第百二十五話:模擬戦という名の教育
ES訓練校における実技訓練というものは、基本的に所属する生徒全員へ向けたものである。『飛行』を発現できる者がいるからといって生徒全員に空戦技術を教えることはなく、教えるとしても空戦可能な相手の対処法ぐらいだ。
第七十一期訓練生においては、教官である砂原がその辺りを工夫して生徒達に教えている。空戦技術を習得しつつある博孝を敵役として配置し、博孝は攻撃を避ける訓練、他の生徒は空を飛ぶ『ES能力者』を撃ち落す訓練として成立させていた。
もちろん、本当に博孝を撃ち落すようなことはしない。訓練ということで『射撃』の威力を落としており、博孝もそれで落とされるような防御力ではなかった。
最近は博孝が左腕を負傷したため中断しているが、博孝以外でも沙織や恭介、みらいが空戦技術を習得しつつある。だが、博孝ほど自由に飛び回ることはできないため、授業で敵役を任せるわけにはいかなかった。
それならば、どうやって沙織達を鍛えるのか。それが問題なのだが、答えは非常にシンプルである。
「諸君らの『飛行』もだいぶ形になってきたな。というわけで、“空中”で俺と模擬戦をするぞ」
「すいません教官。何が『というわけで』なのか、さっぱりわかりません……」
砂原の時間が許す限り、自主訓練中に鍛え上げるのだ。幸いというべきか、沙織も恭介もみらいも、時間が空けば自主訓練に励むほど向上心豊かである。『飛行』にも慣れてきており、ここまでくればあとは模擬戦を通して空戦技術を“叩き込む”方が早いと砂原は判断した。
一応博孝がツッコミを入れるが、それで砂原が思い直せば苦労はしない。
一月も終わりに近づいてきた時期、いつも通りに午後の実技訓練を行い、夕食と軽い休憩を取ってからいつも通りに自主訓練を行っていた博孝達だが、砂原が姿を見せるなりそんなことを言われたのである。
熟練の『ES能力者』であり訓練校の教官である砂原は、訓練生に比べて簡単な手続きで外出することができる。その上、自宅がある第二指定都市までは『飛行』で移動する許可が出ており、生徒達が休日の場合には自宅に帰っていた。
それでも“平日”はさすがに自宅に帰ることが難しく、生徒達の訓練を行った後は報告書の作成や今後の訓練スケジュールのチェックに時間を取られる。書類仕事が早く終われば生徒達の自主訓練に顔を出すこともあるが、指導ではなく模擬戦を行うのは非常に珍しかった。
「空中戦闘を一度体験したことで、諸君らも『飛行』に慣れつつある。しかし、まだまだ未熟な点が多い。それを模擬戦の中で正していこうと思ってな」
「模擬戦って言われても……一対一っすか?」
『飛行』の訓練になるなら大歓迎だが、それが砂原との模擬戦と聞けば遠慮したい気持ちも湧く。逃げ出したい気持ちを押さえながら恭介が聞くと、砂原は首を横に振った。
「せっかくの機会だ。一対四……第一小隊“全員”で行う」
「全員って言われても、俺は左腕がまだ治ってませんし、里香は『飛行』ができませんよ?」
一個小隊で行うということは、空戦での連携訓練も兼ねているのだろう。そう判断した博孝だが、第一小隊は万全の状態ではない。博孝の左腕は完治しておらず、里香は『飛行』どころか『瞬速』の発現もできていない。
それでもわざわざ全員でと砂原が言うのなら、何か裏があるのだろうと博孝は思った。
「体術訓練は控えさせているが、空を飛ぶ感覚まで忘れられては困るからな。河原崎兄は遠距離戦に徹しろ。俺もお前に接近戦は挑まん。それと岡島についてだが……」
砂原が里香に視線を向けると、里香は“また”外されるのかと思った。しかし、砂原は第一小隊全員で、と言っている。里香を外してみらいを加える、という意味なのかもしれないが、里香はその可能性を除外して砂原を見返した。
「『通話』で陸上から指揮を執りましょうか?」
