第百十八話:残り香
『ES能力者』が発現するES能力は、曖昧な部分が多い。そもそも『ES能力者』自体が既存の法則を無視した存在であり、発現されるES能力もそれに準ずるだろう。
得意分野によって攻撃型や防御型などの分類がされ、ES能力についてもある程度は体系づけられている。独自技能に関しては“才能”としか言いようがないが、砂原のように一時的とはいえ独自技能に分類される技能を開発した者もいた。
――つまりは、発想が鍵なのではないか?
そんな疑問を覚えた里香は、部屋に籠ってノートに様々な文字を書き連ねていた。机の上には売店で売っていた参考書――人体や医療に関するものを置き、ページを捲りながら思考を巡らせる。専門書とまでは呼べないが、売店の一角には様々な分野の本が売られているのだ。
(教官の『収束』は、多分『防殻』の発展系……『構成力』を纏うだけじゃなくて、分厚い鎧みたいに“収束”させている? あるいは何十枚もの『防殻』を同時に発現しているのかも……でも、発現するには大きな『構成力』と緻密な制御能力が必要で……)
自主訓練も行わずに部屋に籠った里香が行っているのは、これまでとは異なる面での模索だった。
第一小隊の中では、自分だけが大きく遅れている。せめて『瞬速』を発現したいところだが、一朝一夕で覚えられるものではない。『瞬速』の訓練は継続して行う必要があるが、里香は戦闘能力とは異なる部分に着目していた。
その切っ掛けは、博孝である。正確に言えば、博孝が負傷したことが切っ掛けだ。
第二指定都市で戦闘を行い、博孝は左腕が千切れるほどの重傷を負った。今では無事につながっているが、その動きは鈍い。完治には一ヶ月ほどかかると聞き、里香は内心で首を傾げたのだ。
三級特殊技能の『修復』を使ってつなげたと聞き、胸に鉛を流し込まれたような感覚を覚えた。五級特殊技能の『療手』までしか使えない身としては、遠い世界の話のようだ。しかし、それと同時に疑問に思ったことがある。
(どうして、博孝君の腕はすぐに治らないの?)
一度千切れた腕がつながり、一ヶ月という短期間で元通りに動くようになるのは大したものだと思う。“普通”の人間ならば年単位で治療を行うか、あるいは義手になるかのどちらかだろう。
それを思えば、一ヶ月で博孝の左腕が元通りになるのは素晴らしいことであり――里香は、その先へと思考を進ませる。
かつての博孝は、初めての任務の際に里香を庇って重傷を負った。その時は右腕だったが、辛うじてつながっていると言える程度に酷いものだったのである。今回は“完全に”腕が千切れていたが、怪我の重篤さではそれほど大差ないはずだ。
それだというのに、今回は完治まで一ヶ月かかるという。『修復』を使ったとは聞いたが、具体的な治療方法は聞いていない。里香自身も知らない“何か”があるのかもしれないが、疑問を抱くには十分だった。
(完全に千切れたら治りにくくて、少しでもつながってたら大丈夫なのかな? でも、“あの時”は博孝君が無意識にでも『活性化』を使ってたし……一度腕が切り離されると、“別物”になる? 『修復』でつないでも“元通り”になるのに時間がかかるのは、“つなぎ方”が悪いから?)
ノートに疑問やそれに対する考えを書きつつ、里香は頭を悩ませる。里香の考えたことは宇喜多の長年の“経験”によって結論付けたことだが、それを里香が知る術はなかった。
支援型の『ES能力者』である里香は、何度も治療系のES能力を使ったことがある。傷口を塞ぐ『接合』に、多少傷口が大きくても治すことが可能な『療手』。支援型の『ES能力者』としては特別優れた技能ではないが、外傷の治療に関しては現代医学よりも優れていると言える。
治療系のES能力を使えれば誰でも治療を施せるが、優劣が存在するとすれば発現できるES能力の種類や『構成力』の大きさだろう。今回の場合、博孝の怪我はどう足掻いても『接合』などの簡単なES能力では治せなかったに違いない。
まるで魔法のように、手をかざして発現すれば怪我を治せる治療系ES能力。怪我の具合に応じて難易度の高いES能力を必要とし、治せるものならば死の淵に沈みかけていても助けることができるだろう。
故に、今の里香が習得するべきなのは『治癒』や『修復』などの高難度の治療系ES能力であり――。
(……本当に?)
