第百七十話:卒業
三月二十五日。天気は快晴。雲がほとんどなく、天上に座した太陽から降り注ぐ陽光は春らしい陽気さで溢れている。
例年よりも気温が高く、訓練校の正門から続く桜並木では気が早い桜の花が顔を覗かせていた。さすがに満開ではないが、それでも多くの桜花が咲き誇っている。
丁度良い気候に、散りはせずとも続々と花開く桜の蕾。それらは卒業には丁度良い。
そう――今日は卒業式だ。入校から三年の訓練を終えた、第七十一期訓練生の卒業式なのだ。
さすがに卒業式の当日となれば、浮き立つような空気が漂っている。それでも、中には普段通りの生活を送っている者もいた。
博孝達第一小隊は普段通りに自主訓練を行い、日が昇ってからようやく解散。それぞれ自室に戻り、シャワーを浴びて制服に着替え、朝食を取り――と、まさに普段通りの生活だった。
みらいは卒業式というイベントが初めてだからか、昨晩はソワソワとした様子で自主訓練を行っていた。しかし興奮し過ぎて疲れてしまったのか、日付が変わる頃には部屋に戻って眠っている。
食堂に集まって食事を取る生徒達も、普段とは様子が違った。普段ならばかき込むようにして食事を取るのだが、今日ばかりはゆっくりと、料理を味わいながら食べている。
その代わりというべきか、会話は少ない。雑談する者の姿は少なく、仲の良い者と並んで朝食を取りながらもその表情には暗さがあった。
そうして、準備が終われば教室へと向かう。親族を招き、下級生が参列して卒業式を行うわけではないからだ。卒業式は慣れ親しんだ教室で行われ、校長である房江から卒業証書を受け取ることになる。
朝食はゆっくりと取ったものの、教室に集まるのは早い。いつもならば午前九時から座学が開始され、ギリギリになってから教室に飛び込んでくる者もいるのだが、今日ばかりは三十分前には全員が集合していた。
それは朝方まで自主訓練に励んでいた博孝達もそうであり――あまりにも湿っぽい空気を嫌った博孝が声を上げる。
「……暗い……教室の空気が暗すぎる!」
突然椅子から立ち上がり、拳を突き上げながら叫ぶ博孝。普段ならば『いつもの病気か』と言わんばかりに冷たい視線が集まるのだが、今日ばかりは周囲の反応も悪い。博孝に視線を向けているものの、その視界に捉えていない者が大勢いた。
「うわっ、やべぇ、路傍の石でも見るような目をしてやがる」
「そりゃそうっすよ博孝。今日ばかりはしんみりとするっす」
あまりにも反応が悪かったため若干気圧された博孝だが、そんな博孝に対し恭介が苦笑しながら言う。博孝としても気分が下降曲線を描きそうになるが、それでは駄目だろうと思った。
「バッカオメー、こういう時だからこそ“いつも通り”にするのがいいんだろ? 俺達にゃあ湿っぽい空気で卒業式なんて似合わねえ」
そうやって力説する博孝だが、賛同者は少ない。さすがに卒業式で馬鹿騒ぎをする気力はないようだ。
周囲を見回した博孝は、思わず苦笑する。騒いでいないと自分も気分が落ちていきそうだ。それでも周囲の反応の悪さは覆しようがなく、博孝は周囲の気分を盛り上げる方法を考えていく。
――そうやって騒ごうとする自分こそが最も落ち込んでいると、わかっているから。
「……よし、それならここで一つ賭けをしようぜ! 賭けのお題目は、卒業式で教官がどんな反応をするかだ」
博孝がそんな提案をすると、数人の生徒が顔を上げた。さすがに興味が惹かれたらしい。
「……普段通りに一票」
「いや、案外普通に泣いてくれるかもな……」
「笑って送り出してくるといいなぁ……」
しかし、さらに教室の空気が落ち込んでしまった。それを聞いた博孝は、さすがにこれは無理だと白旗を揚げる。
「駄目かぁ……あ、せっかくだから俺は最初からクライマックス、教室に来た時点で泣いているって大穴で」
「――ほう、中々面白い話をしているな」
クラスメート達の方を向いてそんな話をしていた博孝だが、背後からそんな声が聞こえて動きを止めた。ギギギと錆び付いた音を立てながら博孝が振り向くと、そこにはいつも通りに野戦服を着込んだ砂原が立っている。
「馬鹿なっ!? 教室の扉を通らずに背後を取られたっ!?」
「通ったぞ。貴様が気付かなかっただけだ」
そう言って砂原は右手を振り上げる。そして博孝の頭に拳骨を振り下ろし――命中する直前で止めた。
「……と、せっかくの卒業式だ。タンコブを貼り付けて迎えるのは勘弁してやろう」
そんなことを口にする砂原の表情は、どこか穏やかだ。
時間を確認してみれば、午前八時五十分。いつも時間通りに姿を見せる砂原にしては珍しく、十分前に到着している。
どうやら、砂原としても色々と思うところがあるらしい。
「まったく……いつもならば全員が揃っていない時間なのだがな」
穏やかに、懐かしむように、砂原は自分の教え子達を見回しながら言う。それを見た博孝は素直に椅子に座り、口を閉ざした。
砂原は教壇に登ると、全員が着席した教室を見回す。
「卒業式には少しばかり早いが……話をするか」
教卓に手を置き、砂原は優しげな目をしながら独り言のように呟く。それに反対する生徒は、誰もいない。
「最近、よく思い出すことがある……それはそう、今から約三年前のことだ。この教室で大場校長と共に君達を迎えた、入校式の日のことだ」
語り始めた砂原は、遠い日々を思い出すように目を細めた。
「君達は下ろし立ての制服で身を包み、緊張した顔で椅子に座っていたな。緊張していなかったのは河原崎兄と武倉、それと長谷川ぐらいだったか……中学校を卒業したての年齢の、幼さが残る君達を見た時、俺は今更ながらに教官職に就いたことを後悔したものだ」