どこか挑むように尋ねる里香。博孝が遠距離戦に徹するのならば指揮も執りやすいだろうが、それならば第一小隊全員と括る必要がない。そう考えて指揮を執ることを申し出る里香だが、砂原はその言葉と里香の様子に少しばかり目を見開き、次いで、小さく笑った。
「……いや、お前は『瞬速』の訓練中だろう? それならば、最適と思われる訓練方法を思いついてな」
「訓練……ですか?」
模擬戦の話をしていたはずだというのに、何故『瞬速』の訓練が出てくるのか。それを不思議に思った里香だが、治療中の博孝を遠距離戦だけとはいえ模擬戦に参加させる必要性と、砂原の言葉から答えを導き出す。
「あ、あの……も、もしかして、ですけど……」
それまでの態度はどこにいったのか、里香は入校当初に戻ったかのような気弱さを表に出した。まさか、でも、と考えつつ、里香は博孝に視線を向ける。
「ん? って、まさか教官……」
里香の態度と砂原の言葉から事態を把握した博孝は、ジト目で砂原を見た。沙織と恭介は首を傾げ、みらいは話を聞かずに恭介によじ登っている。
「そのまさかだ。河原崎兄、お前は岡島を抱えた状態で模擬戦を行え。人ひとり抱えた状態で空を飛ぶのは良い訓練になる。近接戦闘を行わないのなら、それほど変則的な動きもしないだろう。岡島にとっては、“実際に”空を飛んでみる良い機会だ。それと……」
里香を抱えた状態で空を飛べと砂原は言う。そして、ついでにといわんばかりの気軽さで里香へ視線を向ける。
「自分の言葉には責任を持つべきだろう――岡島、お前が指揮を執れ。ただし、空を飛びながらだ。陸戦ではなく空戦の指揮経験は積んでおいて損もない。それと併せて“空を飛ぶ感覚”を覚えろ。『瞬速』の発現にも役立つはずだ」
「え……は、はいっ!」
反射的に頷く里香だが、“状況”を把握すると素直に喜んで良いのかわからない。砂原監督のもと、実際に空を飛ぶ経験を得られるのは大きいだろう。もっとも、博孝に抱えられた状態で、というのが非常に心を乱しそうだが。
「河原崎兄にとっても良い訓練になる。人を抱えた状態で空を飛ぶ場合、一人で飛ぶよりもバランスを取りにくいからな。それに、普段と重さが違えば空中戦闘の“タフネス”も鍛えられる。重りでも良いが、同じ『ES能力者』を抱える方が訓練になるだろう。ただし、俺の目がないところではやるな。“落とす”と危険だ」
「わたし、重り代わりですか……」
“重り”扱いされた里香は、違う意味で凹んだ。『瞬速』や指揮の訓練になることは嬉しいが、重り代わりというのは乙女的に辛い。
「きょーかん、おんなのこにおもいっていったら、めっ!」
そんな里香の落ち込みように気付いたのか、恭介から下りたみらいが砂原の腰元を叩きながら抗議する。その抗議を受けた砂原は、バツが悪そうに頭を下げた。
「む……たしかに、デリカシーが足りなかったようだ。すまんな、岡島」
「い、いえっ! 気にしないでください!」
申し訳なさそうな砂原に、首を横に振る里香。謝罪する砂原とそれを見て満足そうに頷くみらいの姿は、気の利かない父親と少々おませな娘にも見えた。
そんな里香達を他所に、沙織は不満そうに博孝のもとへと詰め寄る。
「博孝、わたしと替わりなさい。わたしが里香を抱えて空を飛びた……飛ぶわ」
「沙織が里香を抱えたら、攻撃の要がなくなって一方的に負けるぞ……あと、なんで言い直した」
「沙織っちが岡島さんを抱えて接近戦ができなくなったら、間違いなく俺が真っ先に叩き落とされるっすねぇ……」
自分が里香を抱えると告げる沙織に、それは駄目だろうと告げる博孝。恭介は遠い目をして自分の未来図を予想している。
「そもそも、里香を抱えて飛べるのか?」
「気合いで飛ぶわ。むしろ、里香を落とさないために気合いが入るわ」
