”に心を震わせていた。
相手は『ES能力者』ではなく『ES寄生体』だが、そのことに不満はない。
不意打ちとはいえ正規部隊員である藤田を一撃で仕留めるあたり、ES能力の使用にも問題はないだろう。獣のように気配を断ち、正確に『射撃』をしてきたところなど、“敵”として不足はない。
博孝が何かを言っていた気もしたが、人類の敵となる『ES寄生体』が相手なのだ。それを自分一人で倒しても、咎められることはないと沙織は思っていた。
―――長谷川沙織には、一つの目標がある。
それは、祖父である長谷川源次郎の役に立ちたいという、沙織の根幹を成す目標だ。
沙織の祖父である源次郎は、『武神』と呼ばれる『ES能力者』である。第二次世界大戦末期より、『ES能力者』として生き抜いてきた源次郎。しかし、日本で最初の『ES能力者』として、彼は様々な苦難に見舞われてきた。
『ES能力者』の数が少ない頃は、様々な実験の被験者にもなっている。その最たるものを挙げるとすれば、『ES能力者』の出生率の初期値を出したのは、彼だった。
源次郎には、子供が三桁いる。それも、ほぼ別々の女性が産んだ子供だ。最初期の『ES能力者』である源次郎は、自国の『ES能力者』を増やすという名目で一時期種馬のような扱いをされていた。
もっとも、それだけ多くの子供が生まれてもほとんどが『ES能力者』にはならなかった上に、国民から上がった非難の声によって、その実験も立ち消えてはいる。結局、沙織の祖母であり源次郎の妻であった女性が後年に産んだ子供が『ES能力者』になり、その子供が生んだ子、つまり源次郎の孫である沙織も『ES能力者』となっただけであった。
沙織は源次郎にとって直系の孫であり、何度も顔を合わせている。沙織にとっては偉大な祖父であり、誕生日には必ずプレゼントをくれるような優しい祖父でもあった。沙織が身に着けている白いリボンも、幼少の頃にもらって以来、身に着け続けている宝物である。
沙織は、『武神』と呼ばれる人物が優しい人物であると知っていた。しかし、『武神』の名を持つ以上、周囲への影響を考えて常に張り詰めた生活を送っている。
そんな祖父の姿を見て、沙織は子供の頃から祖父の役に立ちたいと思っていた。
なんでもいい。源次郎の役に立てるのならば、どんなことでもいい。子供の頃からそう願っていた沙織に訪れた転機―――それが、ES適性検査だった。
もともと自分が他の子供と“どこか”違うことを無意識に感じていた沙織は、見事にES適性検査でES能力の発現を確認された。
あとは、全てが沙織の思い通りに進んだ。本当は訓練校など通わずに源次郎の元で働きたかったが、『ES能力者』としては新米である。そのため訓練校で力を磨き、将来につなげようと思っていた。
訓練校でも沙織はその才能を遺憾なく発揮し、半年で正規部隊員並の実力を手にしている。
そんな沙織も初任務ということで張り切っていたのだが、内容は拍子抜けするようなものだった。自分の小隊の小隊長として博孝が選ばれているのが不満だが、面倒な隊長職を博孝が代行しているのだと思えば気も楽だ。
任務は何事もなく進み―――しかし、沙織の望む展開へと変わる。
二メートルを超える体躯に、この世のものとは思えないほどの様相。常人ならば腰を抜かしそうな化物―――『ES寄生体』を前に、沙織は昂揚から口の端を吊り上げた。
『武器化』で生み出した大太刀は、沙織がねだって『武神』である源次郎に一度だけ見せてもらった大太刀を模したものだ。一度とはいえ、細部に至るまで漏らさず記憶していた沙織は、自身が『ES能力者』になるなり、その記憶を頼りにES能力で大太刀を生み出した。それが四級特殊技能である『武器化』だと気付いたのは、それから少し経ってからである。
砂原に圧し折られた時は悔しさから一晩眠れなかったほどだが、いずれは砂原も追い越してみせると沙織は思っていた。
そんな、自信に溢れた沙織ではあるが、その実力は本物である。
