第百七十七話:護衛任務 その1
翌日、午前八時になると即応部隊の全員が会議室に集合していた。これから東京に向けて出発するのだが、その前に砂原が全員分の遺書を回収していく。
封筒の表面には『遺書』の二文字、裏面には名前が書いてあるが、砂原が受け取ったいくつかの封筒は書かれている文字が震えたように歪んでいる。それは第七十一期卒業生に多く、正規部隊から引き抜いてきた人員は比較的まともだ。
『天治会』と戦う可能性があるということで、相手を殺し、自分が殺されることを考えて恐怖の感情を覚えたのだろう。第七十一期卒業生は実戦経験があるが、敵性『ES能力者』と直接交戦した者は少ない。
しかし、博孝を始めとした第三空戦小隊の面々は敵性『ES能力者』との交戦経験もある。差し出された遺書は、綺麗に整えられていた。ただし、みらいだけは辞書でも見ながら書いたのか、漢字の書き方がぎこちないが。
「ほう、余裕がありそうだな」
遺書を受け取った砂原は、博孝達にそんな言葉をかけた。そんな砂原に対し、博孝は肩を竦めてみせる。
「遺書を書くこと、覚悟を決めることよりも、今回の任務で発生する書類仕事を片付ける方が大変ですからね」
「こういう時こそ平常心が重要ではないでしょうか?」
書類仕事の方が大変だと言ってのける博孝と、平然と答える沙織。恭介は苦笑しながら手を振った。
「これでも何度か殺し合いを経験してますから……というか、今はそれよりも先に優花ちゃんに会いたいっすよ!」
「……ないようより、かくほうがたいへんだった」
みらいとしては、漢字を使ってきちとした文面にする方が大変だったようだ。そんな四人を見た砂原は、小さく笑う。
「頼もしい限りだ。他の者はこれぐらい楽観的に……とは言わんが、もう少し肩の力を抜け」
そう言って砂原は第七十一期卒業生達一人ひとりの肩に手を置き、即応部隊としての本格的な任務を前にした緊張を解していく。この点においては、既に正規部隊での経験がある斉藤達の方が優れた部分だ。
「なあに、安心したまえよ諸君。天才であるこの俺に任せておけば、護衛任務など朝飯前だ。大船に乗った気でいたまえ」
「ま、このアホぐらい楽観的になれとは言わねえが、少しは見習っとけ。余分な力は入れるなよ? 余計に力んだ分、護衛対象を守るのが遅れるからな」
自分を指差して得意顔で“励ます”福井と、それに乗って苦笑しながらアドバイスを送る斉藤。しかし、斉藤の言葉を聞いた福井は心底不思議そうに首を傾げた。
「アホとは誰のことです?」
「……ああ、やっぱりコイツは見習わなくていいからな」
福井の様子に、斉藤は前言を撤回する。それを聞き、硬くなっていた第七十一期卒業生の面々はようやく笑顔を見せた。
砂原は空気が軽くなったのを感じると、内心で苦笑しながらも両手を叩いて部隊員達の意識を引き締めさせる。
「それでは、部隊内の配置を伝える。状況によっては入れ替わるが、今後の基本的な配置になるから頭に叩き込んでおけ」
そう言って、砂原は正規任務を行う際の人員配置を述べていく。
即応部隊の部隊長である砂原は全体の指揮を執りつつ第一空戦中隊、第一空戦小隊の隊長を兼ねる。部下には空戦部隊から引き抜いた若手空戦部隊員を三名。
第二空戦小隊長を務める斉藤には、部下に福井と空戦部隊員二名。
第三空戦小隊長を務める博孝には、部下に沙織と恭介、みらい。
陸戦部隊は間宮を中隊長兼第一陸戦部隊長に据え、他の小隊長に陸戦部隊から引き抜いた士官二名を据えた。希美や中村達はそれぞれ別れ、小隊員として働くことになる。
里香は補佐として砂原の直属であり、砂原が指揮を執れない状況かつ里香よりも上位の士官がいない場合の指揮代行だ。里香本人は陸戦のため、間宮から中隊の指揮についても学ぶ予定である。