「そろそろ開始しても良いか?」
沙織が力説していると、砂原が模擬戦を開始しても良いか尋ねる。模擬戦とは言ったものの、砂原からすれば模擬戦の形をした指導だ。
博孝には人ひとりを抱えて飛ぶための技術を。
沙織や恭介、みらいには空戦における動き方と連携の伝授を。
そして、里香には『飛行』の体験と空戦部隊員に対する指揮の“練習”を。
『飛行』を発現できる生徒が増えれば小隊同士での模擬戦もできるのだが、博孝達以外に『飛行』を発現した生徒はいない。卒業までに『瞬速』を発現できる者が多少は出る程度か、と砂原は見ている。
「ほら、もうちょっと『飛行』に慣れてからにしろよ」
「……仕方ないわね」
渋々といった様子で引き下がる沙織だが、砂原との模擬戦ということで即座に意識を切り替えた。腰元の『無銘』に手を這わせつつ、視線を鋭くする。
「『無銘』は使っても?」
「構わんぞ。ただし、味方を斬るようなヘマをするなよ」
「……『武器化』にしておきます」
砂原の言葉を聞き、沙織は悔しそうな様子で腰元から『無銘』を抜く。『無銘』を握った状態で敵性『ES能力者』と戦ったことはあるが、“あの時”は怒りに任せて振り回したようなものだ。
繰り出したのも、突きと振り下ろしを一回ずつである。自身の『構成力』で発現した大太刀と異なり、『無銘』はそれなりに重さがあるため、砂原との模擬戦で使いこなせる自信がなかった。
動きの激しい空中戦闘で『無銘』を振るい、誤って周囲の仲間を斬りつけては敵わない。空中を高速で移動するため、『無銘』を振り下ろすだけでも姿勢の制御に注力する必要があるのだ。それならば、『武器化』で発現した大太刀を使った方がマシである。
特に、第一小隊の人員は里香を除いて接近戦に向いた者ばかりだ。博孝は遠距離戦に徹するとはいえ、恭介やみらいが傍にいる状況で『無銘』による不安定な太刀筋を晒すのは嫌だった。
そう結論付けた沙織は『瞬速』を発現すると、腰元から鞘ごと抜いた『無銘』を部屋に置きに行く。さすがに地面に置いておくつもりはないようだ。博孝はその間に里香と向き合うと、両手を広げてみせる。
「さて……正面から抱っこですか? それともお姫様抱っこですか?」
「じゃ、じゃあ……背中におんぶで」
「あ、はい……」
里香を抱えるため、博孝が冗談混じりに尋ねた。すると、里香は僅かに頬を赤く染めながら答える。そんな里香の様子を見て、博孝はロボットのような動きで里香に背を向け、乗りやすいようにと膝を折った。
「ふむ……たしかに、おんぶの方が重心も安定するな」
良い判断だ、と頷く砂原だが、背負う方も背負われる方も落ち着かない。自主訓練ということで訓練着を着ているが、もしもスカートだったらお姫様抱っこを選んだだろう、と里香は現実から逃げるように考える。今も、博孝に密着しそうになる度に体を離し、離れすぎたら体を寄せる、という動作を繰り返していた。
「……里香さん? あまり背中で移動されると、さすがに飛び辛そうなんですが……」
「あっ……ご、ごめんなさい」
背負った里香を落とさないよう、博孝は里香の両足を両腕で固定する。左腕が心配だったが、動かすのではなく固定するだけならば問題はないようだった。
試しに『飛行』を発現して浮き上がってみるが、普段と比べて動きが鈍く感じられる。背中の里香のことを考えて姿勢を制御する博孝だが、これはたしかに良い訓練になるな、と思った。
そうやって『飛行』を試していると、部屋に『無銘』を置いた沙織が戻る。第一小隊が全員揃ったことで、博孝達は揃って空へと舞い上がるのだった。
(なるほど……まあ、今はこんなものだろうな)
里香を背負ったままで上昇する博孝は、内心でそんなことを呟く。『飛行』の習熟については仲間の中でも一番進んでいるが、里香を背負ったことで速度が落ち、機動も鈍重になっていた。
