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第百九十一話:海水浴 その1

 ぽこぽこと、泡の弾ける音が耳朶を叩く。体を包み込むのは温かい液体であり、微睡(まどろ)むような心地良さがあった。

 泡が弾ける音以外、他には何も聞こえない。目を開けても真っ暗で、体を動かすこともできない。そもそも、体を動かす方法すら知らなかった。

 一つの音しか外界からの刺激がなく、その音すらも非常に小さなものだ。何も刺激がないというのは一種の拷問のようであり、永遠にも思える時が少しずつ秒針を進めるのを待つしかない。


 そうして一体どれだけの時間が過ぎたのか。一ヶ月か、一年か、十年か、百年か。もしかすると、まったく時間が過ぎていないのかもしれない。それほどまでに時間の概念が希薄で、刺激がなく、精神が徐々に壊れていくような退屈さだった。

 ふと、真っ暗だった世界に明かりが灯る。それは蛍光灯による明かりだったが、この時の“彼女”は知るはずもない。

 泡が弾ける音だけでなく、コツコツと靴が地面を叩く音も聞こえ始めた。それに合わせ、周囲では話し声も聞こえ始める。


「…………?」

「…………!」


 満たされた液体の中にいるからか、詳細な言葉は拾えなかった。それでも先程までの闇と極小の音だけに支配された世界より、億倍マシだろう。安らぐような気持ちになったが、それが『嬉しさ』や『楽しさ』という感情であることに“彼女”は気付かない。

 突然明るくなったことで目が眩んでいたが、それも時間が経てば元に戻る。“彼女”はほとんど動かない体の代わりに目を動かすと、周囲を見回し始めた。


 “彼女”がいたのは、分厚いガラスで造られた“入れ物”の中である。円筒状に造られた入れ物には薄緑色の液体が満ち、窒息しないよう“彼女”の口元には酸素マスクがつけられている。

 体一つ、身を覆うものもなく“彼女”は液体の中で静かに揺らめく。白い服――白衣を着た研究者達がそんな“彼女”の周囲にいたが、その視線は“彼女”以外にも向けられている。

 円筒状の入れ物は、一つではなかった。“彼女”と同様に、裸身を晒した“物体”が入れ物の中で人形のような顔を研究者達へ向けており、彼らはそんな“彼女”らを観察しているようだった。


「……適性の……以上……これは……か?」

「……クリアして……まだ……目標が……」


 研究者たちの声が、朧げに聞こえる。何を言っているかはわからないが、“彼女”にとってはそれだけでも天上の福音に思えた。暗闇も、変化のない無音に近い環境も、外界の刺激がある現状とは比べるに値しない。


「……目的の……は……成長……る?」

「……近々……もある……時に……」


 ほとんど聞き取れず、“彼女”には理解できない話をしている研究者達。“彼女”は身動ぎ一つせずにその会話を聞いていたが、ふと、その視線が動いた。

 “彼女”と同じようにガラスの入れ物に入っていた“物体”。その“物体”が薄緑色の水を抜かれ、外界へと引き摺り出されていたのだ。そして白衣を着た研究者とは別の、緑色の服を着た人物が部屋から連れ出していく。


 そして、その“物体”がこの部屋に戻ってくることはなかった。その日は他にも三つの“物体”が入れ物から出されて姿を消し、時間が経つと研究者達が部屋からいなくなる。

 音が遠ざかる。ぽこぽこと泡の音が聞こえるだけで、他の音が全て消失する。そのことを疑問に思う暇もなく、全ての明かりが消え失せた。

 再び暗闇が訪れたのだ。そしてそれは、永遠にも思える無明の時間の再来でもある。

 動くこともできず、暗闇の中で泡が弾ける音を聞き続ける時間。それが幾度繰り返されたのかも、“彼女”は覚えていない。


 ただの人間ならば、とうの昔に発狂していただろう。“彼女”も自身の精神がゆっくりと摩耗し、感情という感情が削られている。しかし幸か不幸か、“彼女”はそのことに気付かない。