「繰り返しになるが、状況によって配置が変わる。今回の護衛対象は女性だ。護衛対象の身の安全が最優先とはいえ、普段の生活は極力侵せん。何かあれば、女性の『ES能力者』だけで周囲を固めることも有り得る。わかったな?」
『はっ!』
「よろしい。それと……福井軍曹」
そこで何故か、福井を呼ぶ砂原。声を掛けられた福井はビクリと身を震わせた後、踵を合わせて敬礼を行う。
「はい少佐殿!」
「貴官は斉藤中尉の指示にきちんと従えよ? もしも阿呆な真似をしたら――わかっているな?」
「はい少佐殿!」
真顔で頷く福井。それを見た博孝は、『よく教育されてるなぁ』と他人事のように思う。博孝と接する際の態度は多少問題あるが、それ以外では“一応”公私を弁えているのだ。斉藤が手綱を握るのならば、問題も起きないだろう。
砂原と福井のやり取りを聞くと、部隊員達は再び空気を緩めた。博孝はその空気に浸りつつ、今回の任務について考える。
遺書については、本当に悩んでいなかった。死んだ場合の遺産や遺族年金を両親に渡すよう記載しただけで、他には特筆すべきこともない――ただし、それは自分のことだけだ。
訓練生時代もそうだったが、今は正規部隊での小隊長である。部下の命を預かる立場であり、自分自身の判断が部下の命を危険に晒すこともあるだろう。
(気を引き締めて任務に取り組まないとな……)
死ぬのが自分だけならばまだ良いが、部下を道連れにするのは御免だ。それも、相手は三年以上の深い付き合いがある大切な仲間達である。
密かに右手を握り締め、博孝は自分自身に気合いを入れるのだった。
博孝達が最後に東京へと訪れたのは、一年以上前のことである。第二指定都市の防衛戦に関して表彰を受けるために訪れたのが最後で、それ以降は足を運んでいない。
そして、陸地を移動して訪れたのは修学旅行以来である。今回は移動用の軍車両に乗り込み、駐屯基地から一路東京へと向かった。
駐屯基地には対ES戦闘部隊が半数残っており、砂原達が不在時の対応を行っている。近隣の駐屯基地とも連携しているため、有事の際はすぐに『ES能力者』が飛んでくることが可能だ。
諸々の問題を手早く片付け、東京へと向かった即応部隊。しかし、問題は駐屯基地ではなく護衛対象側にあった。
「砂原さん、我々は腕の立つ『ES能力者』を要請したはずですが?」
東京に到着し、護衛対象の関係者――神楽坂優花のマネージャーだという男性と顔を合わせるなり、そんなことを言われたのである。
歳の頃は三十代の半ばというところだろう。理知的な雰囲気を持つ男性だったが、その顔には不審の色がありありと出ている。
顔を合わせた際に利用した場所は、マネージャーが所属するプロダクションが所有しているビルの一室だ。芸能活動の拠点にしており、都内の建物に似合いの高層建造物である。
連れてきた対ES戦闘部隊の兵士達は警戒されないよう、私服に着替えてから到着先のビルの周囲に散っており、狙撃ポイントや不審人物がいないかの確認を行っていた。
マネージャーの言葉を聞いた砂原は、ピクリとも表情を動かさずに淡々と答える。
「腕が立つ『ES能力者』ですか……我々『ES能力者』を外見で判断されるのは困りますな。護衛の観点からも、その認識は捨てていただきたい」
情報が制限されている民間人ならば仕方がないとはいえ、『ES能力者』を外見だけで判断するのは危険な話だ。淡々とそう説明する砂原に対し、マネージャーは僅かに鼻白んだ顔で周囲を見回す。
「……こんな子供、役に立つんですか?」
そう言いながら、マネージャーはみらいに視線を向ける。その視線に宿るのは、みらいの外見に対する偏見と不安だろう。ただでさえ、博孝達も外見は高校生の少年少女だ。さすがに砂原や斉藤、間宮を疑うことはしないようだが、その不安も尤もだろう。
「一対一ならば、その辺の『ES能力者』程度は軽くあしらえるだけの技量を持っております。ご安心ください」