シャーペンの動きが止まり、里香は僅かに視線を鋭くする。例えばの話だが、千切れた腕を直接つないでしまうのではなく、血管や神経、筋肉や骨の全てを“一つ一つ”つないだらどうか。骨は難しいかもしれないが、他の部分は『接合』でも可能だろう。
もっとも、それを成し得るには人体に関する知識を深め、“間違った”治療を行わないようにする必要がある。外科手術をES能力で行うことができれば、難易度が高いES能力を使わなくても重傷者を治療できるだろう。
言うならば、ES能力の扱いについて“方向性”を変えるのだ。漫然と治療を行うのではなく、必要最低限にES能力を発現し、消耗する『構成力』を低減し、それでいて怪我を効率的に治す。
博孝が行うように、『射撃』で複数の光弾を同時に発現するような並列的な制御ではない。光弾を複数発現するには、『構成力』を“分割”して同時に操る技量が必要となる。大きな『構成力』があれば力任せに発現することも可能だが、それでは無駄が多い。
一つのES能力を、徹底的に“効率化”する。外科手術で開腹する時も、切れ味が良いからといって日本刀を使わないだろう。医療用メスで十分だ。
それならば、治療を施す際に必要なのは“最小必要限度”の治療手段。ES能力で言えば、小さな切創を治すのに『復元』は使わない。『接合』を使うとしても、傷口“だけ”に治療を施せば良いのではないか。
(でも、今回みたいに緊急性が高い場合は時間をかけられない……博孝君の患部は見てないけど、斬られたんじゃなくて千切れたのなら、傷口も複雑だし……なにより『構成力』の制御力が問題になるから……)
思考する里香だが、理論を先行させても技量がそれに追いつかない。才能ではなく努力で乗り越えられそうな手段にも思えるが、同じことを考えた『ES能力者』は他にもいるだろう。それが一般化していないということは、失敗したか、“逆に”難しくなってしまったかだ。
そうやってしばらく考え込んでいた里香だが、ため息を吐いて立ち上がる。“何か”が掴めそうだが、指の間をするりと抜けていく感覚がした。
時計を見ると日付が変わっており、時刻は午前三時を指していた。授業や訓練のことを考えれば寝るべきだが、それでは“これまで”と変わらない。休むことも大切だが、疲労をそれほど感じていないため、まだまだ動くことができる。
訓練着に着替え、里香は部屋から出た。そして寮の外へと足を向け――その途中で足を止める。里香が足を止めたのは、沙織の部屋の前だった。
「沙織ちゃん、大丈夫かな……」
小さく眉を寄せ、里香は沙織の身を案じる。博孝から“事情”を聞き、なるべく沙織の様子を気にかけるようにしていた。訓練校に帰ってきてからの沙織の様子は、普段とは大きな違いがある。
食事も取るし、話せばきちんと返答する。しかし、時折何かを考え込むように視線を遠くへ向け、これまでは毎日のように行っていた自主訓練に顔を見せなくなった。
里香は敵とはいえ他者を殺めたことがない。支援型の『ES能力者』のため、怪我を負わせることすら稀だ。そんな立場の里香からすれば、沙織が気落ちしたり、精神的に参ったりした場合にできることは限られていた。
支援型の『ES能力者』として、将来的には精神的なケアもできるようになりたいと思っている。だが、今の里香にできるのは沙織のことを気にかけ、少しでも気が晴れるように言葉をかけることだけだ。
「さすがに寝てるよね?」
扉越しに感じる『構成力』は“一ヶ所”から動かず、戦闘中や精神の不調を示すように大きな増減が感じられない。そのため里香は沙織が眠っているのだろうと判断し、グラウンドへと向かう。
女子寮から足を踏み出し、グラウンドまで移動した里香は周囲を見回して首を傾げた。