 幾夜にも、幾年にも、幾世にも思える時間が経てば、再び明るい世界がやってくる。その度に視界に入る“物体”の数が減っているが、“彼女”はそれを気にすることもない。


「……嘘……計画……凍結?」

「……最後で……丙……次の……」


 相変わらず、研究者達の言葉はわからない。それでもしっかりとした音があるというだけで、暗闇の世界とは違うのだ。

 それまで話をしていた研究者達が、“彼女”に視線を向けてくる。そして、地面に転がる取るに足らない物体でも眺めるようにして、口を開く。


「コレはどうする?」

「完成度は高い。取り出して促成栽培を行う。“彼ら”が利用するらしい」

「ふーん……ま、多少はコストがかかってるんだ。壊すとしても何かの役に立ってからにしてほしいね」

「出荷すればどこかの金持ちが買うかもしれんがな。外見は幼いが、そういった趣味嗜好の者もいる」

「そう考えると勿体ないな。この前の実験体はどうなったっけ?」


 そんな、“彼女”にはわからない会話。それらの言葉が音となって聞こえるだけでも、“彼女”には満足だった。


「あっさりと壊れた。まったく、甲計画に比べて成果が乏しかったな……」

「こればかりは仕方ないさ。でも、早めに撤収する準備を進めておくか。こんな極東の島国でも、さすがにそろそろ誤魔化しが効かないらしい」


 その言葉を最後に、音が遠ざかっていく。


 ――ああ、再び暗闇の世界が訪れるのか。


 そう考えた“彼女”――みらいの意識は、そこで覚醒した。


「っ!?」


 薄い掛布団を跳ね除け、みらいは文字通り飛び起きた。そして慌てたように周囲を見回すが、視界に映るのは自分の部屋である。即応部隊の部隊員である自分に用意された、自分だけの部屋だ。

 博孝に買ってもらったぬいぐるみや、里香から譲られたぬいぐるみ。市原からもらった図鑑などが並んだ棚、買ったお菓子が置かれたテーブルなど、“今の”自分の部屋だ。


 時刻は早朝と呼ぶべき時間帯だったが、真夏の太陽は既に山際から顔を覗かせ、外の世界を少しずつ明るく照らし始めている。頭上を見上げれば、点けっぱなしにしておいた電灯が光っていた。

 暗くもなく、薄緑色の水に満たされることもなく、自分の体も意思通りに動く。頬をつねると痛みがあり、間違っても夢の世界の延長ではない。

 夏ということで薄手のパジャマを着ていたが、大量の寝汗によって湿っている。『ES能力者』は寒暖の差にも強いため、暑さによって汗をかいたわけではないだろう。


「ゆめ……」


 僅かに呼吸が乱れているのは、それほどまでに見ていた夢が辛いものだったからか。最近は見ていなかったが、自身の妹と名乗るベールクトと出会ってからは再び見始めた、悪夢とも言える夢。

 そんなみらいの視界に、部屋の隅にまとめられた荷物の山が見えた。ビニール製の浮き輪に、通販で買った水着。他にも里香達の勧めで買った日焼け止めなど、海水浴には必要と思われる物ばかりである。


 そう、今日は待ちに待った海水浴の日だ。兄である博孝が発案し、訓練校からの付き合いがある者達が参加する“楽しい”日だ。

 その楽しい日を満喫しようと、昨晩は自主訓練も早めに切り上げて床に入った。それだというのに、見た夢は悪夢である。


 遠い日の、退屈で刺激がない地獄のような日々。夢の中で何かの話を聞いた気もするが、当時のみらいにはまったく理解ができず、言葉の数々を思い出そうとしても霧のように曖昧で、思い出そうとした端から零れ落ちていく。


「……おにぃちゃん……」


 思わずみらいは呟き、無意識の内に立ち上がっていた。そしてフラフラと歩き、パジャマのままで部屋から出てしまう。

 夢とは違い、自分の足で動ける。外は無味乾燥とした世界ではなく、早朝にも関わらず蝉の鳴き声が遠くに聞こえた。みらいは階段を駆け下り、博孝の部屋へと向かう。すると、丁度自主訓練を切り上げてきた博孝と出くわした。


「おにぃちゃん!」

「……みらい? どうしたんだ、そんな格好で?」

「パジャマのままじゃない……」


 その場にいたのは、博孝だけではない。博孝と最後まで自主訓練を行っていたのか、沙織の姿もあった。二人ともパジャマ姿で突然現れたみらいに対し目を丸くしている。

 みらいは居ても立ってもいられず、飛ぶようにして博孝に抱き着く。博孝は驚いたようだったが、それでもしっかりとみらいを抱き留めた。


「おっとっと……どうした? 怖い夢でも見たか? それとも、海水浴が楽しみで目が覚めちゃったか?」


 優しい声色で尋ね、博孝はみらいの頭を撫でた。その感触が心地良く、みらいは抱き着いた両腕に力を込める。博孝はそんなみらいの様子に苦笑すると、みらいの両腕を丁寧に解いてから抱き上げた。