教官になったことを後悔した。そう聞いた生徒のうち、多くの者が驚きから目を見開く。
「知っている者は知っているだろうが、俺には娘がいてな。三年前はまだ小さく、正規部隊にいるよりも家に帰る時間が取れるから教官職を希望した……親としては真っ当な理由だとは思うが、君達の緊張した顔を見た時、己の失敗を悟ったのだ」
それは懺悔か、悔恨か。砂原がそんな話をしたことはほとんどなく、多くの生徒はただ静かに話を聞く。
「君達も幼い子供に過ぎんのだと、年齢こそ違えど己の娘とそう変わらないのだと、この教壇に立ってようやく気付いた。いや、気付かされた……」
そう言いつつ、砂原は三年間使用した教卓に指を滑らせる。
「君達は『ES能力者』だ。そして、俺の任務は教官として君達を一端の『ES能力者』へと鍛えることだ……そう思っていた。これでもかつては所属部隊で部下の教育を行っていてな。その経験があれば、何の問題もなく鍛えられると思っていた」
そう、思っていたのだ。訓練生だろうと“鍛えられる”と、砂原は思っていた。
「だが、それは間違いだった。俺はただ鍛えるのではなく、君達を“育てる”必要があったのだ……そして、それこそが部下の教育との違いであり、俺が後悔した理由でもある」
砂原が出会ったのは、『ES能力者』としても人間としても未熟に過ぎる子ども達だった。娘である楓よりも年上で――それでも子どもだったのだ。
「俺の教えがこの子らの人生を左右する……そう思うと、どうしても怖くなってな。その恐怖に比べれば、単独で敵の空戦一個大隊とでも戦う方が余程楽だと思った」
例えは物騒だったが、砂原にとってはそれほどに恐怖だった。『ES能力者』として多少は育っていた部下達とは異なり、知識も技術もまっさらな、それこそ“歩き方”から教え込む必要があったのだから。
「部下が相手ならば徹底的に叩きのめして扱き、鍛えることができた。だが、君達は『ES能力者』としてこの世に生まれたばかりの原石だ。力加減を間違うだけで、そのまま砕けてしまうと思ってな……」
砂原は自分の右手に視線を落とし、複雑そうに眉を寄せた。
「結局、三年経った今でも自分の教えが正しかったのかわからない。俺は君達が『ES寄生体』や敵性『ES能力者』と遭遇した時、生き延びることができるようにと願って鍛えてきた。そして、君達はそれに応えて強くなっていった」
そこで初めて、砂原は口元に笑みを浮かべる。
「人を育てるというのはこういうことなのかと、部下を鍛えるのとはこうも違うのかと、驚きと発見、喜びが連続する毎日だった。大小様々な問題も起きたが、それすらも糧として成長する君達を見て……」
砂原が浮かべた笑みは、これまで見たことがないほどに穏やかで。
「――君達の教官で在れて幸せだと、そう思えた」
その言葉は、どうしようもなく慈愛に溢れていた。
そして、その言葉が生徒達にとっての限界でもある。女子生徒の多くは涙を流し、男子生徒も涙を堪えるようにして目を何度も瞬かせた。
教室には流れた涙を擦る音が響き、そんな生徒達を見て砂原も何も言えない。故に、他の音があるとすれば、それは教室の外からだった。
「失礼するわね」
そう言って教室に入ってきたのは、房江である。両手に漆塗りの盆を持ち、その上には卒業証書が乗せられていた。
「卒業式を始めようと思ったのだけれど……」
見れば、既に午前九時を過ぎている。房江は教室の外で待っていたのか、その表情には温かい笑みが浮かんでいた。
「わたしが言えることは、もうほとんどないみたいねぇ……」
砂原と生徒達の様子からそう呟き、房江は両手に持っていた盆を砂原に手渡す。
「卒業証書の授与も、貴方に任せます」
「はっ……いえ、しかしそれは……」
それは校長の仕事である。訓練校の長として、卒業していく生徒達に卒業証書を授与する必要があるのだ。しかし、房江は首を横に振る。
「あらあら、そんな“横取り”みたいな真似はできないわ。砂原君、貴方がお渡しなさい。これは“校長命令”よ」
そう言って茶目っぽく笑う房江。砂原はそれでも戸惑っていたが、房江は先ほどの砂原と同様に慈しむような表情を浮かべる。
「彼らを三年間教え、導いてきた……それ以上の資格はないはずです。それに、もしもわたしが君の教え子だったら、是非とも君から卒業証書を受け取りたいわ」
「……はっ……了解、いたしました」
砂原は房江から卒業証書が乗った盆を受け取ると、静かに頭を下げた。房江はそんな砂原に対して笑いかけると、教室の隅へと下がる。この場においては主役でないと、わかっていたから。
房江から受け取った盆の重さを両手で確かめ、重いな、と砂原は思う。これは自分の教え子が三年間授業や訓練に励んできた証だ。訓練課程修了の証であり、訓練校を卒業して正規部隊へと羽ばたくための証だ。
大きく息を吸い、静かに吐き出し、砂原は告げる。
「それでは……卒業証書授与式を行う」
それは、卒業証書を渡すだけの簡単な式。されど、これ以上ないほどに重要な式だ。
「河原崎博孝」
「――はい」
出席番号順ということで最初に名を呼ばれ、博孝が席を立つ。名前を呼ぶ方も、呼ばれる方も、その声に込められたのは万感の想い。
一歩一歩、これまでの三年間を思い出すように歩を進め、砂原の前に立つ。砂原は卒業証書に書かれた内容を読み上げ、証書を渡し、そして言う。