「気軽に言いますね……犯行予告を出してきた相手はあの『天治会』なのですよ?」
『天治会』の名は有名であり、マネージャーからは心配の色が抜けない。その気持ちは砂原としても理解できるが、一歩も譲らなかった。
「それはあくまで可能性の段階です。本当に『天治会』が出張ってくるか、決まっているわけでもない。我々が言えることは、護衛対象を必ず守り抜くということだけです」
軍人としての仮面を被り、砂原は淡々と言うだけだ。ここで多くの言葉を使おうと、マネージャーの心配は拭えないだろう。それならば、ありのままに事実だけを述べた方が良い。
「外見は若いですが、皆有望な若手です……まあ、こちらの戦力が具体的にわからないというのは不安でしょうな」
そう言いつつ、砂原は周囲に視線を巡らせた。どれぐらいの資金をかけたのかはわからないが、今いる場所は鉄筋コンクリートで造られた頑丈なビルの中である。
「若手の一人……そうですな。おい、河原崎少尉。貴様ならばこのビルを粉微塵に破壊するのにどれぐらい時間がかかる?」
「はっ、小官でありますか?」
砂原の質問に対し、博孝は一歩前に出た。マネージャーはそんな博孝に対して胡乱気な視線を向けたが、博孝は砂原の意図を理解して内心で苦笑し、表面は真面目に指一本を立ててみせる。
「……一日ですか?」
「いえ、十秒です」
マネージャーの質問に対し、博孝は気軽に答えた。ビルは二十階建てだが、上空から『砲撃』を乱射すれば簡単に破壊できるだろう。『活性化』を併用して全力で撃ち込めば、もしかすると十秒もかからないかもしれない。
「全力なら一発でいけるかもしれませんが……少佐殿ならどれぐらいです?」
博孝がそう尋ねると、砂原は重々しく頷いて博孝と同様に指を一本立ててみせた。
「一秒だな。全力で『爆撃』を使えば周囲のビルごと破壊できるだろう」
その返答に、マネージャーは口を開けて目を丸くする。砂原はそんなマネージャーの様子を見て、表情を和らげた。
「ご理解いただけましたか? 我々はそういう存在なのです。本当に『天治会』が出てくる可能性を考えれば不安に思われるかもしれませんが、信用していただきたい。一番若手の士官であるこの少尉ですら、その程度のことはできるのです」
優しげに恐ろしいことを告げる砂原だが、その話を聞いていた部隊員達は揃って内心で苦笑している。
博孝を一番若手の士官と言っているが、他の者まで同じことができるとは言っていない。これも護衛者側の者達を安心させるためなのだろうが、民間人にとっては心臓に悪い話だろう。
「そ、そうですか……それでは、うちの優花の身の安全は保証していただけると?」
「ええ。そもそも、ここは東京です。仮に『天治会』が侵入するとしても、その数は少数になるでしょう。仮に襲撃されたとしても、我々がいくらでも料理できます」
砂原がそう言うと、マネージャーはようやく表情を和らげた。しかし、それを見た博孝は内心で思う。
(隊長にしてはだいぶリップサービスしたな……それぐらい言わないと信じてもらえないってことか)
『ES能力者』の情報は大きく制限されており、民間人で詳しく知る者はほとんどいない。博孝もかつては情報収集していたが、『ES能力者』の特徴程度しか調べられなかった。
これが『ES能力者』だけの話なら、『穿孔』の砂原が護衛に就くと聞いただけで安心しただろう。襲撃者ですらも、その名前を聞いただけで襲撃を諦めかねないほどだ。
民間人との意識の差を脳裏に刻みつつ、博孝は真面目な顔で砂原とマネージャーの話を聞く。ここで腑抜けた態度を取っていれば、折角得られ始めた信用を失うだろう。
護衛任務では、護衛対象側との信頼関係も重要である。護衛のことを信用せずに妙な動きをされれば、それだけで危険な事態に陥ることもあるのだ。
「わかりました……知らないこととはいえ、失礼を申しました。謝罪いたします」