『ES寄生体』の放つ『射撃』を掻い潜り、振り下される前肢を回避し、一閃のもとに前肢を一本切って落とす。その激痛で暴れる『ES寄生体』の動きも冷静に観察して全て回避すると、今度は後肢を一本斬り裂いた。その際返り血が沙織の頬につくが、それを拭う暇も惜しいと言わんばかりに大太刀を振るう。
全身に漲る昂揚。今ならば砂原にも勝てると思うほど、沙織の精神は充溢していた。
「は……あははっ! 見なさい! 『ES寄生体』にだって、わたしは勝てるわ!」
歓喜から、そんな声が漏れる。それは常の沙織らしからぬ、愉悦の表情だった。自身の身に着けた技術が、ES能力が、『ES寄生体』を追い詰めているという満足感。震えるほどの、身を焦がすほどの興奮。
沙織は動きが鈍くなった“獲物”を前に、嗜虐的な笑みすら浮かべるのだった。
「わーお……なんだこりゃあ……」
博孝は沙織の応援に駆け付けるなり、思わず、おどけるような言葉を漏らした。まるで局地的な竜巻が直撃したのかと思わずにはいられないほど、沙織と『ES寄生体』の戦いの場は荒れ果てていた。
沙織が斬ったのか、それとも『ES寄生体』が叩き折ったのかはわからないが、半ばから上がない樹木。地面は『射撃』の着弾で抉れ、ところどころで岩が砕け散っている。
そんな荒れ果てた舞台で、沙織は『ES寄生体』に対して優勢の戦いを行っていた。『ES寄生体』は前後の肢が一本ずつ欠けており、時折沙織へ攻撃を行うものの勢いがない。むしろ沙織に怯えている様子すらあり、生き物として強者に屈しかけているようだ。
「こりゃ、応援はいらなかったかな……」
ここまでくれば、沙織の勝利は揺るがないだろう。博孝がそう思えるほどに、沙織の力は卓越していた。
こうなると、沙織が命令違反で動いたのも怪我人である藤田から『ES寄生体』を引き離すためだったと考えることもできる。博孝は怪我人の回収と防御を固めてからの迎撃を選んだが、沙織は迷うことのない攻撃を選んだのだ。
(まあ、今回は上手くいったってだけだけど、な……)
だが、もしも『ES寄生体』が複数だった場合は、沙織の判断は最悪のものとなる。沙織が駆け出した時、まともに動けるのは博孝しかいなかった。恭介と里香は呆然自失としていたし、藤田は気を失っている。そうなると、ES能力の使えない博孝が一人で『ES寄生体』と戦うことになっていただろう。
勝てる、勝てないは横に置いておくとして、他の小隊員を危険に晒したことに違いはない。
(今……いや、この任務を無事に乗り切ったら、一度本気で怒ってみるか……)
自分の言うことを沙織が素直に聞くかは微妙なところだが、それでも今回の沙織の行動は砂原も知るところである。“命令違反”をなんとか“独断専行”であると押し通したが、それでも“指導”が入るのは確実である。砂原の言葉なら、多少は聞いてくれるだろうと思った。
沙織は『ES寄生体』が苦し紛れに放った光の矢を鮮やかに回避すると、人間でいう心臓に当たるであろう部分へ大太刀を突き刺す。そして一度捻ってから引き抜き、返り血を避けるように大きく後退した。そこで、沙織は博孝に気付いたのか一度だけ視線を向ける。
「なに? アンタが来ても、できることはないわよ」
そう言った沙織の顔は、今までにないほど上機嫌に輝いていた。『ES寄生体』と戦った興奮からか、頬を鮮やかに赤く染めたその姿はある種の色っぽさすら感じる。しかし、自分の身の丈以上の背丈を持つ『ES寄生体』を容易く下し、その頬に『ES寄生体』の返り血を付けた沙織を見ては、博孝としてはかける言葉もない。
何を言うべきか迷うが、ひとまず恭介たちの場所へ戻るべきだろうと判断した。
「……とどめは刺したな? とりあえず、元の場所に戻るぞ。藤田先輩は重傷だけど、命に別状はなさそうだった。今は応援を待ちつつ、岡島さんが治療に専念できる状況にする……色々と言いたいことはあるけど、それはこの任務を終えてからにする」
「なによ……『ES寄生体』は倒したんだから、文句はないでしょ。心臓を潰せば、いくらなんでも死ぬでしょうし」
しかし、博孝の言葉を聞いた沙織は不満そうな顔をする。そんな沙織の様子に博孝は頭を抱えたくなるが、一応は言うことを聞いてくれるのか、博孝の方へと歩み寄ってくる。初の戦闘で多少は疲れているのだろう。先ほどとは違い、気の抜けたような顔をしていた。
