第百二十六話:二回目のバレンタインデー その1
二月十四日はバレンタインデーである。
元々は聖ウァレンティヌスが殉教した日だが、日本においてはそのような意味で捉える者はほとんどいないだろう。現在では女性が男性に親愛を込めてチョコレートを贈る国民的行事になっており、大抵の年頃の男女にとっては意識せざるを得ない日だ。
菓子会社の“手回し”によって定着したとされる行事でもあるのだが、実際に“その日”を体験する人々にとっては大きな問題ではない。行事の起源などどうでも良く、楽しめればそれで良いのだ。
「はぁ……」
二月十四日当日。普段から前向きで明るい恭介には珍しく、朝からため息を吐いていた。
「おいおい、どうしたんだ恭介? 朝っぱらから何を辛気臭い顔してんだ?」
そんな恭介の様子を不思議に思い、博孝が問いかける。恭介はそんな博孝の言葉を聞くと、恨めしそうな顔で博孝を見た。
「どうしたもこうしたも……なんでバレンタインデーまで朝っぱらから自主訓練をしなきゃいけないんすか!?」
そう叫び――博孝から繰り出された掌底を防御する恭介。対する博孝は、どこか上機嫌に、それでいて申し訳なさそうな様子で追撃を行う。
「いや、だってほら……左腕が治ったから錆落とししたいし。勘を取り戻すのは組手が手っ取り早いし」
「それはめでたいっすけど、何もこんな日じゃなくても……ってあぶねぇっ!?」
真下から掬い上げるようにして放たれた蹴りを回避し、恭介は博孝から距離を取った。
博孝も恭介も、互いに『飛行』を発現した状態で組手を行っている。地上から五メートルほどしか浮いていないが、『飛行』を発現しながら組手を行うには十分だ。
第二指定都市の大規模襲撃から一ヶ月以上が経過し、事件当時に左腕を“負傷”した博孝もようやく完治と呼べるぐらいに回復した。動きが鈍かった左腕も意思通りに動くようになり、博孝だけでなく周囲の者達も安堵させたのである。
しかし――。
「くっそ! こんなことなら組手の相手を引き受けなきゃ良かったっす!」
「おいおい、冷たいこと言わないでくれよ恭介クンよぉ。沙織は相手してくれないし、恭介にまで逃げられたら同期で組手をしてくれる奴がいないんだよ!」
「教官にでも頼めばいいんすよ!」
「そりゃ死ぬわ! 怪我が治ったっていうのに、すぐに死ぬわ!」
ハハハ、と笑いつつ、博孝は恭介の拳を左手で捌く。『飛行』と体術の訓練になり、さらに自分の調子も戻せて最高だと博孝は思った。
ようやく治った左腕だが、さすがに治ってすぐに元通りの動きができるはずもない。訓練には参加していたため体力が落ちることはなかったが、片腕が使えないということで体のバランスに“歪み”が出来てしまうのだ。
怪我をする前までにはなかった違和感が左半身に染みついており、博孝はその違和感を払拭するために恭介に組手の相手をしてもらえるよう頼んだ。最初は沙織に頼んだのだが、何やら忙しいらしい。
時期が時期だけに気を利かせて組手の相手を受け入れた恭介だが、若干後悔していた。自分の訓練にもなるため、博孝と組手をするのは良い。しかし、博孝が訓練にかける熱意を見誤っていた。
一ヶ月近く“本気”で訓練に取り組めなかったために、博孝には大きなストレスが溜まっていたのである。それを放出するように自主訓練に励み、鈍った体を鍛え直していた。
恭介としても、博孝の心情は理解できる。普段は三日程度集中して治療を行えば完治する『ES能力者』が、一ヶ月以上も時間を掛けて治療する羽目になったのだ。事件当時に博孝に救われた恭介としては組手に付き合うのも吝かではない――が、さすがにバレンタインデーを放置して鍛えているのはどうかと思った。
「河原崎先輩! 次は俺の相手をしてください!」
「よし、よく言った市原! 徹底的に相手をしてやる!」
空中で組手をしている博孝と恭介に対し、朝から顔を見せた市原が声をかける。市原は訓練着に身を包んでおり、やる気満々だった。恭介は博孝の相手を中断すると、市原と交代する。市原は『飛行』が使えないため、博孝は地面に下りて構えを取った。
「いやぁ……それにしても河原崎先輩は元気ですねー」
「三場は混ざらないっすか?」