「訓練校に入校してから半年間、お前はES能力を発現できなかった。だが、その間もめげずに努力を続けたその姿勢……俺はその姿勢こそを称賛したいと思う。その時の努力があったからこそ、お前はここまで成長できたのだろう」
「……はい」
「それからの成長は目覚ましかった。才能もあっただろうが、それ以上に努力の賜物だ。胸を張って誇れ」
「……はいっ!」
さすがの博孝も、顔を上げてはいられない。両手で受け取った卒業証書に視線を落とし、肩を震わせる。
「元気で明るいお前には、教官としても助けられた。クラスの暗い空気を感じ取っては、その空気をなんとかしようと馬鹿をやったな……少しばかりやり過ぎな時もあったが、その気配りは正規部隊に行っても役に立つだろう。卒業……おめでとう」
「はい……三年間、ありがとう……ございました!」
勢いよく頭を下げ、博孝はこの三年間の教導への感謝を口にする。そして自分の席に戻ると、涙を誤魔化すように天井を見上げて動かなくなった。
砂原はそんな博孝の様子に苦笑し、卒業証書の授与を進めていく。一人ひとり、この三年間の思い出を交えつつ、卒業証書を渡していく。
「次、武倉恭介」
「……はい!」
恭介は元気よく返事をするが、その瞳は赤く充血している。それでも袖で涙を拭うと、力強く砂原の元へと歩いていく。
「河原崎兄と同様、明るく元気が良いお前には教官として助けられた。二人して騒いだ時は説教も大変だったが、俺としても楽しかったぞ」
「う、うっす……」
「訓練に励み、自主訓練を行い、その若さで三級特殊技能まで身につけたことは偉業だ。そして、更なる高みを目指して研鑽に励むこと……俺は素晴らしいことだと思う。自分の道をしっかりと歩んでくれ。卒業、おめでとう」
「……はい……」
恭介も、ここまでくれば言葉が出ない。卒業証書を受け取り、自分の机まで戻ると視線を逸らして涙を拭う。
そうやって授与は進み、男子全員に渡し終える。そして、次は女子の番だ。
「次、岡島里香」
「は、はい……」
里香は既に涙腺が決壊しており、目も顔も真っ赤にして泣き腫らしている。時折しゃくりを上げているが、それでもしっかりと歩き出し、砂原の前に立った。
「入校した当時と比べて、君は大きく成長したな。昔の君は、人と話す時にやけに緊張していた。だが、今では仲間の上に立って指揮を執れるほどだ……ああ、それにこの前の模擬戦では驚いたぞ。さすがにアレには意表を突かれた」
「ぐすっ……その、あれぐらいやらないと、教官の意識を逸らせないと……」
「君の普段の行動や性格を踏まえた上での行動だったわけだな……一本取られたぞ。そして、君にはその頭の良さと誰に対してでも分け隔てなく接することができる優しさがある。君は君のままで、己の道を歩んでほしい……卒業おめでとう」
「はいっ……ありがとう、ございました……」
里香は頭を下げ、自分の席へと戻る。そんな里香を見送った砂原は、その隣に座るみらいに目を向けた。
「次、河原崎みらい」
「……はい」
周囲の空気を察してか、みらいの返事も大人しい。泣いてはいないが、みらいなりに思うところがあるのだろう。砂原のもとへと移動したみらいは砂原を見上げ、砂原が何かを言うよりも先に口を開く。
「きょーかん、もうあえなくなるの?」
その問いかけは、みらいだからこそ発した純粋な疑問。訓練校以外は“自宅”しか知らないみらいだからこそ思った、不透明な疑問。
「そつぎょーって、なに? みらい、みんなとあえなくなるの?」
そこまで言って、みらいの目元から涙が溢れ始める。そんなみらいを見た砂原は僅かに驚き、しかし、すぐに微笑んだ。みらいの前で片膝を突いて目線の高さを合わせると、両目を手で擦りながら涙を流すみらいの頭を優しく撫でる。
「君は“色々”とあったが、間違いなくこのクラスの一員で、俺の教え子だ。君のその純粋性、無垢な感受性は、俺達大人がなくしてしまったものでもある……ああ、あまり泣くな。せっかくの可愛い顔が台無しだぞ?」
それはまるで、自分の娘をあやすように。優しく、穏やかな声でみらいを慰め、頭を撫でる。そして、仕方ないなと笑って、みらいを抱き上げた。
「なあに、今生の別れというわけではない。“また会える”さ」
「……ほんとに?」
「ああ、本当だとも」
抱き上げ、軽く揺らしながらみらいに笑いかける砂原。その姿は非常に様になっており、砂原のみらいに対する親心が透けて見えた。
「だから今は、笑いたまえ。君の笑顔は周囲の人間を明るく、元気にする」
「うん……」
頷くものの、みらいは流れる涙を止めることができない。そんなみらいに苦笑し、砂原はみらいを席まで連れて行って座らせた。
「卒業、おめでとう」
「……うんっ! きょーかん、ありがとーございました!」
卒業証書を渡す砂原に泣きながら、それでも元気にみらいは言う。そんなみらいの声を隣で聞いた博孝は天井から視線を戻し、何も言わずにみらいの頭を優しく撫でた。
卒業証書の授与は続き、次に名前を呼ばれたのは沙織である。
「次、長谷川沙織」
「はい」
答える声は、これまでの生徒の中で一番しっかりとしていた。胸を張って颯爽と歩き、沙織は砂原の前に立つ。
「入校から卒業まで……一番変わったのは君だろうな。昔の君は抜き身の刃のようだった。そして、君には何度も手を焼かされたな……懐かしいことだが」
「教官……恥ずかしいです」
“昔”の自分を引き合いに出され、沙織は羞恥から頬を赤く染める。そんな沙織を見た砂原は、本当に変わったものだと感慨深く思った。