―――ピクリと、沙織がとどめを刺したはずの『ES寄生体』の体が動く。
『ES寄生体』に背を向ける形になった沙織は、それに気づくことができない。故に、気付くことができたのは博孝だけであり、最後の力を振り絞ったように跳躍する『ES寄生体』に対処できるのも、博孝だけだった。
「長谷川! 伏せろ!」
「え?」
沙織は博孝の言葉に不思議そうな顔をする。それを見た博孝は、間に合わないと見て地を蹴った。
近くまで寄っていた沙織を無理矢理横へと突き飛ばし、自身も横に跳ぼうとする。しかし、それよりも早く『ES寄生体』が残った腕を博孝へと振り下ろした。
「―――づっ!?」
沙織を突き飛ばしたことで体勢が崩れた博孝には、受け流すことも避けることもできない。それでも両腕を交差して『ES寄生体』の剛腕を受け止め、勢いに逆らわずに吹き飛ばされる。
咄嗟の防御だったが、『ES能力者』である博孝はなんとかその攻撃に耐えきった。ただし、『ES寄生体』の鋭い爪が博孝の右腕を深く抉り、空中に多少の血を撒き散らすことになったが。
「河原崎!?」
血の尾を引きながら吹き飛ばされる博孝を見て、沙織が声を上げる。たしかに心臓を潰したはずなのに、『ES寄生体』はたしかに動いていた。沙織は消さずにいた大太刀を振りかぶると、今度は心臓ではなく首を狙う。
博孝への攻撃で最後の力を使い果たした『ES寄生体』はその大太刀を避けることができず、沙織の狙い通り首を両断された。
さすがに、首を刎ねれば生きられないだろう。そう思った沙織だが、残心を解かずに『ES寄生体』の様子を窺う。しかし、今度こそ息絶えたようで安堵の息を吐いた。
「そうだ、河原崎!」
そこで博孝のことを思い出し、沙織は博孝が吹き飛ばされた方向へと駆け寄る。博孝は細い木を三本ほど圧し折り、勢いがなくなったことで地面へ転がっていた。それでも沙織の声を聞くと、腕から伝わる痛みに顔をしかめながら身を起こす。
「なんとか生きてるよ……くっそ、体を鍛えておいて良かったぜ」
腕自体は折れておらず、爪で切られて多少の出血がある程度だ。それでも、治療をしなければならないだろう。切られたのは右腕だけなので、痛みを堪えながら沙織へ視線を向けた。
「長谷川、止血頼むわ」
とりあえず止血用の布で縛っておけば、しばらくはもつだろう。そう判断して沙織に視線を向けると、沙織は視線を逸らした。
「ん? おい、長谷川?」
「……止血用の布、持ってきてないのよ」
「……はい?」
沙織が不貞腐れたように呟き、それを聞いた博孝は目を丸くした。
「おい……この戦闘服に標準でついていただろ……なんで持ってきてないんだ?」
「どうせ怪我人なんて出ないと思ったからよ……少なくとも、わたしが怪我するとは思わなかったし」
今度こそ、博孝は頭を抱える。自分の持ってきた分は藤田の止血や血を拭き取るのに使ってしまったため、予備がないのだ。とりあえず右手を心臓より上の位置に持ち上げ、ため息を吐く。
「……ああ、もういいや。とりあえず、恭介たちと合流するぞ」
怒る気すら失せてしまい、博孝は痛みを堪えながらも歩き出す。沙織はそんな博孝の後ろを、黙ってついていくのだった。
「おお、博孝無事……じゃ、ないっすね」
恭介たちの元へ戻った博孝と沙織は、そんな第一声で出迎えられた。恭介は『防殻』と『盾』を発現させており、周囲を警戒しているようだった。
博孝は苦笑しながら、揚げている右手を少し振る。
「長谷川が『ES寄生体』を仕留めたんだけど、最後に悪あがきをされてなー。ざっくりと切られたわ」
博孝がそう言うと、藤田の治療に集中していたのか、それまで気付いていなかった里香が顔を上げた。
「あ、お、おかえり……え、ええっ? か、河原崎君……う、腕っ」
里香は博孝の腕から血が流れ、その下の服まで赤く染めているのを見て顔を青ざめる。しかし、博孝としてはそれよりも気になることがあった。
「藤田先輩の容態は?」
「え? あ、う、うん……安定にはもう少しかかりそうだけど、応援が来るまではもつと思う。傷口はだいぶ塞がったんだけど……」