「わぁ……すごい……」
それでも、博孝に背負われてとはいえ初めて空を飛んだ里香は、感動したような声を漏らす。訓練校の敷地からは高度百メートル程度だが、“普通”の人間だった頃には体験できなかっただろう。訓練校近くの市街地の灯りも遠目に見ることができ、風情があると言える――今が模擬戦中でなければ、だが。
『では、模擬戦を開始する』
里香が感動を覚えていると、砂原が『通話』で模擬戦の開始を宣言した。第一小隊と砂原の間には百メートルほど距離があるが、空戦可能な『ES能力者』ならば即座に詰められる距離である。
「さて、それじゃあやりますか!」
「といっても、こっちはほぼ素手だけっすけどね!」
博孝が気合いを入れるように声を出すと、恭介はやけになったように叫ぶ。『飛行』の制御に集中力と『構成力』を取られるため、他のES能力を発現する余裕がほとんどないのだ。
恭介やみらいは発現できても『防殻』が精々である。沙織は余程相性が良いのか、『武器化』を発現した状態で空を飛んでいた。それでも、『武器化』を発現しているのに『防殻』が発現できないというアンバランスな状態だが。
それに比べ、博孝は『飛行』と『防殻』を発現し、その上で『射撃』を使える。陸上戦闘に比べればかなり制限がされているが、三発程度なら同時に光弾を発現することができた。
「というわけで、ここからが里香の出番だ。現状の手札だけで教官に勝てるよう指揮を執ってくれ!」
「えっと……さすがに無理、かな?」
「諦めるのが早くないですかね!?」
背負った里香に指揮を任せる博孝だが、さすがに高望みが過ぎたらしい。困ったような笑顔で却下されてしまう。それでも里香は、砂原という強敵を前に自分の考えがどれほど通じるのかと思考を巡らせる。
『じゃあ、これからはわたしが指揮を執るね?』
砂原は博孝達の出方を窺っているのか、『飛行』を発現しながらも歩くような速度で近づいてくる。里香はそんな砂原を視界に収めつつ、急に接近されるよりも淡々とした様子でゆっくり接近した方が恐怖を煽ることもあるんだな、などと頭の片隅で思考した。
同時に、模擬戦ということでやれることを全てやろうと思う。
『博孝君は『射撃』で牽制して、沙織ちゃん達は教官の“下”から接近して!』
里香が指示を出すと、博孝は即座に光弾を放つ。その間に沙織達は高度を落とし、砂原の足元から攻撃を仕掛けた。
(ほう……考えたな)
自分の下方から向かってくる沙織達を見て、砂原は内心で笑う。接近してくるまでには数秒あるため、射撃系のES能力で牽制し――止めた。眼下には、訓練校があるのだ。『射撃』や『狙撃』では、そのまま訓練校の敷地に着弾してしまう。
(撃てない方向から攻撃する、か。良い判断だ)
博孝からの光弾を回避しつつ、内心で呟く砂原。『爆撃』を使って地表に影響を及ばさずに沙織達を吹き飛ばす手もあるが、さすがにそれは無粋だろう。せっかく里香が知恵を絞っているのだ。それならば、ここは素直に――。
「正面から叩き潰すとしよう」
博孝から援護の『射撃』が飛んでくるが、回避は容易い。時折位置取りを変えて光弾を放つ博孝だが、その悉くが回避された。
踊るように光弾を回避しつつ、砂原は沙織達の“教育”を開始する。空中での戦闘は陸上のものよりも自由度が高く、連携の難易度も高くなる。それを体験させるため、砂原は敢えて真正面から沙織達に突撃した。
「空中での連携は前後上下左右の組み立てが重要だ! ここは地面の上ではない! 足元や頭上からの連携も覚えろ!」
拳を使った接近戦を挑む恭介とみらいに、大太刀によるリーチを活かした間合い取りをする沙織。互いに死角を補うように意識しながら行動するが、砂原から見れば死角だらけだ。
「もっと機敏に動け! 陸上と同じ動き方をするな! 相手の死角に回り込むことを意識して動け! そら、がら空きだぞ!」