「しかし、その一方で君は努力家だった。強くなりたいと願い、その強さに見合う努力を続けてきた。孤高で、周囲の仲間を寄せ付けようとしなかった……が、今の君は違う。仲間を大切に思えるようになった……それは大きな、そして貴重な成長だ」
「はい……」
「戦いに際しては自ら先頭に立つ姿勢も素晴らしかった。だが、それも行き過ぎれば仲間を危険に晒すということを、君はよく学んだ……もう心配する必要はないだろう。君は迷わず自分の道を進みたまえ。卒業おめでとう」
「はい。三年間ご教授いただき、ありがとうございました」
卒業証書を受け取った沙織は、凛とした様子を振り撒きながら自分の席へと戻っていく。だが、涙は流さなかったものの、その表情には大きな寂しさが宿っていた。
そんな沙織の背中を見た砂原は、本当に成長したものだと思う。入校してから人間的に一番成長したのは、間違いなく彼女だろうから。
「次、松下希美」
「はい」
希美は静かに返事をすると、楚々とした様子で砂原の元に向かう。
「君は周囲よりも三歳上で、色々とやり辛いこともあったと思う。だが、君はその優しさと面倒見の良さで“同級生”をよくまとめてくれた。教官としては有り難い限りだった」
「ふふ……わたしとしても楽しい三年間でした。まさか、二回も高校生活を送れるとは思わなくて……高校卒業の証書を受け取るのは初めてなのが、少し寂しいですけどね」
中学卒業間近の『ES適性検査』で『ES能力者』と比べ、希美は高校卒業間近の『ES適性検査』で『ES能力者』になった。そのため、高校生活自体は二度目でも“卒業”は初めてなのである。
「君は周囲の生徒と違い、特別手がかかることがなかった。むしろ率先して他の生徒のケアに当たることもあって、俺はとても助けられた……しかし、君がこの三年間で重ねた努力、積み重ねたものを俺は忘れないだろう」
「これでもみんなよりはお姉さんですから。お姉さんとして、やるべきことをやっただけですよ?」
「それでも、だ。君のその優しさ、包容力は同級生にとって心温かいものだったと思う。俺も教官として助かった。だが、君もまた俺の教え子の一人であるという事実は変わらない。君への感謝の言葉を述べるより、君の卒業を祝おう……卒業、おめでとう」
「はい……三年間、ありがとうございました」
希美は丁寧に頭を下げ、自分の席へと戻っていく。
そうして全員に卒業証書が渡され、今度は教室の隅で控えていた房江が教壇に登る。
「みなさん、卒業おめでとうございます。前校長……わたしの夫も、皆さんの卒業を喜んでいることでしょう」
一礼をした房江は、目尻を下げながらそう言う。もしも『大規模発生』が起きなければ、入校した時と同じように大場がその場に立っていただろう。
「わたしが訓練校の校長になって、半年ですか……あなた達を半年しか見られなくて残念だけれども、それでも明るく元気が良いあなた達から多くの元気をもらいました」
房江は第七十一期訓練生の卒業を見回してそう言うと、表情に茶目っ気を混ぜる。
「長話は老人の特権だとも言うけれど、それだと嫌われてしまいますからね。ただ、訓練校の校長として、そして、“あの人”の妻として、最後に一言だけ贈りたいと思います」
房江としては、長々と語るつもりはない。言うべきことは砂原が全て言っているのだ。だからこそ、房江は自分にしか言えない言葉をかける。大場が生きていればかけたであろう言葉を、卒業生である彼らに贈る。
「健やかに、まっすぐに育ちなさい。わたしとあの人が望むのは、それだけです」
それは、死にゆく大場が新入生にかけた言葉だ。例え房江がそのことを知らずとも、大場ならば同じことを言っただろう。だからこそ、その場にいた生徒達は一斉に頷く。
『はい!』
「良い返事ですこと。さ、それでは終わりの挨拶は砂原君に任せましょうか」
満足そうに頷くと、房江は教壇から下りてしまう。最後の挨拶まで砂原に譲ったのは、この場の生徒の校長として共に過ごした時間が半年だからか、それとも今は亡き大場の席だと思ったのか。
砂原は困惑していたが、それでも教壇に立つ。そして教え子一人ひとりの顔を見回すと、深呼吸をしてから最後の言葉を贈る。
「先ほども言ったが、俺は最初教官になったことを後悔していた……しかし、今は違う」
涙は流さずとも、砂原の声は僅かに震えていた。
「君達への教え方に迷い、これで良いのかと悩んだこともあった。本当にそれで良かったのかと、後悔することもあった……しかし、君達の教官で在れたことに後悔はない」
それでも砂原が贈る言葉は、砂原らしい力強さで溢れている。
「三年間、ありがとう。そして――卒業おめでとう」
簡素で、簡潔で、されど、心のこもった祝いの言葉だった。その言葉を受けた生徒達は、全員が椅子から立ち上がる。そして、最初に口を開いたのは博孝だった。
「三年間、ありがとうございました!」
『ありがとうございました!』
一斉に頭を下げ、しばらくそのまま下げ続ける。砂原への感謝の気持ちは、頭一つ下げた程度では伝わらない。だが、それでも今の自分達には頭を下げることしかできなかった。
「……ああ」
教え子の言葉に、砂原の声が大きく震えた。その表情がどんなものだったかは、頭を下げ続けた彼らにはわからない。
ただ、目を閉じて天井を見上げる砂原を、房江だけが穏やかな顔で見つめていた。
卒業式も終わりを迎え、教室には寂しさが混じった空気が満ちる。だが、その空気は思わぬところから破られることになった。
「……ん? 何やってんだあいつら」