いつもの精神状態ではないからか、里香の『接合』も効果が薄いようである。藤田の腹部の傷は大部分が治っているが、それでも出血は続いているようだった。
「俺の治療は厳しいか……オーケー、そのまま治療を続行してくれ。恭介、止血用の布は持ってるよな? ちょっと巻いてくれるか?」
「え? あ、そう言えば胸ポケットに入れてたっすね。ちょっと待つっすよ」
そう言って、恭介は自身の胸ポケットから止血用の布を取り出すと、博孝の二の腕に巻きつけてきつく縛っていく。さすがに『防殻』や『盾』の維持をしながらでは難しかったのか、『盾』が消失した。
「とどめを刺したって言ってたっすけど、『ES寄生体』はどうなったんすか?」
「長谷川が首を刎ねてとどめを刺したよ。これでひとまずは……って、おい、長谷川、どこに行く気だ」
博孝の言葉の途中で、沙織が背を向けて歩き出す。それを見た博孝は思わず声をかけたが、沙織は振り向かずに答えた。
「……周辺を警戒してくるわ」
「おいおい……今はそれよりも、岡島さんの防御に回ってくれ」
「武倉がいれば十分でしょ」
吐き捨てるように言って、沙織は木々の中へと消えていく。それを見た博孝は、大きなため息を吐いた。
「いや、そりゃあ、周辺の警戒も必要だけどさぁ……ああもう! あまり離れるなよ!」
もしかすると、自分と顔を合わせ辛いのかとも博孝は思った。とどめを刺したと思った『ES寄生体』に攻撃された挙句、それを普段軽視している博孝に助けられたのだ。
(プライドが高そうだとは思ったけど、こりゃ重傷かねぇ……)
周囲の警戒は確かに必要ということで、博孝は自分を納得させる。
「これで良いっすか?」
すると、そんな博孝の腕を縛り終えた恭介が博孝に尋ねた。博孝は血の流れが止まっていることを確認すると、しっかりと頷く。
「おし、サンキュー。あとは俺の腕が壊死するまでに応援が到着することを祈るか」
「あ、そう言えばさっき教官から連絡があったっすよ。あと五分もすれば到着するらしいっす」
恭介が博孝から受け取っていたトランシーバーを手渡し、それを見た博孝は左手で受け取る。しかしいつもは右手で携帯ホルダーに入れているため、上手く収まらなかった。
「むう……利き腕と逆だと、難しいな……」
「あ、俺が入れるっすよ」
「いや、恭介は周囲の警戒を―――」
博孝がそう言った瞬間、木々に紛れていたものの、微かに白い光が瞬くのを視認する。その光が、先ほど藤田と襲ったものと酷似して見えた博孝は、目を見開いた。
(なっ!? まさか、“本当”に二体―――!?)
思考は一瞬。“敵”の狙う先を直感で看破した博孝は、声を張り上げる。
「恭介ぇっ! 岡島さんを守れ!」
「え? っ!? やばっ!」
恭介が消えた『盾』を再度発現しようとするが、間に合わない。『ES寄生体』は恭介が『盾』を発現するよりも早く、『射撃』を発現して光の矢を里香に向かって発射した。
「―――え?」
『接合』の維持に集中していた里香は、気付くのが一瞬遅れる。『防殻』を発現しようにも、驚愕が強くて間に合いそうにない。
『ES寄生体』の『射撃』によって放たれた光の矢は、合計五本。避けようにも避けられず、里香は呆然と『射撃』の猛威に晒され、その身を散らし―――。
「させるかっ!」
―――それよりも早く、博孝が滑り込んだ。
里香や藤田を庇うように、両手を広げて自身の体を盾にする。
『防殻』も使うことのできない、『ES能力者』としては落第の身だが。それでも、『ES能力者』である以上、体の頑丈さには自信があった―――それこそ、例え死のうとも、里香達を守りきれるぐらいには。
「博孝ぁっ!?」
恭介の声が遠くに聞こえる中で、博孝はその体を使って『射撃』を受け止めた。
『ES寄生体』から放たれた光の矢は、滑り込んだ博孝の右腕と左足、胸部と右わき腹、そして、額に命中する。
「――――――っ!?」
焼けた火箸を神経に直接刺されたような痛みと衝撃。悲鳴すら上げることができず、博孝は全身から血を噴く。特に、先ほど『ES寄生体』より傷を受けていた右腕は、再度の衝撃によって博孝に激痛を与えた。