「うおっ!?」
接近していた恭介の鳩尾に拳が突き刺さる――前に寸止めし、服を掴んで振り回す砂原。痛みを堪えてカウンターを取ろうとしていた恭介は、突然振り回されたことで虚を突かれてしまう。
「ちょっ、まじっすか!? っておおおおおおおおぉぉっ!?」
恭介の腕や足を使い、砂原はヌンチャクのように不規則な動きで振り回す。振り回される恭介は視界が目まぐるしく入れ替わり、砂原の腕力と相まって成すがままだ。
「接近の仕方は良いが、下手に近づきすぎると危険だぞ! このように利用されることもある!」
そんな注意を投げかける砂原だが、恭介が即席の“盾”になってしまい、沙織とみらいは攻撃できずに動きを止めてしまった。博孝も高速で振り回される恭介が邪魔になって砂原を狙えず、『射撃』の手を止める。
『武倉君! 教官を“止めて”!』
『っ! 了解っす!』
良いように振り回されていた恭介は、自分の右腕を掴んでいる砂原の腕を左腕で掴む。そして全力で『飛行』を発現すると、砂原の腕力に対抗するようにその場で静止した。
「このっ! 沙織っち! みらいちゃん!」
振り下ろそうとした砂原の右腕を押さえ、恭介は沙織とみらいに隙を突くよう声を張り上げる。振り下ろそうとする砂原の腕力に対抗するのはきついが、それでも恭介は砂原の腕を押し返し――。
「馬鹿者! もっと押さえ方を考えろ!」
砂原は叱責と共に体を回転させ、恭介が“押さえていた方向”へと腕を回す。突然砂原が力を込める方向を変えたことに追従できず、恭介は自身の『飛行』と砂原の腕力によって急激に加速。沙織とみらいが攻撃をするよりも先に、頭上に向かって“射出”される。
「おおおおおおおぉっ!?」
自身の『飛行』による加速に砂原の腕力が加わり、恭介は数秒と経たずに五百メートルほど上昇した。そのあまりの速度に全身が強烈なGを感じ、恭介は自分がどの方向を向いているのかすらわからなくなる。
「まずは空中での体の動かし方を完璧に覚えろ! 足元に地面はないぞ! 平面ではなく立体的な動き方を覚えて連携につなげろ!」
駄目な部分を指摘しつつ、拳を振るう砂原。結局、模擬戦というよりも一方的な“教育”になってしまったが、博孝達はそんな砂原に必死に食らいついていくのだった。
「よし、それでは今日はこのぐらいにしておこう」
一時間ほど空中で“模擬戦”を行っていた博孝達だが、それも終了して地面へと下りてきた。そして、地面に下りるなり恭介が倒れ伏す。
「俺、当分は地面から離れたくないっすよ……アイラブ地面……アイラブ重力……」
砂原に攻撃を仕掛ける度に真上へと放り投げられ、その度に逆フリーフォール状態を体験したのだ。『ES能力者』は気温などの変化には強いが、さすがに重力が急激に変われば参ってしまう。『飛行』を発現したことで慣れていたとしても、大きなGがかかるのは辛い。
「うぅ……め、目が回っちゃった……」
そして、博孝に背負われた里香は目を回していた。最初は初めて空を飛んだことで興奮していたが、砂原との模擬戦が始まってからが大変だったのである。
陸戦とは勝手が違い過ぎたため、指揮の難易度が跳ね上がった。それに加えて博孝が光弾の射線を確保しようと動くため、上下左右だけでなく前後や斜めにも揺らされている。気持ち悪くはならなかったが、急激に動くため目が回ってしまったのだ。
「けっこうゆっくり飛んだんだけどなぁ。車とかだと、人によっては自分で運転しないと酔うって話を聞くけど……里香、大丈夫か? 地面に下ろしても良いか?」
「も、もう少し待ってぇ……」
ぐったりとした様子で博孝の背中に身を預け、深呼吸をする里香。このまま地面に下りれば、そのまま倒れてしまいそうだ。
「いや、まあ、俺は全然良いんですけどね?」