早速組手を始めた博孝と市原を見ながら、呆れたように三場が呟く。それを聞いた恭介は組手を勧めるが、三場は苦笑しながら首を横に振った。
「僕は今の河原崎先輩と戦う勇気がないですね……あれで体が鈍っているなんて、到底信じられませんよ」
『固形化』で発現した『構成力』の棒を振り回す市原と、それを『防殻』だけ発現して迎え撃つ博孝。自由に体を動かせることが余程楽しいのか、博孝の目はギラギラと輝いている。正直に言えば、かなり怖いな、と三場は思った。
「そうっすか? たしかに元気は良いっすけど、一ヶ月以上組手をしてないっすからね。かなり鈍ってるっすよ」
しかし、恭介は三場の言葉を否定するように言う。久しぶりの組手ということで気合いは十分だが、体の動きからだいぶキレが失われていた。実技訓練で砂原にも指摘されており、無理をしない程度に、それでいて最速に鍛え直している途中なのだ。
左腕が使えない間は、射撃系ES能力や空戦技術を磨いてきた。それでもその分体術が衰えており、元通りになるまでしばらく時間がかかるだろう。
「ああ……武倉先輩も、“そっち側”の人なんですねぇ」
博孝の戦いぶりを見て『鈍っている』と言える恭介に、三場は遠い目をしながら呟いた。
三場からすれば、恭介も十分におかしい。『ES能力者』としては一期――半年の違いしかないはずだが、その技量差は半年では到底埋まらない。現に、半年前の恭介と今の自分を比べても、大きな差があると三場は思っていた。
そもそも、博孝に頼まれたからといって『飛行』を発現しながら組手を行う訓練生がどれだけいるというのか。市原などは博孝と沙織に着目しているが、三場からすれば同じ『防御型』としても『ES能力者』としても、恭介を無視できなかった。
「もっと相手の動きをよく見ろ! 隙がないなら作り出せ!」
「はい! 先輩!」
組手どころか模擬戦に変貌した戦いを繰り広げる博孝と市原を見て、三場はため息を吐いた。博孝はつい最近まで左腕が不調だったはずだが、今では模擬戦を通して市原を指導するほどだ。市原も嬉々として戦っており、自身の小隊長の好戦ぶりにはため息を吐くしかない。
(まあ、市原が先輩方に喧嘩を売らなかったら今の関係もなかったんだけど……)
三場が思い出したのは、初めて第七十一期訓練生の男子寮に乗り込んだ日のことだ。
同期の訓練生が相手では物足りないと市原が言い出し、二宮と紫藤が賛同し、三場は反対したものの引きずられるようにして“模擬戦”を申し込みにきてしまった。
最初に戦った中村達も手強かったが、そのまま戦いが続けば数の差もあって勝利しただろうと思う。しかし、みらいや里香が駆け付け、さらには博孝達まで合流し、あっという間に叩きのめされてしまった。
その後は頻繁に博孝達の自主訓練に顔を出すようになったのだが、ついていくのも一苦労である。同じ『防御型』である恭介にはよく訓練を見てもらうのだが、体術やES能力全般で大きな差があった。
「というか、なんでこんな日まで自主訓練をしているんですかね……」
「俺も博孝にそう言ったっすけど、バレンタインデーよりも訓練の方が大事っぽいっす」
疲れたように呟く三場に、呆れたような声で恭介が同意する。市原や三場がこの場にいるのも、市原は自主訓練に混ざるためであり、三場は昨晩から第七十一期の女子生徒達の元へ押しかけている二宮と紫藤を心配したからだ。
迷惑を掛けていなければ良いが、などと考える三場の顔には苦労の色が染みついている。暴走しがちな他の小隊員を押し留めるのは三場の役割であり、常日頃から気苦労が絶えなかった。
「というか、こっちにばかり顔を出してて良いんすか? 同期と自主訓練は?」
「あー……うちの教官はあまり良い顔をしませんね。でも、“校則”では先輩に教えを乞うのは禁じられていませんし。なにより、先輩方の自主訓練に混ざってから同期と戦うと、物足りなくて……」
第七十二期訓練生においては、市原の率いる小隊が最も強い。その上博孝達と自主訓練を行うようになってからは技量が伸びており、同期の訓練生と戦っても手応えがなかった。
恭介に対して引いていた三場だが、三場自身もそれなりに“染まって”いるらしい。