「か、河原崎……君?」
目の前で起きた光景が理解できず、里香が呆然と呟いた。しかし、博孝にはそれに答える余裕がなく、前のめりに倒れる。その際血が飛び散り、里香の頬を汚したが、本人が気付くことはなかった。
「河原崎!? 武倉! 河原崎達を守りなさい!」
周囲を警戒していた沙織が、ようやく異常に気づく。『ES寄生体』が潜んでいたのとは逆の方向を警戒していたため、反応が遅れたのだ。その手には大太刀が握られたままになっており、すぐさま『ES寄生体』との戦闘に移る。
「か、河原崎君っ! 河原崎君!」
沙織が『ES寄生体』を引きつけている間に、里香が博孝を抱き起こす。それだけでも博孝は体中に痛みが走ったが、喉に“何か”が詰まって声が出なかった。急激に吐き気がこみ上げてきたので口を開くと、血の塊が飛び出す。
どこか内臓をやられたのか、と博孝は自分の吐いた血を見て、他人事のように思った。それでも血を吐いて少しは気が楽になるが、体の方はまったく言うことをきかない。
博孝は自身の血で赤く霞む視界で、自身を抱きかかえる里香の顔を見ると、その頬に自分の血が付着していることに気付いた。
「ごほっ! ……あ、あーあ……ご、ごめんな、俺の血で汚しちゃって……」
喉元をせり上がってくる血を飲み下しつつ、博孝は震える手を伸ばし、里香の頬についた血を拭おうとする。しかし、指も震えて上手く拭うことができなかった。
「あー……くそ……余計に、汚し、ちまった、か……」
掠れる声で、博孝は呟く。その声は本当に残念そうで、里香は血に塗れた博孝の手を握り締めた。
「い、いいからっ。そ、そんなのいいからっ」
「岡島さん! 『接合』を使うっすよ! 早く!」
「う、うんっ」
恭介の言葉に、里香は自身が博孝を癒す手段を持っていることを思い出す。しかし、『接合』を使おうにも集中できず、その力を発揮することができなかった。
「岡島さん!?」
「ぅ……ど、どうして……」
六ヶ月間共に過ごしたクラスメートが、友達が、目の前で苦しんでいる。それだというのに、里香は自身が持つES能力を発現することができない。そんな里香を見た恭介は思わず声を荒げそうになるが、それよりも先に博孝が口を開いた。
「お、怒るな、よ……きょう、すけ……岡島さんの、せいじゃ、ない……」
「博孝……」
全身に激痛が走りながらも口の端を吊り上げた博孝の言葉に、恭介は口を閉ざす。博孝は恭介から里香に視線を移すと、僅かに血を吐き出してから話しかけた。
「そ、そういえば……一つ、謝っておかないと、いけなかったな……」
「……え? な、なに?」
この状況で一体何を謝ることがあるのかと、里香は狼狽える。むしろ、庇ってもらった自分が謝るべきではないかと、里香は思った。そんな里香を見て、博孝は無理矢理笑ってみせる。
「さ、さっき胸に、触ったの……ほ、本当に、悪気はなかったんだよ……でもまあ、ちょっと、役得かな、と、思ったけど、ね。は、はっはっは……」
このままでは、あとから謝ることもできそうにない。そう思っての、謝罪だった。それでも、暗くならないようにと、博孝はおどけるように言った。
そんな博孝の言葉を聞いた里香は、目に涙を溜めて顔を伏せる。何かを言おうとするが、言葉にできないようだった。
「あ、ちゃあ……やっべ、女の子、泣かし、ちまったわ……」
それでも自身の手を強く握り締めてくる里香の姿に、博孝は少しだけ満足感を覚えた。
自身の負傷と引き換えに、里香に傷一つ負わせることなく守り通せたのだ。
そのことに満足して、徐々に明滅し始めた意識を奮い立たせ、博孝は青空を仰ぎ見た。
「あー……空、飛びたかったな……」
それだけを口にして、博孝はゆっくりと瞼を閉じる。それに合わせて、意識も遠退く。全身が激痛に包まれているが、自身の出血でぬるま湯のように温かい。
「博孝? おい、博孝!?」
「河原崎君!」
消えかけの意識の中で、恭介や里香の声が聞こえた。しかし、そこから再び目を開けることはできそうにない。
「河原崎! 無事か!?」
最後に砂原の声が聞こえたような気もしたが、博孝はそのまま意識を手放すのだった。