妙な気分になりそうだけど、と内心で付け足す博孝。しかし、その声を読み取られてしまったのか、沙織が里香を引きはがし、お姫様抱っこで持ち上げた。
「里香、大丈夫? わたしが介抱してあげるわ。とりあえず、部屋に連れて行ってベッドに寝かせれば良いかしら?」
「あ、ありがとう沙織ちゃん。でも、そこまではしなくてもいいから……」
沙織は元気な様子で里香を抱きかかえ、何故か笑顔である。砂原はそんな博孝達の様子を確認すると、顎に手を当てながら苦笑した。
「そろそろ空戦もこなせるかと思ったが、もう少し習熟が必要だな。小隊での連携訓練よりも、まずは分隊での連携訓練から行った方が良いか……それと、河原崎兄と長谷川はともかく、武倉と河原崎妹は自分の得意なES能力ぐらいは発現できるようにしろ。いいな?」
「りょ、了解っす……」
「……りょーかい、きょーかん」
一時間もの間“指導”のために声を張り上げ、動き回っていた砂原はそう締め括る。運動量は博孝達と比べ物にならないはずだが、疲れた様子もない。博孝達に怪我や大きな不調がないことを確認すると、今度は飛行の訓練施設へと視線を向けた。
「さて、次は向こうの自主訓練に顔を出すか。武倉の真似をさせて、強い重力を体験してみるのも良いかもしれんな」
「いや、それは勘弁してやってほしいっすよ……」
『飛行』を発現していないクラスメート達が、自分と同じように逆フリーフォールを体験したらどうなるか。それを想像した恭介は控えめながらも砂原を止める。
「自主訓練を続けても良いが、ほどほどで切り上げろ。『構成力』を消耗しているし、休むことも訓練の一つだぞ?」
砂原は最後にそんな言葉をかけ、博孝達に背を向けて歩き出す。そんな砂原の背中を見送った博孝達は、顔を見合わせて思わず苦笑し合った。
「教官って、どんだけ体力があるんだろうな?」
「疲れた様子もないっすからね……最早同じ人類かも怪しいっす」
「『構成力』の量にも差があり過ぎるわね……もっと『飛行』に慣れないと」
「んーっと……きょーかん、むじんぞう?」
「わたしは空戦での指揮の執り方を勉強してみようかなぁ……」
それぞれが感想を言い合っていると、博孝達のもとへ足音が近づいてくる。その足音に気付いた博孝が視線を向けると、後輩である市原達が歩み寄ってきていた。
「お疲れ様です、先輩方」
市原がそう言うと、二宮と紫藤が手に持っていたスポーツドリンクを差し出す。博孝は苦笑すると、紫藤から差し出されたペットボトルを受け取った。
「自主訓練に来ていたのか? 相手をしてやれなくて悪かったな」
市原達は博孝達の自主訓練に混ざりに来たのだろう。そう思って言葉をかける博孝だが、市原達は苦笑しながら首を横に振った。
「いえ、距離はありましたけど、貴重なものが見れたので……」
「さっきのを見てたのか?」
地上から多少距離があるが、博孝達は全員『防殻』を発現していた。そのため、『構成力』の光で動き方を見ることができたのだろう。
「武倉先輩は、何度も打ち上げ花火みたいになっていましたよね?」
「ぐあっ! あ、あれを見られたのは恥ずかしいっす!」
苦笑を深めながら感想を述べる二宮だが、恭介からすれば恥ずかしさしかない。どんな攻撃方法を取っても、真上へと投げ飛ばされてしまうのだ。砂原としては急激な加速に慣れさせるつもりだったが、後輩に指摘された恭介としてはその場で身悶えてしまう。
「それにしても……」
不意に、砂原が立ち去った方向へと視線を向けながら市原が呟く。その顔は畏怖を含んだ真剣なものへ変わっており、博孝は何事かと首を傾げた。
「先輩方の教官……砂原教官でしたか? 先輩方をあれほど簡単にあしらうなんて、恐ろしいほどの実力をお持ちなんですね。正直、信じられません」
「ああ、うん……それはわたしも思った」