「……博孝君、部屋に戻ったのかな?」
いつもならば、博孝が自主訓練をしている時間帯だ。そもそも、授業と実技訓練以外はほとんどの場合自主訓練を行っているのが博孝である。時折睡眠を取っているが、それは里香からすれば考えられないほどに短い。おそらくは、それが自分と博孝の“差”なのだろうと里香は思った。
『ES能力者』は“普通”の人間だった頃に比べ、食事と睡眠の必要性が徐々に薄れていく。熟練の『ES能力者』である砂原などは、食事は嗜好品で睡眠は精神的な回復目的に少し取るだけだ。
時間の経過か、技量の向上か。あるいはその両方が原因なのかもしれないが、博孝も『ES能力者』として“成長”をしている。
「うん……頑張ろう」
胸の前で両手を構えて、自分に気合を入れる里香。もしも博孝がいれば教えを乞おうと思ったが、いないのならば仕方がない。男子寮の方に目を向けてみると、全部屋明かりが消えている。それは女子寮も同じであり、第二指定都市での一件もあったため、全員休んでいるのだろう。
里香は『飛行』の訓練施設に移動しつつ、里香はそんなことを思う。今回は大量の鳥型『ES寄生体』と敵性『ES能力者』が同時に襲いかかってきた。情報の規制がされているものの、他のクラスメートも何が起きたかを推測できる。
精神的な疲労を覚えても仕方なく、里香もそれは同様だ。それでも自主訓練に励むのは、様々な意味で“危機感”を覚えているからである。
鉄骨とコンクリートで造られた『飛行』の訓練施設に登りつつ、里香は思考を巡らせた。
自分達――正確に言えば、博孝を取り巻く環境。第七十一期訓練生の第一小隊にて小隊長を務める博孝の立場を客観的に見ると、里香としては多くの懸念を抱かざるを得ない。
数少ない“オリジナル”の『進化の種』に適合した『ES適合者』であり、訓練生でありながら独自技能である『活性化』を発現した博孝。その周囲には“妹”であるみらいや、『武神』の孫娘である沙織がいる。
『ES適合者』の数は少なく、独自技能を発現したとなればその数はさらに少なくなるだろう。その上、人工の『ES能力者』であるみらいの兄となった博孝の立場は、一人の訓練生として片付けるには“重すぎる”。下手をすると、『武神』の孫娘である沙織よりも注目される立場にあると言えた。
そんな博孝達――博孝の隣に立てるように、と考える里香だが、周囲に比べれば技量不足は否めない。自分にできることは、周囲の誰かができるのだ。特に、万能型である博孝は里香が発現できるES能力のほとんどを発現できる。
里香に発現できて博孝に発現できないのは、『療手』ぐらいだろう。もっとも、博孝には『活性化』があるため、『接合』でも『療手』以上の治癒力を発揮することが可能だ。そう考えると、里香は気分が沈むのを感じる。
攻撃も防御も支援もすべてを行うことが可能で、その上、『活性化』による自他の“底上げ”が可能な博孝。
純粋な近接攻撃力なら、博孝どころか並の正規部隊員を超える沙織。
技量は未熟ながら、莫大な『構成力』を持つみらい。
発現できるES能力の種類に関しては里香と同じ状態だが、それでも防御型として第一小隊でも一番の防御力を持つ恭介。
みらいは例外としても、同じ小隊の仲間として過ごしてきたのだ。“同じ”立場だったはずの恭介は、『瞬速』や『飛行』を発現して博孝達との差を徐々に詰めている。
第二指定都市での戦闘において、足手まといどころか同じ戦場に立つこともできなかった自分。文字通り、“ついていけない”ということがこれほどまでに辛いとは思わなかった。
「せめて、『瞬速』ぐらいは……」