それに最初に気付いたのは博孝である。窓の外に視線を向けると、市原達を筆頭とした後輩達が校舎の外に並んでいるのだ。
既に房江と砂原は退室しており、第七十一期訓練生達は明日まで自由の身である。さすがに自主訓練を行うのもどうかと思っていたが、市原達が自主訓練をしに来たのだろうかと首を傾げた。
ただ、それにしては後輩全員が訓練着を着用しておらず、制服姿である。
市原達は外から様子を窺っていたが、卒業式が終わったと判断したのだろう。雪崩れ込むようにして校舎に突入してくる。
「先輩! 卒業おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
「おめで……ぬわあああぁぁっ!?」
どうやら卒業を祝いに来てくれたらしい。口々に祝いの言葉を投げかけてくるが、あまりにも勢いよく突入してしまったため、何人かの生徒が人の波に飲まれてしまった。
砂原と房江の話を聞いて神妙な気分に浸っていた第七十一期訓練生だったが、後輩達――それも下の期全ての生徒が集まっているのを見て、目を丸くしている。
「おう……わざわざありがとうな」
代表して博孝が答えると、市原達は顔を見合わせて頷き合う。
「つきましては……先輩方、こちらへきてください」
「お、なんだ? 胴上げでもしてくれるのか?」
「それはそれで面白そうなんですが……こちらへ」
この場で答える気はないらしく、市原達は第七十一期訓練生を外へと案内する。卒業を祝う言葉をかけつつ、それでいて全員を取り囲み、徐々に移動していく。
そうして到着したのは、正門前の桜並木だった。道路の脇に等間隔に並ぶ桜の木の下、そこにビニールシートが敷かれており、飲食物がところ狭しと置かれている。
その光景に目を丸くする博孝達だが、市原達は笑顔で告げる。
「先輩方の卒業を祝しまして……卒業パーティ兼花見をしましょう!」
「お、おう……それは嬉しいんだけど、この辺の場所を占領して大丈夫か?」
「大丈夫です! 防衛部隊の方にも話を通したんですが、卒業式ってことで目を瞑ってくれるそうです!」
そんなことを言いつつ、後輩達は第七十一期訓練生達を座らせていく。食堂でも良かったのだろうが、訓練生全員で二百名近くいるのだ。さすがに食堂には入りきらない。
「食堂の方々にも協力をお願いしました。食べ物も飲み物もたくさんありますよ」
「はー……よくもまあここまで……」
呆れたように言う博孝だが、後輩達の気遣いが純粋に嬉しくもある。それに加え、博孝は祭り好きだ。すぐに気分を入れ替え、大きく笑う。
「あっはっは! よし、折角の卒業式、折角の後輩の厚意だ! 今日は騒ぐぞ! 誰か教官のところに行ってきてくれ! 俺達が主役だって言って断られそうだけど、俺達にとっては大恩人だ!」
博孝がそう言うと、目を輝かせた女子生徒数人が即座に姿を消す。博孝や恭介が行けば断られるかもしれないが、彼女らならば大丈夫だろう。そうやって十分も経つと、砂原の袖を引いた女子生徒達が戻ってくる。
「卒業式の次は花見とは……まったく、仕方のない奴らだな」
砂原は苦笑していたが、止める様子はない。もしかすると事前に話が通っていたのかもしれない。
「だが、今回の主役はお前達だ。参加はするが、俺は眺めるだけだぞ?」
「それでもいいんですよ。いてもらえるだけでいいんです」
博孝がそう言うと、その場にいた全員が頷く。そんな教え子達の様子に苦笑を深めると、砂原は近くの桜の木の根元に腰を下ろした。
その場には二百人近い訓練生が集まっており、今日卒業する第七十一期訓練生達を取り囲んでいる。
「さあさあ、飲み物です。でも最初には何か一言をお願いしますね」
「ああ? そりゃ俺に言ってんのか? 仕方ねえなぁ……」
炭酸ジュースが注がれた紙コップを受け取った博孝は、そう言いながら立ち上がった。後輩達の指名とあっては、断るのは野暮というものだろう。
「あー……ごほん。えー、本日はお日柄も良く、皆さまにおかれましてはますますご健勝のこととお慶び申し上げ――」
「かてぇよ!?」
「しかもそれ絶対に長いだろ!?」
とりあえず口を開いた博孝だが、中村と和田からツッコミが飛んできた。
「ああん!? こういった目出度い席なら、最初ぐらいは真面目にいくべきだろうが!」
「そんな固い席じゃねえだろ! さっさと進めろ!」
ぶーぶーとヤジが飛び、博孝は地団駄を踏む。たしかに堅苦しいと思ったが、この扱いはあんまりだと思った。
「ええい! 自分で言うのもなんだが、まずは卒業おめでとう! 俺もお前らもこれで卒業だ!」
紙コップを掲げ、博孝は叫ぶ。次いで視線を向けたのは市原達を筆頭とした後輩達だ。
「それと、俺達のためにこんな席を用意してくれてありがとうな。俺達は卒業するが、お前達はまだ訓練校に残る。俺達がいなくなったからといって、訓練をサボるんじゃねえぞ?」
『はい!』
「よーし、良い返事だ」
後輩達の返事を聞き、博孝は満足そうに頷く。紙コップを掲げたままだったため格好がつかなかったが、それもまた博孝らしいだろう。
博孝は紙コップを握る手に力を込めると、乾杯の挨拶として述べる。
「卒業を祝って、後輩達に感謝して……他にも色々とあるが、俺達第七十一期訓練生としては、教官と大場校長に感謝を込めて開始を宣言したい……乾杯!」
『乾杯!』
それぞれ近くにいた者達と紙コップをぶつけ、卒業パーティ兼花見がスタートした。先ほどまでの悲しさを振り払うように、明るく、元気に騒ぎ始める。
「湿っぽいのはここまでだ! 騒ぐぜ!」
「うっす! でもまずは食い物の確保っすよ!」