砂原の言葉を信用したのか、マネージャーは頭を下げる。砂原は微笑みながら首を横に振ると、下げた頭を上げさせた。
「いえ、民間の方にとってはそれが正常な反応です。それで、護衛対象の神楽坂優花氏はどちらに?」
「窓がない別室に待機させています。すぐに連れてきますので」
窓がない部屋というのは、外からの狙撃対策として考えたのだろう。しかし、砂原の話を聞いた後ではそれも意味がないことだったのか、と苦笑に近い表情を浮かべている。
「なあなあ、博孝はどう思うっすか?」
マネージャーが退室すると、恭介が小声で話しかけてきた。それを聞いた博孝は、腕組みをしながら頷く。
「マネージャーさんは中々警戒心が強いみたいだな。職業柄仕方ないのかもしれないけど、護衛する側からすればあの警戒心はありがたい」
「そっちじゃないっすよ! これから生の優花ちゃんに会えることについてっす!」
ワクワクした様子を隠さず、恭介が尋ねる。見れば、みらいも忙しなく視線を彷徨わせていた。それを見た博孝は、若干冷たい目付きに変わる。
「そんなことを気にしている暇があったら、ここから見える分だけでもいいから周囲の建造物を頭に叩き込んどけよ。高層ビルが多いからな……対ES戦闘部隊の人達が動いてるけど、狙撃なり監視なりに適したポイントは多そうだ」
恭介やみらいの気持ちもわかるが、今は任務中だ。それも即応部隊としては初めての正規任務であり、余計なことに気を回す余裕はない。しかし、その会話が聞こえたのか砂原が口を挟んだ。
「気を張り詰めるのは良いが、護衛対象に余計な心配はかけるなよ? 『探知』で周囲を探っているが、今のところ妙な『構成力』はない。もう少し普段通りにしていろ」
「はっ……了解であります」
あまりピリピリとした空気を発しているのも問題だろう。砂原の言葉でそう自省した博孝は、自分の頬を揉んで表情筋を緩める。すると、今度は福井が博孝に話しかけた。
「なんだ、緊張しているのか同胞よ。だが安心したまえ。この天才がいれば、何も問題はない。そうだろ、河原崎少尉?」
サムズアップして自分を親指で指し、歯を光らせそうな笑顔でそう述べる福井。そんな福井を見た博孝は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「あー滅茶苦茶気が抜けましたわー。そうっすねー、泥船に乗った安心感がありますよねー」
「ん? うん、そうだろうそうだろう! 安心したまえ!」
一瞬首を傾げた福井だが、褒められたと思ったらしい。博孝は気負い過ぎないよう自分に言い聞かせ、“普段通り”に任務をこなそうと思った。
博孝がそんな決意をしていると、マネージャーが戻ってくる。その後ろには一人の少女が続いており、部屋の中に集まっていた博孝達を見て胡散臭そうなものを見るように眉を寄せた。
「え……マネージャー、この人達がそうなの?」
透き通るような声色だったが、声にも猜疑心が宿っている。
部屋に入ってきた少女は、外見だけで判断するならば間違っても成人ではないだろう。外見だけで言えば沙織や里香とそう変わらず、女性らしさの中に若干の幼さが混ざっている。
身長は百六十センチに僅かに届かない程度であり、肩まで伸びた茶髪がふわりとカールしている。目鼻立ちは綺麗に整っており、可愛さと美人さが両立している顔立ちだった。身長は低めだがスタイルも良く、博孝が知る中では希美に近い。
服装については初夏らしく、白色のサマーニットに青系統のフレアスカートと涼しげなものだ。着こなし方、あるいは“見せ方”というものを熟知しているのか、何気ない仕草の一つ一つが映えて見える。
ただし、その目には警戒心しかなかった。知的そうな印象もあるのだが、恭介が持っていたCDやDVDで見かけた時のような柔らかい雰囲気はない。
(えーっと……今年で十七歳だっけ? あれ……十八だっけ?)