そう呟きつつ、里香は登り切った鉄骨の頂上から眼下を見下ろす。地上二十メートル、地下三十メートル、合計五十メートルの落下距離を確保した『飛行』の訓練施設。周囲を見回しても、利用しているのは里香だけだ。
本来ならば、登る時に『盾』を足場にして宙を跳び回ることで『構成力』の制御を学ぶ。しかし、それを行えば一時間と経たずに『構成力』が底をつくだろう。そのため、里香は手足を使ってよじ登ることで『構成力』の消費を押さえ、重力に逆らう感覚だけを掴もうと考えていた。
「……やっぱり、高い……」
五十メートルの高さから見下ろすと、“普通”の人間だった頃の恐怖が甦る。高所恐怖症というわけではないが、生身の人間が落下すれば死ぬだろう。地下に向かって掘られた縦穴が、ぽっかりと口を開けて待っているようにも見える。
里香は自分の頭に浮かんだ恐怖を振り払うと、『防殻』を発現して飛び下りた。五十メートルの高さがあっても、落下時間は五秒にも満たない。その間に重力に逆らう感覚を掴み、“実際に”自分の体を浮かせる必要がある――のだが。
「……もう、地面についちゃった……」
減速した様子もなく、地面に着地する里香。『防殻』を発現しているため怪我はないが、重力に逆らう感覚など掴めない。それでも一度で成功するはずもないと自分に言い聞かせ、里香は鉄骨に登っては飛び降りるという行動を繰り返す。
第七十一期訓練生の中で『飛行』を発現しているのは、博孝に沙織、みらいに恭介だ。『飛行』の前段階である『瞬速』についても、四人以外に習得している者はいない。だが、クラスメートの中には少しずつコツを掴んでいる者もいた。
何度も、何度も飛び下りることを繰り返す里香だが、浮くどころかコツも掴めない。博孝達が『飛行』を身に付け始めた頃から里香も習得に取り組んでいたが、『飛行』はおろか『瞬速』すらも発現できなかった。
“例年”ならば、里香は十分に優秀な訓練生と言えるだろう。支援型の『ES能力者』として、十分にその期の首席を狙える。汎用技能を全て修め、それに加えて五級特殊技能を一つでも使えれば“優秀”と判断されるのだ。その基準で言えば、里香は非常に優秀な部類だろう――例年ならば。
だが、そんなものは何の慰めにもならない。たしかに例年ならば優秀なのだろう。後輩である市原達の話では、第七十二期では未だに汎用技能の習得に手こずっている生徒がいると聞く。
砂原が鍛える第七十一期は、汎用技能を全て修めるのは“最低限”のラインだ。今では五級特殊技能を扱える生徒も増えており、砂原は卒業までに可能な限りのことを教えて込もうとしている。
体術に知識にES能力。それらを生徒個々人の限界を見極めつつ、無駄なく効率的に習得させている。このままいけば、第七十一期はそれなりに長い訓練校の歴史の中でも最高の練度を誇る期になるだろう。
そこまで考えた里香は、地面に着地すると同時に思考を打ち切る。無駄な思考をしている余裕はないのだ。少しでもコツを掴まなければならない。少しでも、博孝達に追いつかなければ――離されないようにしなければならない。
それでも、湧いて出るように考え事が、悩みが浮かんできてしまうのは何故なのか。明確に意識した博孝達との“差”が、そうさせるのか。一人で考えていると、際限なく落ち込みそうである。それを意識した里香は、無心になって『飛行』の訓練を繰り返す。
そうやってどれだけの時間が過ぎたのか、気がつけば日が昇っていた。時間を確認すると、朝食の時間である。里香は集中しすぎたこととコツが掴めない自分にため息を吐きつつ、自室へと向かう。
着替えなければならないし、その前にシャワーで汗を流す必要もある。冬の季節は汗が出にくいが、さすがに何時間も自主訓練に励んだ後では汗を掻く。そのままで人前に出ることは、里香には出来そうにない。