「こわい……こわいゆめを、みたの……」

「そうか……」


 博孝は詳しいことを尋ねず、あやすようにしてみらいの背中を叩く。すると、それを見た沙織も微笑みながらみらいの頭に手を乗せた。


「怖い夢、か……でも大丈夫よ、みらい。ここには博孝もいるし、わたしもいるわ。例え悪夢が迫ってきても、斬り払ってあげる」

「……うん」


 沙織の言葉に小さく頷くみらい。そんなみらいに対して微笑んでいた沙織だが、何かに気付いたように眉を寄せる。


「よく見たらたくさん汗をかいているわね……海水浴に行く前だけど、お風呂に入りましょうか。ちょっと狭いけど、わたしと一緒に入りましょう?」


 そう言いつつ、沙織は博孝に目配せをしながら両腕を広げた。博孝はそれに頷くと、抱き上げていたみらいを沙織に渡す。すると、みらいは沙織にしがみ付いた。


「あら……どうしたのかしら? 今日のみらいは甘えん坊ね。でも、みらいも女の子なのだから、汗をかいたままパジャマ姿でいるのは良くないわよ?」


 みらいを抱き締めたままでそんなことを言い、沙織は優しく微笑む。


「それじゃあみらいをお風呂に入れてくるわね」

「悪いな。ちょっと時間は早いけど、その後は朝食にしようか」

「わかったわ」


 みらいの様子を不思議に思いつつも、博孝は沙織の厚意に甘えることにした。今のみらいには、傍に誰かがいた方が良いと判断したのである。みらいの様子から自分が一緒の方が良いと思った博孝だが、羞恥心が芽生えたみらいと一緒に風呂に入るのは気が咎めた。

 沙織はみらいを抱き締めたままで階段を昇ろうとしたが、ふと、いいことを思い付いたといわんばかりに笑顔で尋ねる。


「……博孝も一緒にお風呂に入る?」

「ハハハ、時間を置けば一緒に海に入るんだし、今は遠慮しとくよ」


 沙織の冗談を軽く流し、博孝は自分の部屋へと歩を進める。沙織は本気だったのか冗談だったのか、小さく肩を竦めてからみらいを自室へと連れて行くのだった。

 







 休暇に海水浴をしたいという提案は、意外にもあっさりと許可が下りた。砂原に提案をしに行った博孝としても、肩透かしされたような気分になったほどである。

 博孝や沙織などは休日と自主訓練がイコールで結ばれているが、『ES能力者』も休日は休むものだ。人によっては家族サービスに精を出し、恋人とデートし、友人とショッピングなどに出かける。その辺りは普通の人間と一緒だ。


 博孝から海水浴をしたいと聞いた時は一体何事かと思った砂原だが、“事情”を聞いてすぐに許可を出した。

 『ES能力者』も休日に街へ繰り出すことがあるが、海水浴場へ赴く機会はほとんどない。それは男性の『ES能力者』ほど顕著で、明らかに一般人とは思えないほど鍛えられた体を海辺で晒すと、誰かしらが通報して警察が飛んでくるのである。


 体を鍛えているだけならばそれほど珍しくはないのだが、身の纏う雰囲気が常人とは違い過ぎた。また、人によっては体に傷跡が残っているため怯えられてしまうのだ。

 そのため、『ES能力者』が基地の敷地内に存在する海辺などを利用することは珍しくないらしい。砂原が苦笑しながら許可を出した辺り、砂原も利用した経験があるのかもしれない。


 優花の護衛任務が終わってからも任務や訓練があり、博孝などは書類に埋もれていたため、休暇に羽を伸ばすことを推奨された。肉体的な疲労は少なくとも、精神的な疲労が溜まっていると判断されたのである。

 部隊全員が休むわけにはいかないため、休暇を取る場合は小隊単位で取る。しかし、今回は精神的な休養――それも正規部隊に配属されて日が浅い者達のためという事情もあり、第七十一期卒業生達が揃って休みを取ることができた。


「自分で誘ってなんだけど、代わり映えしない顔ぶれだなぁ……」


 砂浜へ向かう途中で、博孝がぽつりと呟く。周囲にいるのは第三空戦小隊だけでなく、陸戦に配属された仲間達も一緒である。博孝が『海水浴に行こうぜ!』と誘うと、すぐに『行こう行こう!』と乗り気で賛同してきた。