「……よし、こんなもんか」
「ご指導いただきありがとうございました!」
そうやって恭介と三場が駄弁っていると、博孝と市原の組手が終了する。博孝は自身の調子を確認しながらになったが、市原からすれば全力での組手だ。博孝があれこれとアドバイスを行い、市原はそれを真剣に聞く。
「じゃあ、次は三場だな」
「うぇっ!? い、いや、僕はちょっと……」
市原へのアドバイスを行ってから笑顔で手招きをする博孝だが、三場は顔を引きつらせながら身を引いた。恭介は博孝の腕が鈍っていると言ったが、それを補って余りある戦意を滾らせている。
「嫌がる相手に無理強いしたら駄目っすよ?」
「むぅ……それもそうか」
「他の先輩方はどうしたんです? いつもなら、河原崎先輩達以外でも休日に自主訓練をしている方がいらっしゃったはずですが」
中村などはいないのかと尋ねる市原だが、それを聞いた恭介は苦笑した。
「朝から男子寮の談話室に集まって、ソワソワとしてるっすよ。彼女がいる奴は朝から外出してるっす」
「ああ……今日はバレンタインでしたか」
納得したように頷く市原だが、すぐに眉を寄せる。
「勿体ないですね。いくらバレンタインとはいえ、自主訓練をして技量を伸ばす方が大事だと思うんですが……」
「お、よく言った市原。それじゃあもう一回組手やるか。今度は『射撃』使うから」
「良いですね。ただ、『狙撃』は勘弁してくださいよ? 先輩の『狙撃』、紫藤の奴よりも威力と速度がえげつないですから」
三場が組手をしないのなら、もう一度自分がやると言い出す市原。その積極性を買った博孝は、今度は『射撃』を使おうと思う。しかし、博孝の様子に違和感を覚えた恭介は、思わず尋ねていた。
「なんか、今日の博孝は訓練に“没頭しようとしている”感じがするっすね……何かあるんすか?」
博孝が自主訓練に励むのはいつものことだが、それと同時に、博孝はお祭り騒ぎが大好きである。バレンタインデーというイベントならば率先して騒ぐと思っていただけに、恭介としては意外に思えた。
「てっきり、朝から女子寮の前で土下座して、『チョコレートください』って訴えると思ってたっす」
「お前は俺に対してどんな印象を持ってるんだ……たしかに去年はそれをやろうとして、見事に忘れてたけどな!」
一年前のバレンタインデーでは、博孝は朝から沙織やみらいと共に『瞬速』の訓練を行っていた。砂原から『飛行』の訓練方法を教わり、沙織との確執が改善された後の出来事だったため、バレンタインデーという存在を忘れていたのである。
しかし、今年はそうではない。二週間ほど前に、紫藤が不意打ちのように尋ねてきたのだ。
『甘いもの、好き?』
その問いかけを受けた博孝は頷いたが、それがバレンタインデーを予期してのものだったと気付いたのはその直後である。
沙織は首を傾げ、みらいは納得顔で両手を打ち合わせ、二宮は紫藤の突然の発言に驚いて目を丸くしていた。里香は何故か怪訝そうな顔をしていた。
そしてつい最近、売店にバレンタインデー専用のコーナーが設置され、女子生徒達が毎日のように群がっていたのだ。沙織が自主訓練を断ったのも、これが原因である。
特に、昨晩から女子生徒達が食堂の設備を借りてチョコレート作りを行っているらしく、二宮と紫藤まで参加していた。男子生徒達はその“結果”を期待して寮の談話室にこもっており、博孝達の行動はイレギュラーとも呼べるだろう。
博孝が朝から自主訓練を行っていたのは、鈍った体を鍛え直すためである。だが、自主訓練に没頭して現実から逃避する意味合いもあった。
市原ともう一度組手を行おうと思っていた博孝だが、頭の中に嫌な“未来図”が浮かんできてしまい、動きを止める。それを不思議に思った恭介だが、博孝は視線を地面に向けながらぽつりと呟いた。
「……俺、今日死ぬかもしれん」
「いきなりなんっすか!?」
突然死ぬと言われ、恭介は目を剥いて驚く。市原と三場も驚愕した顔で博孝を見ており、三人の視線を受け止めた博孝は膝を抱えてその場に座り込んでしまった。
「去年さ……みらいが手作りチョコレートをくれたんだよ」
「そ、そうなんですか? でも、それは良いことなのでは?」