(こうなったら、博孝君に頼んで『活性化』を使ってもらおうかな……)
部屋に戻ることを考えつつ、それと同時にそんなことも考えた。博孝の『活性化』ならば、一時的な能力の底上げだけでなく、コツを掴むのにも向いている。劣等感に近い負い目もあり、本当は周囲に知られることなく習得したいが、そんな“贅沢”を口にする余裕はない。
ES能力に関する“検証”は独自に行うとしても、習得については手を借りられるなら借りるべきだ。そう考えた里香はあとで博孝に相談しようと考え――不意に『構成力』の発動を感じ取る。
自分の訓練に夢中で気付かなかったが、朝から自主訓練を行っている者がいたのか。可能性があるとすれば博孝か沙織か。そう考えた里香は何気なく『構成力』を感じ取った方向へ視線を向ける。
「……え?」
視線を向けた先――女子寮の一角、そのベランダから、“誰か”が飛び出て屋根へと姿を消した。その動きは素早く、『瞬速』を発現しているとしか思えない速度である。空中に『盾』を発現して足場にしているが、その姿は“慣れている”ようにしか見えないほどスムーズだ。『盾』も『瞬速』も瞬間的に発現しただけであり、支援型で探知能力が高い里香でなければ気付かなかっただろう。
(泥棒? まさか……暗殺者とか!?)
慌てた里香だが、部屋の位置から考えると“不審者”が出てきたのは沙織の部屋である。『探知』で『構成力』を探ってみると、部屋の中には沙織のものと思わしき『構成力』が存在していた。これから朝食に向かうらしく、廊下へと移動している。
沙織が無事な以上、少なくとも暗殺などの物騒な要件ではないようだ。沙織が部屋にいた以上、泥棒なども無理だろう。そうなると、“わざわざ”ベランダから人が飛び出す理由が思いつかない。
(泥棒でも暗殺でもない……そうなると、の、覗きとか?)
“何者”かが女子寮のベランダに侵入し、“不埒な行い”をした後に脱出した。そう考えれば辻褄が合うのではないか。しかし、わざわざ訓練校の外から侵入して“そんなこと”を行うとも考えられない。
つまりは、内部の犯行である。そして、『瞬速』と『盾』を発現することが可能で、沙織に気取られることなく実行できる人物。技量的に可能な男の訓練生を、里香は二人しか知らない。しかも、『沙織に気取られない』という条件で実現の可能性を考えれば実質一人だろう。
そこまで考えた里香だが、その間に“犯人”が男子寮の屋根から飛び降りていた。その姿を遠目に確認した里香は、思わず呟く。
「あれって……博孝、君?」
男子寮の屋根から飛び降りたのは、博孝だった。それも、何故か周囲を警戒しているような素振りをしている。
――まさか、本当に覗きをしていたのか?
そんな疑念が浮かび、それはないと里香は頭を振った。博孝はそんな性格ではなく、もしも性欲を持て余したのだとしても、正面から突撃しそうだ。
(……うん。博孝君はそんなことしないよっ!)
ぷるぷると頭を振り、自分に言い聞かせる里香。そうなると、博孝は覗きではなく、純粋に沙織の部屋から“出てきた”ことになる。しかし、そうなると新たな疑問が浮かんでしまう。
何故朝方に、沙織の部屋から、まるで隠れるように、逃げるように出てくるのか。それも、ベランダからである。
時間が時間だけに、女子生徒に気付かれないようベランダから出たのか。それとも何か理由があるのか。もしもこの時間帯に女子寮の廊下を出歩けば、確実に誰かに見つかるだろう。寮の玄関から入るならともかく、誰かの部屋から出てくれば即座に噂となって広がる。下手をすれば、その場で女子生徒達に取り囲まれるだろう。
(でも、何があったら沙織ちゃんの部屋から出てくるんだろう?)