 基本的に博孝が発案して動く場合は楽しい催しになるため、誘われた中村達も二つ返事で参加するのである。陸戦部隊員を取りまとめる間宮も、たまには羽を伸ばしてこいといわんばかりに休暇の許可を出していた。


 ぞろぞろ海辺に続く道を歩きつつ、それぞれが思い思いに雑談を交わす。だが、その中にみらいの姿はない。何故ならば、みらいは博孝の肩の上にいるからだ。

 海辺に向かうと聞くなり、みらいは博孝の体をよじ登り始めた。そして自分で肩車の体勢を取ると、そこが自分の居場所だと言わんばかりに博孝の頭に抱き着いたのである。


「今日はずいぶんと甘えん坊だなぁ。兄ちゃんとしては嬉しいけど、目的地に歩いていくのも楽しみの一つだぞ?」

「……やっ」

「嫌かー、そうかー。でも、掴むならおでこにしてくれよ? みらいの力で髪の毛を掴まれると、そのまま根こそぎ引っこ抜けそうだからな?」


 自分の毛根の心配をしつつ、軽口を叩く博孝。みらいがバランスを崩さないように両足を掴み、あとはみらいの好きにさせている。たまにみらいが後ろや左右に倒れそうになると、その都度沙織が腕を伸ばしてみらいを支えた。


「みらいちゃん、どうかしたのかな?」

「さあ? なんか朝からあんな調子らしいっすよ?」


 そんな博孝達の様子を見て、里香と恭介が首を傾げる。みらいが海水浴を楽しみにしていたのは知っているが、そうだとしてもあれほどまでに博孝へ甘える理由にはならない。

 みらいが博孝に甘えること自体はそこまで珍しくないが、羞恥心が芽生えてからは徐々に減りつつあった。それだというのにここまで甘えるみらいというのも珍しい、と里香は思う。


「てか、何か沙織っちの対応も甲斐甲斐しいっすよね」


 みらいがバランスを崩さないよう注意し、何かあればすぐに手を伸ばしている。みらいはその度に沙織へ笑顔を向け、くすぐったそうに笑ってもいた。


「なんか、アレっすよね。夫婦とその子どもみたいな――」


 そこまで口にして、恭介は口を閉ざす。思わず言葉にしてしまったが、里香相手に言う台詞ではないと気付いたのである。


「……うん?」


 恭介の言葉が聞こえていたのか、それとも聞こえていなかったのか。里香が笑顔で首を傾げると、恭介は直立不動になって敬礼をした。


「何でもありません、サー!」

「そう? 変な武倉君」


 執拗な追及はなく、恭介はそっと胸を撫で下ろす。里香はそんな恭介の様子を気に留めず、博孝に肩車されたみらいへ視線を向けた。

 外見同様精神的にも幼いみらいだが、理由もなくあれほどまでに甘えることは少ない。甘えること自体はよくあることだが、それでも限度があった。


(やっぱり何かあったのかな……)


 みらいとベールクトの間でどんな会話が行われたかは、博孝から報告されている。ベールクトの方がみらいに執心しているようだが、みらいとしても思うところがあるようだ。

 ここ最近は落ち込んだような、何かを考えるような様子が多く、里香としても気になっていた。ただしそれは、妹のように思うみらいを心配しつつも、どこか警戒の念を覚えるという複雑なものである。


 河原崎みらいという少女は、その名前を得るまでの経歴が全くの不明だ。訓練生時代の任務で初めて遭遇した時も、違法研究が行われている施設から逃げ出してきたと判断されている。

 『天治会』そのものか、あるいは『天治会』に属する組織の手によって“造られた”と考えられており、当初は戸籍も名前もないみらいの扱いに関して色々と問題があった。源次郎によってそれらは解決したが、みらい個人に対する疑念は尽きていない。


 何故か『天治会』の者達からも狙われている節があり、ラプターなどにも襲われた。そして今回は、ベールクトが個人的にみらいへ遺恨を抱いている節が見受けられる。

 ベールクトが個人的に確執を抱いているようだが、もしかすると『天治会』の中でも様々な事情があるのかもしれない。それが『天治会』が一枚岩でないことの証左ならば、事を構える即応部隊にとっても利になる可能性がある。


(そうだといいけど……でも、もしかしたら……)