少女――優花を見た博孝は、内心で呟く。
恭介から聞いた話では、現役の女子高校生でありながら歌手兼アイドルとして活動しているらしい。どちらかというと歌手としての側面が強く、その歌声に魅せられたファンが急増しているそうだ。
(ま、年齢はどうでもいいか……)
そこは重要ではない、と博孝は切って捨てた。そして、表面上は平然としたままで優花を頭から爪先まで見る。
(立ち方から見ても、武道や武術の経験はなし……実際に見ないと詳細にはわからないけど、身体能力は並程度かな? もしもの時は担いで逃げればいいけど、護衛対象の逃げ足が早ければ助かるかもな)
恭介やみらいが目を輝かせている傍ら、博孝が観察したのは優花の身体能力についてだった。そんな博孝の近くに立っていた沙織も似たようなことを考えているのか、視線が鋭い。
対する優花は視線が集まっていることに即座に気付いたのか、面倒そうに髪を撫でた。
「あまりジロジロと見ないでくれますか? ファン以外からそんな視線を向けられたくないんですけど」
そして出てきた言葉は、中々に冷たい。目を輝かせていた恭介などは、驚いたように目を瞬かせている。
「ま、まあまあ、優花ちゃん。彼らは護衛をしてくれるんだし、そんなにツンケンしないでよ、ね?」
マネージャーが宥めるように言うと、優花はため息を吐いて椅子に座る。
「ああ、わたし喉が乾いちゃったな。マネージャー、お茶」
「え、あ、うん」
飲み物を持って来いと言われ、マネージャーは駆け足で部屋を出て行く。その態度は横柄に近く、恭介は顔をしかめながら首を傾げた。
「……影武者?」
「聞こえてるわよ。誰が影武者ですって?」
ギロリ、という擬音が似合いそうな目付きで恭介を見る優花。その態度は恭介にとって予想外だったらしく、慌てて視線を逸らした。
「ふんっ……こんな人達が護衛なんて嫌になるわ。それとそこの人達、何か言いたいことがあるなら言ってよ」
恭介に続いて話の矛先を向けられたのは博孝と沙織である。博孝と沙織は思わず顔を見合わせたが、本人が許可を出すのならと博孝から口を開く。
「では失礼して……百メートル走るのに何秒かかります?」
「……え?」
「体付きと雰囲気の割に体幹がしっかりしてるわね……武術経験はないみたいだけど、合ってるかしら?」
「……はい?」
何かあれば言えと口にしたが、何故百メートル走のタイムと武術経験の有無を聞かれるのだろうか。優花は虚を突かれ、思わず言葉を失った。
「えっと……」
「百メートル五秒ぐらいで走れたら有り難いんですが」
「目録ぐらいの腕前があれば、有事の際にも咄嗟に対応できると思うのだけれど」
真剣な様子で尋ねる博孝と沙織。もちろん、博孝は冗談である。百メートルを五秒で走れるアイドルなど、新ジャンル過ぎるだろう。沙織は本気だが。
「馬鹿なことを言ってるなよ、少尉。普通の人間が百メートルを五秒で走れたら、世界記録ってどころの話じゃねえぞ」
博孝の発言を聞き、斉藤が笑いながらツッコミを入れる。それを聞いた博孝は、残念そうに肩を竦めた。
「そうですか……それぐらい足が速ければ、何かあっても守りやすいんですが。あ、ちなみに俺は本気で走れば百メートルを一秒切れます」
『瞬速』と『ES能力者』の身体能力を全力で使えば余裕である。
「えっ!? そうなの!?」
「ええ。ちなみにですが、こっちの物騒な質問をしている長谷川曹長などは、刀一本でこのビルを輪切りに出来ます」
「嘘でしょっ!?」
『ES能力者』の詳細な身体能力を知る民間人はほとんどいないため、優花の反応は劇的なものだった。その反応の良さを見た博孝は、面白く思いながら言葉を続ける。
「輪切りは冗談です」
「えっ……ああ、そうよね。『ES能力者』のことはそんなに知らないけど、さすがにそれは……」