男子寮へと姿を消した博孝の後姿を見送り、里香は自室へと向かいながら自問する。博孝の性格や行動を脳裏に思い浮かべ、次いで、“何があれば”朝方に沙織の部屋から出てくることになるのかを想像した。
(もしかして、博孝君と沙織ちゃんが……)
一瞬、“嫌な予感”が脳裏を過ぎる。心臓が締め付けられるように痛み、寒くもないのに体が震えた。勝手に足がふらつき、その場に倒れそうになる。
「……里香? どうしたの? 顔色が悪いわ」
そんな里香の様子を見咎めたのは、沙織だった。丁度これから朝食に向かうのか、制服に着替えた沙織から声をかけられたのだ。
「あ……さ、沙織ちゃん……」
声に反応し、里香は顔を上げて沙織の顔を見て――妙な違和感を覚えた。
昨日まではどこか暗い、陰りのあった表情。それがまるで憑き物が落ちたように清々しいものへ変わっており、凛とした気配を振り撒いていた。それでいて、同性の里香が見てもハッとするような、可憐な空気が漂っている。
元々沙織に対しては美人だと思っていた里香だが、それに“可愛らしさ”が混じっていた。凛としつつも肩の力が抜け、ふにゃりとした柔らかい雰囲気を纏っている。
「沙織……ちゃん?」
思わず、里香は沙織の顔を凝視していた。もしも『双子の妹です』などと言われれば、そのまま信じてしまいそうである。それほどまでに、里香が知る沙織とは異なっていた。
「わたしの顔に何かついてる?」
反対に、里香に凝視された沙織は不思議そうな顔をしながら自分の顔を撫でた。そんな仕草の一つ一つがこれまでとは変わって見えて、里香は違和感を覚えてしまう。
「……ううん。その、いつもと雰囲気が違うなって……」
「そう? 自分ではよくわからないのだけれど」
里香の言葉を聞いた沙織は自分の体を見下ろし、首を傾げた。何かおかしいのだろうか、と不思議そうにしている。
「昨日までとは、全然違う感じがするんだけど……機嫌が良いような……」
自分の感じたことを口にする里香だが、その言葉を聞いた沙織は合点がいったように頷く。なるほどと、思い当たる節があると、里香の疑問を肯定するように。
「大きな心配事がなくなったの。多分、そのおかげね」
そう言って微笑む沙織。その微笑みはどこまでも自然体であり、里香は“何故か”一歩後ろへ下がってしまった。
「そう……そう、なんだ。もう大丈夫なの?」
「ええ。“里香にも”心配をかけたわね。でも、もう大丈夫よ。そうだ、みらい達にも大丈夫だって伝えないとね」
里香の心配が嬉しいのか、沙織は微笑んだままで小首を傾げる。僅かに朱に染まった頬が、さらりと揺れる黒髪が、どこか艶やかだ。そんな印象を受けた里香は、沙織の発言に疑問を覚えた。
(わたし“にも”……そして、みらいちゃん達にも大丈夫だって伝える……つまり、“他にも”心配した人がいて……)
そこまで考え、先程の博孝の姿が脳裏に甦る。自然と唇が震え、里香は無意識の内にその“疑問”を口にした。
「……博孝君が相談に乗ってくれたとか?」
直截に、真正面から尋ねる。普段の里香ならば尋ねることはしなかっただろうが、この時ばかりは違った。そのまま聞き流すことは、尋ねずにいることはできなかったのだ。そんな里香の様子を気に留めることもなく、沙織は頷く。
「ええ。“今回の件”について、博孝に謝ることができたの。抱えていたものを吐き出すことができて、それを許してくれて……機嫌が良く見えるのなら、きっとそのおかげね」