真っ先に騒ぎ始めたのは博孝と恭介だ。そんな二人を見た里香は、思わず苦笑する。
「料理はたくさんあるみたいだし、そこまで焦らなくてもいいと思うよ?」
「むしろ、どれだけ作ったのかしら……生徒二百人でも食べきれるか微妙なところね」
用意された料理は大量にあり、その全てが食堂からの差し入れである。もちろんお金は払っているが、博孝達の世話をした榊原が先頭に立ち、張り切って料理を作っているのだ。
まだ正午にもなっておらず、このままいけば昼食も夕食もこの場で取ることになるだろう。そして、卒業式の後ということでテンションが上がり、騒ぎはどんどん大きくなっていく。
「おーっす、博孝。ずいぶんと騒がしくやってんなぁ」
「あ、野口さん。お疲れ様です」
「おう、お前らも卒業おめでとさん」
花見の最中だが、何故か野口が姿を見せた。しかし、その手にはペットボトル飲料を詰め込んだビニール袋が提げられている。
「卒業祝いと呼ぶにはしょぼいが、まあ飲めや。差し入れだ」
「あざーっす! さすがにコーヒーじゃないんですね」
「こんなところにホットコーヒーを持ってきてどうするんだよ……」
そんなことを言いながら、野口は周囲を見回した。その動きを見た博孝は首を傾げる。
「どうかしたんですか? というか、仕事は?」
「お前ら卒業だろ? 俺も一応任期が終わるからな。今はちょっとした荷物整理……を、部下に押し付けて抜け出してきた」
「いいんですかそれ……」
「昼飯を食ってくるって言ってきた。だが、すぐに戻る……げっ」
「あ……秋雄さん!」
野口が嫌そうな声を出すと同時に、可愛らしい声が響いた。何事かと博孝が視線を向ければ、一人の女子生徒が野口のもとへと駆け寄ってくる。
「あ、俺達お邪魔なんで向こうで騒いでますね」
それを見た博孝は笑顔で撤退した。野口は助けを求めるように右手を持ち上げるが、その手を女子生徒に捕まれて引き摺られていく。
「任期が終わったら別の場所に異動するかもって聞きました。向こうでちょっとお話しましょう?」
「おい、ちょっ、博孝助けろ!」
売られていく子牛のような野口に合掌し、博孝は仲間と再び騒ぎ始める。触れると危険な気がしたのだ。
「やれやれ……」
そんな騒ぎから僅かに離れ、砂原はポケットから煙草の箱を取り出した。そして一本咥えて火を点けると、静かに紫煙を吐く。煙が昇って空へと消えていき、砂原はその光景をなんとなく見上げながら小さく呟いた。
「終わったな……」
第七十一期訓練生の教官として、三年間の任期が終わった。“今後”のこともあるが、今はただ、教え子の卒業を祝うべきだろう。
「よう、何を一人で寂しくやってんだよ」
「……宇喜多か。お前、仕事はどうした?」
掛けられた声に視線を向けてみれば、そこに立っていたのは宇喜多だった。何故か巨大なビニール袋を抱えており、その中には酒瓶が覗いている。
「非番だっつの。なあに、ガキ共が卒業だって聞いてな。差し入れだ」
「差し入れ? どう見ても酒にしか見えんが?」
「『ES能力者』用だが、その中でもわざわざ弱いやつを買ってきたんだぜ? ま、なんなら俺達で全部飲めばいいさ」
そう言って砂原の隣に腰を下ろし、宇喜多は酒瓶を取り出す。そして砂原に渡すと、自分の分も取り出して瓶の口を手刀で叩き切った。
「ほれ、乾杯」
「相変わらず荒い奴だ……乾杯」
この時ばかりは、砂原も固いことは言わなかった。訓練生達の教官任務は、彼らを卒業させたことで終わりを迎えている。故に、砂原も今は非番のようなものだった。
荒々しく酒瓶をぶつけ合い、砂原と宇喜多は酒を飲む。宇喜多は騒ぐ訓練生達を見ていたが、何かを懐かしむように口を開いた。
「若いねぇ……俺らの時と比べても、全然わけぇ。これも時代かね」
「そうだな……昔に比べれば平和で、子どもらしく在れるんだろうさ。もっとも、俺の教え子達はそうだったとは言えんがな」
全員が無事に卒業したが、任務で死に掛けた者もいる。実戦を経験し、その最中で重傷を負った者も少なくない。それは砂原としても一つの後悔だ。
「過去じゃなくて今を見てやれよ。ほれ、あのガキ共は元気で、全員が笑ってるだろうが」
「ああ……そうだな。ああ、そうだった」
数々の危機が訪れようと、その全てを乗り越えた教え子達。明日を迎えれば全員が任官だが――。
「まあ、今だけは全てを置いておこう。折角の卒業式だ」
「へえ? 珍しいじゃねえか……あれ? ここに置いておいた酒、どこ行った?」
砂原らしからぬ言葉に眉を上げた宇喜多だが、近くに置いていた酒がビニール袋ごとなくなっていることに気付いた。周囲は生徒達による喧騒で包まれており、敵意を持った者が相手でもないため、さすがの宇喜多でも気付かなかったらしい。
周囲を見回す宇喜多と砂原だが、そんな砂原に人影が差した。砂原が視線を向けると、つい先ほど卒業証書を与えた教え子――女子生徒が立っている。
「あ、あの、教官……」
三年間で見慣れた顔が、何故か赤く染まっている。それを見た砂原は、もしや宇喜多の酒を飲んだのか、と内心で首を傾げた。
「も、もう会えないかもしれないから、言わせてください!」
「な、なんだね?」
しかし、奇妙な勢いで迫られたため、僅かに身を引く。女子生徒は顔を真っ赤にしていたが、やがて覚悟を決めたようにして、言う。
「す、好きです! それだけはずっと言いたかったんです!」
「う、うむ……俺も教官として……」
「し、失礼しました!」