「表現が控えめでした。このぐらいのビルなら、細切れにできます」
「そっちの方がひどいわよ!?」
やばい、この子からかうの楽しい。そんなことを考えた博孝だが、砂原が咳払いをしてそれを中断する。
「そこまでにしておけ、少尉」
砂原が止めると、優花は今までの話が冗談だったのかと安堵したようなため息を吐く。
「長谷川曹長でも細切れにするのは無理だ。達成する前にビルが崩壊する」
しかし、すぐにため息を飲み込むことになった。砂原は真面目に語っており、斉藤は顔を逸らして吹き出している。
「……試してみようかしら」
「駄目だよ沙織ちゃん。このぐらいのビルを建てるのにいくらかかると思ってるの?」
「そういう問題じゃないっすよ、岡島少尉……」
『無銘』の柄を叩いて呟く沙織を、里香は笑顔で止める。そんな二人の言葉に対し、恭介は疲れたように言葉を吐き出した。
砂原は目を白黒させている優花に対し、真面目な顔で述べる。
「今のは軽い冗談ですが、嘘ではありません。むしろ控えめなぐらいです……こんな我々が護衛ではご不満ですかな?」
「あ、いえ……全然……その、ありがとうございます」
空気に呑まれてしまったのか、優花は小さく頭を下げた。しかし、それでも気になることがあるのか首を傾げる。
「でも、自分よりも年下の子に守ってもらうのは……」
博孝達を見て年下だと判断したのか、優花は言い辛そうな様子でそう言った。それを聞いた博孝は、自分達の外見を理解しているため軽く頷く。
「ああ、これでもあなたより年上ですよ。十七歳でしたか? 俺達の一つ下ですね」
「えっ? じゃあもしかして、このちっちゃな子も年上なの?」
優花が視線を向けたのは、優花が入室してからずっと固まっていたみらいである。みらいは優花に声をかけられたのだと思い、表情を輝かせた。
そんなみらいの様子に内心で苦笑しつつ、博孝は声を潜めて答える。
「信じられないかもしれませんが……実は一番年上です。これでも六十代なんですよ」
「嘘っ!?」
「ええ、嘘です」
さらりと、嘘であるの告げる博孝。優花はからかわれたのだと気付くと、顔を赤くする。それでも職業柄感情の制御に慣れているのか、すぐに表情を落ち着かせた。
「……それで、本当は?」
その感情の制御を見た博孝は、おや、と片眉を上げる。それでもみらいに関する書類上の情報を脳内から引き出し、白々しく答えた。
「今年で十六です」
「……それも嘘よね?」
「こっちは本当です。俺の妹なんですが、可愛いでしょう?」
博孝がそう言うと、優花は砂原に視線を向ける。その視線を受け取った砂原は、真実だと言わんばかりに頷いた。
「事実です。我々『ES能力者』は外見と実年齢が大きく違います。小官は何歳に見えますか?」
「二十五……いえ、二十七か二十八歳ぐらい?」
「その倍だと思ってください」
淡々と告げると、優花は目を瞬かせる。『ES能力者』の年齢については伏せられた情報ではないが、“実物”を見るまでは忘れていた。そのため、周囲を見回してこの場にいるのがほとんど年上なのだと悟る。
「そう……なんですね。ごめんなさい、取り乱しました」
最初の態度はどこにいったのか、優花は居住まいを正して椅子に座った。そんな優花の言葉に対し、砂原は苦笑する。
「『天治会』の名は有名ですからね。悪戯の可能性もあるとはいえ、そんな組織から犯行予告が出れば落ち着いてはおられんでしょう」
それまでは気を張っていたようだが、博孝達の冗談で感情を吐き出したためか、優花の表情には焦燥と疲労の色が見られた。『ES能力者』によるテロ集団に狙われていると聞けば、気も休まらないはずである。
職業柄誹謗中傷に晒されることもあるようだが、さすがに『天治会』の名を使った犯行予告は例外過ぎた。