体育座りをしながら呟く博孝に、さすがの市原もたじろいだ様子で尋ねる。みらいは博孝の妹であり、そんなみらいから手作りのバレンタインチョコをもらえるのは良いことでは、と純粋に思っての問いだ。
「ここだけの話なんだが……みらいの手作りチョコな、アレはヤバいぞ。正直、俺はみらいこそが独自技能『猛毒』の持ち主なんじゃないかと疑ったほどだ……」
声を潜め、感情の消えた顔付きで呟く博孝。その顔付きは、かつてないほどの強敵と対峙したようですらあり、市原は音を立てて唾を飲み込む。
「ロシアにいるという、独自技能保持者ですか……いや、しかし、俺達は『ES能力者』ですよ? 極端な話、腐ったものを食べても食あたりになるかどうか……」
そんな馬鹿なと笑い飛ばそうとした市原だが、博孝の雰囲気があまりにも真剣だっため笑うことができなかった。市原の言葉が耳に届いたのか、博孝の首が九十度回転して市原に向けられる。
――市原に向けられた目は、ガラスのように無機質だった。
「一昨日、みらいが俺の部屋に遊びにきたんだ……お前がプレゼントしてくれた『海の生き物図鑑』と、手作りチョコの作り方について書かれた本を何故か両手に持って、な」
くわっ、と目を見開く博孝に、市原は言葉を失う。殺気はないが、あまりにも博孝の目が怖かったのだ。
「そこで、だ。みらいは俺に何を言ったと思う?」
「み、みらい先輩が何を仰ったんですか?」
なんとかそう尋ねる市原だが、博孝は深々とため息を吐いた。そしてグラウンドの砂地に指を走らせながら、先日みらいが放った爆弾発言を口にする。
「『まぐろっていくらするの?』……だってよ! 手作りチョコの作り方が書かれた本を隣に並べて、なんでマグロ!? マグロにチョコレートをかけるつもりなのか!?」
グラウンドを拳で叩きながら、博孝は絶叫する。何故マグロについて書かれたページと手作りチョコレートの作り方が書かれたページを一緒に見るのか。せめてマグロの形をしたチョコレートであることを祈るしかないが、それならば値段を聞く理由がない。
「はっ……そうか、マグロの型を取るために買うのか?」
「おーい、博孝ー。かなりおかしなことを考えてるっすよー。早く正気に戻るっすよー」
恭介は慣れているのか、旧型のテレビを直すように斜め上から博孝を叩く。しかし、博孝に効いた様子はない。市原と三場は顔を見合わせていたが、何かに気付いたように顔を上げた。
「あ、わかりました。今の話は冗談なんですよね?」
博孝はみらいのことを猫可愛がりしており、それは自他共に認めることだ。そんなみらいが市原から贈られた『海の生き物図鑑』を気に入っていることに、博孝が嫉妬して冗談を言っているのだ。
無理矢理そう結論付けた市原だが、博孝は真剣な顔つきへと変わる。
「去年のチョコレートには鯖が入っていた。今年はマグロになっていてもおかしくはない」
「嘘……じゃ、ないんですね……」
博孝の顔は真剣であり、嘘の気配は微塵もない。それ故に市原も認めるしかなく、博孝にかける言葉がなかった。
「でも、最近のみらいちゃんは料理も上達してきてるっすよ? 岡島さんや沙織っちもついているはずだし、さすがにゲテモノになるとは思えないっすけど……」
里香の影響を受けたのか、みらいは料理が好きである。実際には博孝が全てを“笑顔”で完食し、喜んでくれるのが嬉しいからだが、恭介の言う通り料理の腕前も成長しつつあった。だが、博孝は首を横に振る。
「料理の腕と発想は別だよ、恭介……そもそも、去年だって里香が傍にいてくれたんだぜ? 何故か途中で目を離して、その間に“失敗”したみたいだけど……」
首を振った博孝の表情には、悲愴さすら漂っていた。
それこそが博孝がバレンタインデーを素直に喜べない理由であり、女子生徒達がチョコレートを男子寮へ運んでくるまで自主訓練に励んでいる理由でもある。
相手が『ES寄生体』ならば倒せば良い。
相手が敵性の『ES能力者』ならば死力を尽くして撃退すれば良い。
だが、相手が可愛い義妹手作りのチョコレートとなれば話は別だ。避けては通れず、逃げることも許されない。