砂原が言葉を返そうとするが、その途中で女子生徒は駆け去ってしまう。砂原はそんな女子生徒の姿に首を傾げ――傍にいた宇喜多が、何故か携帯電話を向けていることに気付いた。
「――何をしている、宇喜多」
「いやいや、ちょっとね? ちょうど手元に私物の携帯があったんで、ついね?」
耳を澄ませば、パシャパシャと連続するシャッター音。
「いやはや、本当に若いねぇ。甘酸っぱいねぇ。おじさん、あんなまっすぐな告白なんて見たことないよ、うん……相手が既婚者で子持ちって辺りで、あの子も諦めてたんだろうけど」
そんなことを言いつつ宇喜多が見せたのは、座った状態で女子生徒を見上げる砂原と、そんな砂原に対して顔を真っ赤にして言葉を放つ女子生徒の姿。
「それでも好きだって知ってほしかった、か……いやいや、本当に泣けるねぇ……さて、美由紀ちゃんの番号はっと」
「――死ね」
宇喜多の意図を知った瞬間、砂原は右手を振るう。その右手には『武器化』で生み出した短刀が握られており、宇喜多が持っていた携帯電話を横から両断した。
「ちょ、おまっ! なにしやがる! コレ高かったんだぞ!?」
「そうか、ならばあとで弁償してやろう。ついでに地獄の川を渡る六文銭もくれてやる」
そう言って視線をぶつけ合う砂原と宇喜多。その騒ぎに気付いた博孝は、思わず悲鳴を上げる。
「げえっ!? なんで教官と宇喜多さんのリアルファイトが勃発しようとしてんだ!? 誰か『零戦』の詰所に行って人を呼んできてくれ! 俺らじゃ止められねえぞ!」
「物量で止めるってのはどうっすか!?」
「そんなの、死体が増えるだけだっての!」
周囲の生徒達は素早く距離を取っており、どうしたものかと顔を見合わせた。しかし、そんな砂原と宇喜多の元にみらいが即座に駆け寄る。
「きょーかんもおじちゃんも、けんかはめっ!」
「うっ……いや、だからな、嬢ちゃん。おじちゃんは止めてくれ……」
「……これは喧嘩ではないぞ、河原崎妹。だから大丈夫だ」
みらいを前にした二人は、即座にクールダウンした。宇喜多はため息を吐きつつ二分割された携帯電話を拾い上げ、肩を竦める。
「冗談だっつーの。美味しい場面だったから、ついつい写真を撮っただけだっつーの」
「冗談になっていなかっただろうが……」
みらいを怒らせないよう、小声で話し合う二人。怒るのも早ければ、収まるのも早い。それだけ長い間似たようなことをしてきたという証左だろう。
騒ぎが落ち着くと、博孝は安堵したように腰を下ろす。卒業生全員で砂原に勝負を挑んでも勝てないというのに、そこに宇喜多が加われば手に負えない。
“何があったか”は察していたが、そこに至る過程を止める者もおらず――博孝もそれは同様だった。
「あ、あの、河原崎先輩……」
「ん?」
声をかけられて振り向くと、そこには一期下の後輩――女子生徒がいた。何故か顔が赤く、視線を下げている。
「あの、その……ぼ、ボタンをもらってもいいですか!?」
「ん、んん? ボタン?」
「はい! 第二ボタ……い、いえ、それ以外のボタンで……」
第二ボタンと言いかけたが、すぐにその要求は変更された。博孝は『卒業式といえばそういうイベントもあったなぁ』などと思いつつ、第一ボタンを外して渡す。
「ほい、これでいいか?」
「あ……はい! ありがとうございます! ずっと憧れてました!」
それだけを言い残し、女子生徒が走り去る。博孝は目を瞬かせてそれを見送ったが、何故か追加が来た。
「あ、あの……わたしもボタン、もらってもいいですか?」
今度は第七十四期の女子生徒である。話を聞けば、『大規模発生』の際に博孝達が救出に向かったバスに乗っていたらしい。
どこでも良いので、と言われた博孝は第三ボタンを外して渡す。女子生徒は大事そうにボタンを受け取ると、顔を赤くしながら小さく頭を下げて去っていった。
「……さっきから見てたっすけど、博孝モテモテっすね」
「おお……俺もビックリだ」
どこから調達してきたのか、焼きそばを食べながら肘で突く恭介。博孝にとっても予想外の出来事だったのだが、恭介は眉を寄せながら肘で連打する。
「ちぇー、羨ましいっすよ。俺の方にはそんな――」
「あの、武倉先輩……」
言葉の途中で、声がかかった。恭介が振り向くと、そこには一人の女子生徒が立っている。先ほど博孝のもとへ訪れた女子生徒のように、その顔は真っ赤だ。
「ぼ、ボタンをいただいてもいいでしょうか!?」
「お、俺っすか? え、いやぁ……も、もちろんっすよ!」
焼きそばを脇に置き、豪快に第一ボタンを引き千切る恭介。第二ボタンじゃなかったのは、博孝の真似なのか。
「さあ、どうぞお嬢さん」
「歯に青のりついてんぞー」
キリッと表情を引き締め、そんな台詞を吐く恭介。博孝が即座にツッコミを入れるが、恭介は聞いていない。ボタンを受け取った女子生徒に手を振って見送り、鼻の下を伸ばしながら振り返った。
「い、いやぁ、こういうのもいいもんっすね! どっちかっつーと好きより憧れって感じっぽいっすけど!」
ははは、いや困ったなぁ。そんなことを呟きつつ、恭介は残っていた焼きそばを飲み物のように食べ尽くす。
その後も博孝と恭介の元には女子生徒が訪れてボタンを求められたのだが、周囲を見回してみると、第七十一期の男子生徒の周囲では多かれ少なかれ似たような光景が繰り広げられていた。
自主訓練などで接する機会が多かったため、それぞれ交友関係があった後輩からボタンを求められているらしい。中には第二ボタンを渡している者もいるが、大体の生徒は憧れや尊敬の感情しかないため、適当に選んだボタンを渡している。