「インターネット上に書き込んだ者に関しては、情報局が調査を進めています。身辺警護には我々が付きますので、ご安心ください」
「はい……でも、やっぱり……」
不安があるのだろう。特に、優花はみらいの見た目が気になっているらしい。実年齢は一歳下だと聞いたが、外見年齢は小学生にしか見えないのだ。
『ES能力者』を外見で侮るなと言っても、優花は根本的に理解しないだろう。頭では理解していても、心の底から納得はできないはずだ。優花からすれば、みらいは大き目の野戦服を着込んだコスプレ幼女にしか見えない。
だが、そんな優花の視線の意味にみらいは気付かない。一歩前に出て、顔を赤くしながら誇らしげに笑う。
「みらいがまもるからね!」
元気よくそう言うが、優花としては困ったように笑うことしかできない。そんな優花の心情が理解できたため、博孝が苦笑しながら補足した。
「この子は外見が幼いですが、実力は指折りです。この部隊の中でも上から数えた方が早いほうですよ」
実際の実力を見ないと信じられないだろうが、博孝としてはそういうしかない。それと併せ、気を紛らわせるきっかけになるかと言葉を続ける。
「それと、この子はあなたの大ファンみたいでして。良かったら後でサインを描いてもらえますか?」
何気なくそう言った博孝。しかし、その言葉を聞いた瞬間、優花の目が輝く。
「え? この子、わたしのファンなの?」
「ええ。俺は詳しく知りませんが、あなたの曲を歌いつつ、振り付けまで完璧にこなせるみたいです」
その言葉が優花の“何か”に触れたのか、優花の表情が変わる。それまで疲労が滲んでいたが、瞬く間に表情に生気が戻った。
「そうなの!? ああ、ごめんなさい。あなたのお名前は?」
「か、かわらざきみらいです!」
「そう、みらいちゃんね。えーっと……ああもう、なんでサインペンの一本も置いてないのよこの部屋!」
変化と言うべきか、変貌と言うべきか。優花は活き活きとした表情で周囲を見回した。すると、そのタイミングでペットボトルのお茶と紙コップの山を抱えたマネージャーが戻ってくる。
「紙コップで申し訳ないですけど、皆さんにもお茶を」
「あ、マネージャー! 今すぐサイン色紙とサインペン持ってきてください! ダッシュで!」
「え? お、お茶は?」
「お茶よりも優先すべきことができました!」
それまでの不安や疲労は微塵もなく、マネージャーを急かす優花。その変貌にはマネージャーも圧されてしまったらしく、お茶と紙コップをテーブルに置いて慌ただしく退室する。
「ほう……」
優花の様子を見た砂原は、どこか感心した様子で息を吐く。斉藤も砂原と同様の感情を抱いたらしく、表情は楽しげだ。
どうやら、優花としてはファンの前で疲れた様子など見せたくないらしい。それまでに見せていた態度を恥じたのか、誤魔化すように笑っている。その様子は、ある種のプロ根性とでも評すべきか。
みらいは活き活きとした様子の優花を見ると、目の輝きを更に増している。そんなみらいの様子に博孝は苦笑していたが、恭介が控えめに挙手をした。
「俺もファンなんっすけど、サインもらえないっすかね……」
「あとにしとけよ、恭介。さすがにタイミングが悪い」
「そうっすよね……」
諸手を挙げて喜ばないだけみらいも自制しているのだろう。恭介もそんなみらいを押し退けてまでサインをもらおうとは思わない。
「ふむ……河原崎伍長を近くに置いておけば精神的な支えになるかもしれんな」
「ですな。それに、なるべく若手の女性部隊員だけで周囲を固めておけば、気も休まるかもしれません」
砂原と斉藤は小声でそんな言葉を交わし、今後の方針を軽く修正する。
多少の騒動はあったものの、こうして即応部隊の護衛任務がスタートするのだった。