(あ、胃薬買っておけば良かった……せめて黒焦げの唐揚げレベルで済みますように……)
みらいに対して申し訳ないとは思いつつも、これまでの“実績”を思い出した博孝は現実を逃避しながら頭を抱えるのだった。
時を一日遡った、二月十三日の夜半。
第七十一期訓練生が利用する食堂の調理場では、女子生徒たちが集まってにぎやかに騒いでいた。明日に控えたバレンタインデーに向けて、それぞれ手作りチョコレートを作ろうとしているのである。
食堂の管理を行う榊原や砂原の許可は取ってあり、気にするものは何もない。去年もだが、バレンタインデーなどの行事がある時は丁度休日になっている辺り、砂原達教官も生徒に気を遣っているのだろう。
訓練校を卒業すれば正規部隊に配属され、自由に菓子作りをしたり甘酸っぱい恋愛に熱を上げたりと、“学生”らしいことはできなくなるのだ。
女子生徒に限らず、第七十一期訓練生達は全員がそれを痛感している。あと一年と少しで卒業し、正規部隊に配属され、正規の任務を行っていく。例年の訓練生に比べて“問題”に何度も直面した彼ら、彼女らは、他の期の訓練生に比べても現状の平和のありがたさをよくわかっていた。
――だからこそ、大いに騒ごう。
全員がそう思い――付き合っている相手がいる女子生徒は、周囲から集中砲火を浴びた。
「どうせ明日は街に行くんでしょう? 羨ましいわ……」
「ふふふ……バレンタインデーということで乗ってみたけど、本命チョコを渡す相手がいないわ……」
「帰ってきたら根掘り葉掘り聞き出してやるんだから……」
付き合っている相手がいる者は、彼氏がいない女子生徒達に取り囲まれて肩身が狭そうである。しかし、周囲の女子生徒達はあくまでからかうことが目的であり、明日の今頃には男子生徒達の間でも似たようなことが起きるだろう、と諦観していた。
ひとしきりからかい終えると、今度はその予備軍――明らかに本命の相手がいる者へと話が振られる。それは、この場で言えば里香だった。
一年前にも似たようなことを聞き、女子生徒達はその時に里香の本音を聞いたが、一年経った今でも心境の変化はないと断言できた。むしろ一年前よりも博孝と里香の仲が接近しているように見えたため、非常に楽しげな様子で話を振る。
「それで……岡島さんは当然河原崎君に渡すのよね?」
「え? うん、そうだけど?」
「今年こそ決めちゃう? 決めちゃってはああああぁぁっ!?」
あっさりと博孝にチョコレートを渡すことを肯定され、からかう気満々だった女子生徒達は話の途中で驚愕してしまう。これまでの里香ならば、“この手”の話題を振ると顔を真っ赤にして狼狽え、周囲の女子生徒達を和ませてきたのだ。あまりにも里香の反応が純なため、自分達が汚れているようにも思えてしまったが。
「岡島さんが、照れない……ですって?」
「渡すのが当然ってこと? ……はっ! ま、まさか、わたし達が知らない間に河原崎君とゴールインしてたの!?」
思わぬ里香の反応に、周囲にいた女子生徒達は色めき立つ。なんだかんだで里香のことを応援しており、もしも博孝と恋仲になったのならば全力で祝福しようと思った。しかし、里香は周囲の反応を気にせず、苦笑しながら首を横に振る。
「ううん。でも、渡しても問題はないよね?」
「え、あ、はい……そうですけど……」
湯せんにかけるためのチョコレートを用意しつつ、里香は穏やかに言った。あまりにも里香の反応が予想と異なるため、女子生徒達は大人しくなってしまう。
当初はからかうのが目的だったが、里香があまりにも堂々と返答したため、言葉を続けられなかったのだ。
「むぅ、最近の岡島さんって妙な貫禄が出てきたわね……」
「あ、わたしも思った。余裕というか、自信があるっていうか……」
「そう……なのかな?」
不思議そうな視線を向けられ、里香も不思議そうに首を傾げる。里香としてはそんなつもりはなかったが、周囲からすれば“以前”に比べて里香の雰囲気がだいぶ変わったように思えた。
何かあったのだろうと推測するが、何があったのかまではわからない。そのため深く追求することもできず、周囲にいた女子生徒達は顔を見合わせてしまった。
「でも、河原崎君と一緒にいる時の岡島さんは“これまで通り”だし、明日の本番に期待しましょうか」