そう答えた沙織の表情は、よりいっそう華やいで見えた。沙織にとっては特に隠すことでもないのだろう。博孝のおかげだと、誇るように微笑む。
沙織が気落ちしていた理由は、博孝から説明を受けた。かつての博孝のように、初めて敵を手に掛けたことで精神的なショックを受けているのだと。そう説明を受けたが、沙織が口にしたのは『博孝への謝罪が済んだ』という言葉だった。
博孝と沙織の間でどんなやり取りがあったのか、里香にはわからない。それでも、ただ謝るだけで沙織がここまで変化するだろうか。そう思うと同時に、博孝が隠れるようにして沙織の部屋から“脱出”していた理由を無意識のうちに思考する。
博孝の性格を考えれば、沙織の様子を確認することは不思議ではない。博孝はよく“騒ぐ”が、それは周囲のことを慮っての場合が多い。周囲に気を配る性格だということは里香も知っており、意気消沈した沙織を博孝が訪ねてもおかしくはないだろう。
先程博孝がベランダから出てきたのも、理由は推察できる。沙織を元気づけたのは良いが、気付けば時間が過ぎており、周囲に誤解されないようにベランダから出て行ったのだ。
堂々と玄関から出なかったのは誤解を避けたいと、“勘違い”されるのが嫌だという博孝の意思表示か。そう考える里香だが、懸念がなくなったからといって沙織が短時間でここまで変わるとは思えない。
沙織が余程思い詰めていたのか、それとも“何か”があったのか。即座にそこまで考えた里香だが、“強制的に”思考を打ち切る。考え過ぎるのは、“悪い方向”に考えてしまうのは自分の悪い癖だ。そう戒め、今は沙織が立ち直ったことを素直に喜ぶ。
「そうなんだ……本当に大丈夫? 無理はしてない?」
「本当に大丈夫よ。無理をしていることを隠しても、博孝や里香には気づかれるもの。それなら隠しても仕方がないわ」
「そっか……うん、良かった」
沙織の顔をじっと見つめる里香だが、言葉通り無理をしているようには見えない。博孝の時のように、不調を隠しているようにも見えなかった。
「里香は自主訓練の帰りよね? 早く着替えてこないと、朝食に遅れるわよ……と、引き留めたわたしが言う台詞じゃないわね」
「うん、わかってるから大丈夫だよ。それじゃあ着替えてくるから、先に食堂に行ってて」
沙織が立ち直ったのなら、それで良い。沙織は里香にとって大切な仲間であり、友人だ。落ち込んでいるよりも、今のように笑顔を見せる方が遥かに良いだろう。
そう自分に言い聞かせ、里香は沙織と別れて自室へと向かおうとする。食堂へ向かう沙織とすれ違い、自室へ足を向け――。
「――え?」
思わず足を止め、振り返った。しかし、沙織はそんな里香に気付かなかったのか、玄関から外へと出て行く。
すれ違った際に覚えた、僅かな違和感。それは視覚的なものではなく、嗅覚的なものだった。
(今のって……博孝君の匂い?)
薄っすらと匂ったのは、沙織とは別人の匂い。それが里香の良く知る、想いを寄せる人物に似ている気がした。気のせいだと思えば、そうだと思えるほどに薄い匂いだったが。
「気のせい……だよね?」
確認するように、自分に言い聞かせるように呟く。もしも気のせいでないとしても、直前まで博孝が一緒にいたのならばおかしなことではない――かも、しれない。
言いようのない感覚が心臓を高鳴らせ、里香は自分の胸に手を当てる。それでも頭を振ると、もう一度だけ気のせいだと内心で呟き、里香は自室へと向かうのだった。