 『天治会』かそれに属する組織で、人工的に造られたと思わしきみらい。ないとは思いたいが、みらいが『天治会』の“スパイ”である可能性があった。

 優花の護衛任務の際、里香は源次郎や春日の手を借りている。しかし、その情報は事前に通知しておらず、即応部隊の面々には階級で区切って情報を渡しただけだ。


 発案者である里香と砂原は、作戦の内容全てを。

 士官組には名前を伏せたものの“援軍”が存在することを。

 そして、隊員には有事の際の動き方だけを知らせてあった。


 味方から情報が漏れている可能性を考慮して情報を制限したのだが、護衛任務によってある程度の“目星”がついてきている。


 最初の時点で、里香は砂原が『天治会』の一員ではないことを信用していた。そもそも、砂原が『天治会』側ならば “全て”が終わっていただろう。『天治会』が狙っていると思わしき博孝やみらいは、既に殺されるか攫われるかしていたはずだ。

 士官組に関しても、敵である可能性は低いと思っていた。そして、護衛任務の結果である程度の確証も得ることができた。


 ベールクトと交戦した博孝によると、ベールクトは春日が駆け付けることを知らなかったのである。そのため即座に離脱したが、この行動にはもう一つ気になる点があった。

 博孝の話によれば、ベールクトが気付いたのは春日の存在だけらしい。捕獲される可能性があるということで離脱したが、春日が姿を見せた東扇島とは逆方向――横須賀基地からは源次郎が出撃していた。

 源次郎と春日のどちらが脅威かと問われれば、ほとんどの『ES能力者』が源次郎だと答えるだろう。生きたまま捕獲される可能性を考慮して春日の方だけを意識したのかもしれないが、無視するには『武神』の名が大きすぎる。


 そもそも、『武神』と『鉄壁』が出てくることを知っていれば、ベールクトは出てこなかったのではないか。理屈ではなく感情で動いている節があるため確証は持てないが、それでもベールクトには捕獲されることを危惧して撤退する冷静さがあった。

 策の全容を知っていた里香と砂原は除外。名前は知らずとも援軍が存在することを知っていた士官組も、限りなく白に近い。


 そうなると、身内に“敵”が混ざっていた場合は隊員の中にいると判断するべきだろう。そしてそれは、『天治会』に造られたと思わしきみらいがそうだという可能性を示している。

 無論、それはあくまで可能性の話だ。しかし、“これまで”のことを思えば決して無視できるものではない。


 里香が源次郎や春日に動いてもらったのは、何も戦力面に限った話ではなかった。むしろ、敵の動き方からどこに“ネズミ”が潜んでいるかを探るためである。

 『天治会』の動き方は、里香が首を傾げるほどに的確だ。それはつまり、そうなるだけの理由が存在するということでもある。


 源次郎や春日の動き方で悟られる可能性もあったが、極力それを除外するために源次郎には当日に抜き打ちという形で動いてもらい、春日にも事情をそれほど伝えず、『零戦』用の駐屯地へ帰還する際の航路を急遽変更してもらったのだ。


 それが事前にわかっていたのならば、敵も動き方に変化があったはずである。それだというのに予測通り襲撃してきたのなら、それは敵が“動ける”と判断したからだろう。

 ただし、博孝がベールクトから聞き出した情報によると、ベールクト自身は元々動く予定ではなかったらしい。その点を考えると、自分達の動きを“ある程度”掴んでいた可能性もある。

 もしもベールクトが動いていなかったのならば、里香としては“ネズミ”がどの辺りに潜んでいるか目星をつけることができた。限りなく白に近い士官組も、完全に白だと断言できただろう。


(可能性は隊員の方が高くて、でも、士官も完全には無視できない……博孝君本人は除外するとしても、斉藤中尉や間宮大尉は……)


 味方を、仲間を疑わなくてはならない現状。その現状に対して里香は暗鬱とした気分になるが、これこそが里香の役割でもあった。


 ――しかし、味方にスパイがいたとしても腑に落ちないことがある。


 スパイには色々と役割があり、機密情報などを得るのも役割の一つだ。即応部隊に関する情報を敵に流しているのだろうと里香は考えているが、その方法がわからない。

 『ES能力者』が通信に使用するのは専用の携帯電話であり、私用で使ったとしても記録が残る。メールも内容を検閲されており、電話で情報を漏らすとしても相手の電話番号次第では容易く検知される。

 スパイが単独ではなく複数潜んでおり、それぞれが気付かれないよう隠蔽しているのなら発見は難しくなるだろう。または、『通話』を使用して情報を流しているのかもしれない。