「そうね。あとのお楽しみに取っておきましょう」
「えっと……聞こえてる、よ?」
困ったように里香が言うと、女子生徒達は笑顔でサムズアップをしてから自分達の作業に戻る。それを見た里香は、苦笑しながら視線を移動させた。すると、調理場の隅でヒソヒソと小声で会話をする二宮と紫藤を発見する。
第七十二期訓練生の間ではバレンタインデーに関してそれほど盛り上がっておらず、食堂を使う許可も下りなかったため、里香達の元へとやってきたのだ。
「それで……四葉は市原に渡すの?」
「は、はぁ? な、何を言ってるのよ遙! なんでわたしがあいつに手作りチョコを渡さないといけないの!?」
「別に、手作りチョコとは言ってない」
「ぐっ……げ、現状から判断したら手作りチョコしかないでしょ!?」
内緒話にしては二宮の声が大きくなってきており、それが耳に届いたのか、周囲に散ったはずの女子生徒達が目を輝かせ始める。そして獲物を追い詰める狩人のように、二宮が逃げられないよう取り囲んだ。
「後輩ちゃん、ちょっとお話を聞かせてもらえる?」
「思わぬところに良いネタ……もとい、相談に乗ってあげられそうな話題が……」
「え? あの、先輩方?」
少しずつ狭まっていく包囲網。二宮は逃げようとするが、逃げ場はない。しかし紫藤だけは機敏な動きで囲いを突破すると、逃げ遅れた二宮に背を向けた。
「四葉、頑張って」
「ちょっと、遙!?」
無表情で親指を立てる紫藤と、詳細を求めてもみくちゃにされる二宮。里香はほどほどにするよう一声かけ、紫藤の下へと歩み寄る。
「紫藤さんは……博孝君に渡すんだよね?」
最初に言い出したのは紫藤であり、里香もそれを知っている。紫藤が博孝達の自主訓練に混ざる場合、紫藤は博孝に教えを乞うことが多い。射撃系ES能力が得意な者同士、良い訓練になるのだ。
当初は博孝が紫藤に『狙撃』を教わっていたが、今ではその立場も逆転している。実戦を経験した博孝に様々な面で教えを受けており、質問をする姿も頻繁に見られた。
その点を踏まえれば、紫藤が博孝にチョコレートを贈ってもおかしくはない。日頃世話になっているため、義理チョコすら渡さないのは不自然だ。
しかし、里香には気になる点があった。それは博孝と紫藤の仲の良さ――ではない。元々博孝は紫藤の面倒を見ることがあったが、それがある時を境に質を変えたように思えるのだ。
それは博孝が紫藤を手篭めにしたという噂が立った時期であり、それを境にして二人の雰囲気が変わっている。里香は噂を信じなかったが、“何か”があったのは本当ではないかと思っていた。
あとは何があったのかが問題だが、紫藤個人の事情に踏み込むのは戸惑われる。博孝に尋ねても良いが、答えは聞けそうにない。
博孝が第一小隊の仲間にも黙っているのなら、それは機密に該当することなのだろう。話す必要があり、砂原から許可が出ていたら博孝も話しているはずだと里香は思う。
考え過ぎるのは自分の悪い癖だ。里香はそれと同時に、考えて相手を“見透かそう”とするのも悪い癖だと思った。
それでも無意識の内に観察した印象としては、紫藤はかつての沙織同様、何かしらの問題を抱えているのだと判別できる。入校した当初の沙織と似たような目をしているように感じられ、里香としては気になってしまった。
「岡島先輩、どうかした?」
「……ううん。なんでもない」
静かに尋ねてくる紫藤に、里香は首を横に振る。紫藤も博孝にチョコレートを渡すようだが、自分とは違う種類の感情をもとにして渡すようだ。それが気になるが、触れるべきではないと思う。
「お菓子作りは得意だから、何かわからないことがあったら聞いてね?」
「……ありがとう」
里香が“退いた”ことを察したのか、紫藤は目礼してから背を向ける。そんな紫藤に少しだけ心配そうな視線を向けた里香だが、非常に重大な問題を引き起こしそうな会話が耳に届く。
「おにぃちゃんは、ちょこれーととさばかんがすき」
「チョコレートに鯖の缶詰? 博孝って妙な組み合わせが好きなのね……」
とりあえず今は、自分の作業を進めるよりも沙織とみらいを止めようと思う里香だった。