「でもまあ、これもまた卒業式の醍醐味かねぇ……ボタンをほとんど持っていかれるとは思わなかったけど」
「同感っす……でも、後輩達にここまで慕われていたなんて嬉しいっすね」
そんなことを言いつつ、博孝と恭介は顔を見合わせた。好意ではなく憧れや尊敬の感情だろうと、女子生徒にボタンを求められるのは非常に嬉しい。
「恭介、顔がにやけてるぞ?」
「そっちこそ」
そのまま笑顔を浮かべ、二人は笑い――。
「あ、ごめんなさい。手が滑ったわ」
「あ、手が勝手にー」
「いひゃいいひゃい!」
博孝は真横から伸びてきた『無銘』の鞘で突かれ、さらに里香に頬をつままれた。
「……えいっ」
「あいたっ!? なんで俺体当たりをされたんすか!?」
恭介は砂原と宇喜多を止めて戻ってきたみらいから、何故か体当たりを食らう。
「……さあ? なんとなくムカついたのよ」
「なんでもないよ?」
視線を逸らしながらそう言い放つ沙織と里香。
「ん……なんとなく?」
沙織と里香を真似ただけなのか、みらいは首を傾げていた。
博孝と恭介は余計なことを言って自分の首を締めまいと、口を閉ざす。そうしていると、今度は市原達が近づいてきた。
「楽しそうですね、先輩方」
「お前にはこの光景が楽しそうに見えるのか……」
笑顔で話を振ってくる市原に対し、博孝は眉を寄せながら答える。市原と二宮、三場と紫藤はそれぞれ博孝達の傍に座り込むと、一様に頭を下げた。
「先輩方には本当にお世話になりました。天狗になっていた俺達を叩きのめしてくれて、さらには強くなれるよう自主訓練にも参加させてくれて……そういえば命を救われたこともありましたね……本当に、ありがとうございました」
「おいおい……やめろよ、俺達は当然のことをしただけだ」
畏まって頭を下げる市原達に対し、博孝は手を振る。この場で、このタイミングでそんなことを言われても、照れ臭く思ってしまうのだ。
「わたしからも……お世話になりました」
「僕も……本当にお世話になりました。おかげさまで『防御型』として少し自信がつきましたよ」
二宮と三場もそう言いながら頭を下げる。そして紫藤もそれに続く――と思いきや、すすす、と博孝の傍に身を寄せた。
「先輩にはお世話になった……そう、“公私”問わずに」
「おい、やめろよ。なんでお前は毎回そうやって爆弾発言をするんだよ」
耳元で囁くように言う紫藤だが、その声は周囲にも聞こえている。博孝はとある二方向から身が竦むような冷気を感じ、視線を逸らした。紫藤は視線を逸らした博孝を見ると、珍しく微笑む。
「ふふっ……冗談。でも、お世話になったのは本当」
悪戯っぽく笑い、紫藤は博孝から身を離す。そして正座をすると、手をついて頭を下げた。
「先輩には色々と迷惑をかけた。これからも迷惑をかけるかもしれないけど、よろしくお願いしたい」
「これからって言っても、俺は卒業するけどな」
「それなら先輩が配属された部隊を目指す。だから、生活が落ち着いたら手紙の一つでも出してほしい」
紫藤に関しては父親の件で世話を焼いた。その礼を言っているのだが、今後も手助けが欲しいと言う。その図太さに苦笑する博孝だが、そんな博孝の表情を見た紫藤は微笑みの種類を変える。
「直接会いに来てくれても大歓迎。わたしも嬉しいから」
「だからなんでわざわざそういうことを言うかなぁ!?」
配属先がわかるのは、明日のことだ。仮に配属先が遠ければ、おいそれと訓練校まで足を運べない。配属される部隊によっては、所属を明かせないこともあるだろう。
「なんでかしら? 無性に体を動かしたくなってきたわ」
「うん、いいね。最後の思い出に模擬戦しようか?」
博孝と紫藤の話を聞き、真顔で述べる沙織と笑顔で追従する里香。冗談だろうと思った博孝だが、恭介に絡んでいたみらいも手を上げる。
「もぎせん? やるー!」
「決定ね」
「マジかよ……」
嘘だろ、と言わんばかりに目を見開く博孝。だが、乗り気になった沙織が参加者を募り、花見の添え物として模擬戦を始める。
「締まらないっすねぇ……」
「ま、こういうのも俺達らしいだろ?」
呆れたように、全てを諦めたようにため息を吐く恭介に対し、博孝は笑って答えるのだった。
そうして、夜が更けるまでどんちゃん騒ぎは続いていく。
卒業を祝って飲み食いし、騒ぎ、時折何故か模擬戦を行いつつ、時間は過ぎていく。
夜が明ければ任官式だが、それでも彼らは自身の、あるいは先輩の卒業を祝い、飲めや歌えやと騒いだ。
そこには笑顔しかなく、いつもならば注意していた“保護者”も苦笑しながら見守るだけである。
夜が更ける。卒業という節目を迎え、時間は春の夜空に浮かぶ雲の如く流れていく。
今後どんな困難が待ち受けていようと、彼らは立ち向かうだろう。
――ただ、今だけは陽気に穏やかに、桜の花びらの下で卒業を祝うのだった。
どうも、作者の池崎数也です。
これにて『平和の守護者』の訓練校編は終了となります。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
次に投稿するのは、おそらくですが卒業時点での主要人物(訓練生)紹介になるかと思います。二話前でやった卒業試験の結果などを踏まえつつ、これまで作中で出た情報を簡単にまとめられれば、と。
感想欄で気にされた方もいらっしゃいますが、卒業後の進路などはその後の話になります。
それでは、こんな拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。