 複数犯による隠蔽、あるいは『通話』の使用。そのどちらかだろうと里香は思うが、それも確証がないことだ。


(もしかすると、わたしが思いつかないだけで“他の手段”があるのかも……)


 ぐるぐると、様々な情報が脳裏で飛び交う。現状では推測にしかならない部分もあるため、必要以上に考える必要はない。里香はそう思うが、直接戦闘では博孝達の隣に立つことができないのだ。

 だからせめて、即応部隊の参謀職としての役割ぐらいは全うしたい――そんなことを考えていた里香の肩が、不意に叩かれた。


「里香ちゃん、怖い顔をしてるわよ?」


 里香の肩を叩き、苦笑しながらそんな声をかけてきたのは希美である。隣を歩いていたはずの恭介は若干距離を取っており、尻尾を巻いた犬のような顔をしていた。


「えっ……あ、そ、そんなに変な顔をしてました?」


 慌てたように里香が尋ねると、希美は苦笑を深めながら眉を寄せ、両目の端を指で引っ張る。


「こんな感じで眉が寄って、目も怖いぐらい細かったわ……武倉君がああやって逃げるぐらいに」

「ち、違うっすよ!? 岡島さんが怖くて距離を取ったわけじゃないっす! 考え事を妨げるとヤバイかなって思っただけっす!」


 必死に首を横に振って身の潔白を訴える恭介だが、その態度と言葉が全てだった。希美はそんな恭介の態度に笑っていたが、やがて心配そうな様子で里香の顔を覗き込む。


「もしかして、体調が悪かったとか?」

「いえ……ちょっと考え事をしてて」


 誤魔化すように微笑む里香だが、希美は何かを考えるように視線を巡らせる。そして博孝とその肩に乗ったみらい、その傍で世話を焼く沙織の姿を見て、納得がいったと言わんばかりに頷く。


「ああ……うん、考え事をしてたのね。野暮なことで声をかけてしまったわね、ごめんなさい」

「……何か誤解があるような気がします……」

「え? その、嫉妬……とか?」


 言い難そうに告げる希美。里香は目玉が飛び出そうなほどに驚き、慌てて両手を振る。


「ち、違いますっ。ほ、本当に考え事をしてたんですっ」


 必死に否定する里香だが、その様子を見た希美はますます申し訳なさそうな顔をした。


「そう? “里香ちゃんも”そうなのかなって思ったのだけど……折角の海水浴なんだし、もう少し肩の力を抜いて楽しみましょうよ、ね?」

「うぅ……はい……」


 なんとか納得してもらえた安堵から、里香は疲れたように返事をする。希美の言う通り、折角の休日、折角の海水浴なのだ。楽しまなければ損だろう。

 他の女子もそうだが、折角の機会ということで水着も新調したのだ。訓練生時代に使っていた競泳用水着でも良かったのだが、それは女子としてのプライドが許さなかった。里香はサイズ的にまったく問題がなく、違う意味で凹んだが。


「そうですね……今日ぐらいは職務を忘れて、たくさん遊びましょう」

「それがいいわ。里香ちゃんも河原崎君も、少尉として毎日が大変そうだもの。こういう機会に息抜きしておかないと倒れちゃうかも」


 最後には冗談のように言って、希美は小さく微笑んだ。里香も微笑み返し、徐々に見えてきた砂浜へ視線を向け――そこでふと、気付く。


「……わたしも?」


 思わず足を止めながら呟く里香。何か、とても重要で重大で、聞き逃すには危なすぎることを希美が言ったような――。


「里香ちゃん? どうかした?」


 足を止めた里香に対し、希美が不思議そうな顔をして尋ねる。里香は慌てて追いつき、希美に対して先ほどの発言について聞こうとした――が、さすがにこんな状況でどう尋ねれば良いか判断ができない。


(わ、わたしの聞き間違いかもしれないし……)


 うん、きっとそうだ、などと自分に言い聞かせ、里香は砂浜へ続く道を進むのだった。












たまには戦闘も襲撃もなく、平和に海で遊ぶのもいいと思います。


どうも、作者の池崎数也です。


毎度ご感想や評価等をいただきまして、ありがとうございます。

海李さん、leafrubyさんよりレビューをいただきまして、合計で14件になりました。レビューをいただき、ありがとうございます。

『砂原』や『教官』や『ヒロイン』といった言葉に気を取られていましたが、高確率で『おじ様』の文字が入っていることに最近気付きました。


それでは、こんな拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。

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