「雰囲気もちょっと怖いよね……」
「どれぐらい強いのか……興味がある」
市原と二宮、三場は砂原に対して恐れを抱いたようである。
以前、四対二でありながら余裕をもって自分達を下した博孝と沙織。そこに恭介やみらい、里香が加わっていたというのに、砂原は一発たりとも有効打を受けなかった。それどころか、逐一指導を行う余裕があったのである。
紫藤だけは砂原の実力に対して興味を抱いており、周囲よりも畏怖の色は薄い。それでも、砂原の実力を測りかねているようだ。
「さすがに空中だと手も足も出なかったな。まあ、地面に足がついていても簡単にあしらわれるけどさ」
数十年もの間『飛行』で空を飛んでいる砂原と、『飛行』を発現して一年未満の博孝達。その差は歴然としており、大きいと言うのもおこがましいほどの差がついているのは当然と言えた。
「何と言いますか……先輩方が強い理由がわかった気がします。あの教官の下で鍛えられたら、嫌でも強くなりそうです」
しみじみと語る市原に、博孝は引きつった笑顔を返すしかない。後輩の砂原に対する印象が妙なものになっていなければいいが、などと思いつつ話題を変えることにした。
「強くなるのは否定しないけどな……それで、今日はどうするんだ? さすがに『構成力』を使いまくったから、模擬戦の相手はしてやれないぞ?」
「そうですか……それは残念ですが、他の先輩方も相手をしてくださいますからね。あれほど飛び回っていたんですから、そこからさらに模擬戦をしてください、とは言えませんよ。今度にでも相手をしていただければ嬉しいです」
博孝の言葉を聞き、市原は苦笑しながら答えた。さすがに疲労を押してまで模擬戦をしてほしいとは言えないのだ。しかし、二宮が何かを思い出したように手を打ち合わせる。
「そういえば遙。アンタ、河原崎先輩に用があったんじゃないの?」
「……うん」
そう言って紫藤に話を振ると、紫藤は小さく頷いた。
「俺に用事? 一体何だ?」
紫藤の用事といえば、自身の父親に関することではないか、と博孝は思う。だが、人目のある場所でその話題を口に出すことはないだろう。わざわざ衆目がある状態で『天治会』に所属する父親の話題を出すとは思えなかった。
それでも博孝が内心で警戒していると、紫藤は言い難そうに視線を逸らす。肩まで伸びた黒髪を指先でいじり、戸惑うようにして視線を逸らした。
「河原崎先輩は、その……」
「ん?」
何か、雰囲気がおかしい。普段の紫藤は物静かで口数も少ないが、それと同時に、思ったことはそのままぶつける性格だ。父親に関すること以外で言いよどむ理由がわからず、博孝は首を傾げた。
そんな紫藤の様子を見ていた周囲の者達も、さすがに不思議に思う。
(も、もしかして……)
ただ、里香だけは“何か”に思い至ったように内心で呟いた。いや、まさか、と考えつつも、紫藤のアクションを待つ。
紫藤はしばらく言いよどんでいたが、やがて意を決したように尋ねた。
「甘いもの、好き?」
「……は? 甘いもの? まあ、好きだけど……」
予期せぬ質問に、博孝は思わず首を傾げてしまう。甘いものは好きだが、何故それを尋ねたのか。
「なら、甘いものと……そう、マフラーとかなら、どっちが好き?」
「んん? マフラー? 一体何の話だ?」
「普段お世話になってるから」
いくつか必要な情報が抜けている気がした博孝だが、紫藤の様子を見る限り、真剣ではあっても切羽詰まった様子はない。父親のことではないのなら、一体何の話題なのか。
不思議に思う博孝とは別に、紫藤の言葉から里香と二宮は事態を察した。
もうじき一月も終わりを告げ、今度は二月がやってくる。だが、二月には里香達女子生徒にとって、大きなイベントがあるのだ。
――そう、博孝達にとっては訓練校二年目にして、二回目のバレンタインデーがやってくるのだ。