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第百十七話:あなたを守りたい

 長谷川沙織という少女に対する博孝の印象は、一言では言い表せない程度には複雑である。良くも悪くも印象が強く、博孝としては入校以来様々な面で手を焼かされたこともあった。

 訓練校に入校してすぐの頃は、周囲からの干渉を拒絶するような態度を取っていた。『武神』とあだ名される源次郎の孫として、将来は『零戦』に所属して祖父の役に立とうと必死に努力をしていたのだ。

 訓練生としては破格の才能を持ち、それに見合う努力を行い、第七十一期訓練生の中でも並び立つ者がいないほどに実力を伸ばす。入校して短期間で四級特殊技能である『武器化』を発現できたのは、それなりに長い訓練校の歴史の中でも沙織が初めてだろう。

 そんな沙織とは対照的に、『構成力』の感知すらできずに落ちこぼれ扱いされていたのが博孝である。今でこそ第七十一期訓練生の中でもトップクラスの実力を身に付けたが、最初は色々な意味で上手くいかなかった。

 沙織とは共に自主訓練を行い、共に死線を潜り、共に切磋琢磨してきた仲である。しかし、それもここ一年程度の出来事だ。

 博孝本人も忘れそうになるが、入校からしばらく、沙織は一匹狼のような存在だった。それも非常に厄介な方面で、である。

 周囲に気を配らず、任務では小隊長である博孝の命令を無視し、挙句の果てには博孝に戦いを挑んで重傷を負わせた。傷を負うこと自体は博孝が意図したことではあるが、以前の沙織は“目標”に向かって一直線な、それ以外に目を向けない性格だったのである。

 和解し、打ち解けた後は、それまでとは異なる意味で博孝の手を焼かせたが、良い変化だっただろう。突飛な行動や発言をして博孝に様々な精神的被害が生じたが、それは全て笑い話で済む。

 “仲間”と共に、博孝と共に強くなると誓ったのは大きな変化だ。源次郎への執着を断ち切るように、源次郎からもらったリボンを解きもした。その代わりに博孝からもらったリボンで髪を留めたのは、沙織なりの決意の表れか。

 表情も柔らかくなり、人当たりも良くなっている。以前は仏頂面だったが、今では笑顔を見せることも珍しくない。それこそが“本来”の姿なのだと博孝が思うほどには、沙織も自然体になっていた。

 第一小隊やみらいのことを仲間として大切にし、クラスメートのことも邪険にはしなくなっている。里香に対する態度が少しばかり謎だったが、沙織なりの友情表現なのだろう。時折常識や羞恥心をどこかに置き忘れたような行動や発言をするが、博孝としては最終的に笑って済ませることができる。

 友人、親友、戦友、仲間。沙織との間柄を形容する言葉はいくつも浮かぶ博孝だが、総じて大切な存在だと言えるだろう。戦闘という一分野においては、第七十一期訓練生の中で最も頼りになる存在。



 ――そんな沙織が、膝を抱えて座り込んでいる。



「……沙織?」


 戸惑いながらも、博孝は沙織に再度声をかけた。部屋の電気はついておらず、部屋の中を照らすのは月明かりのみ。膝を抱え、テーブルの上に鞘に納まった『無銘』を置き、茫洋とした視線を向けている。

 沙織の雰囲気に僅かに気圧された博孝だが、すぐに意識を引き締め、無理矢理口の端を吊り上げた。


「起きているのなら電気と暖房ぐらいは点けとけよ。目を悪くするし、風邪を引くぞ……って、『ES能力者』ならその辺は心配ないか」


 会話の切っ掛けとして、軽口を叩く。いつからそうしていたのか、沙織は制服から着替えてすらいない。暖房も動いておらず、部屋の中は吐く息が白く染まるほどに冷え込んでいる。『ES能力者』である博孝もそれほど寒さを感じなかったが、沙織の態度と相まって薄ら寒いものを感じた。


「たしかにそうね……でも、こっちの方が落ち着くのよ」

「そっか……」


 博孝に視線も向けず、沙織は呟くように答える。博孝は相槌を打つことしかできず、話題を求めるように視線を彷徨わせた。

 他人の部屋を観察するのは失礼だが、沙織の部屋は驚くほどに物がない。元々用意されていた家具が置かれているだけで、私物の類はほとんど見当たらなかった。みらいが出て行った博孝の部屋も似たようなものだが、沙織の部屋に比べればまだ雑多としている。

 少しの間悩んだ博孝だが、沙織の右側へ並ぶようにして床に腰を下ろす。“普段”ならば視線の一つも向ける沙織に反応はなく、博孝は困ったように頭を掻いた。


「あー……体調は大丈夫か?」

「ええ。ご飯もしっかりと食べているし、体調に問題はないわ」


 尋ねれば、返答はある。しかし、それはどこか淡々とした声であり、博孝としては会話を続けるのも戸惑われるほどだ。

 言葉をなくした博孝は沙織の横顔を眺めるが、沙織の顔に不調の色はない。月明かりに黒髪が透けて見え、どこか儚く見える程度だ。ハリドを殺した後のことを思い返した博孝は、当時の自分と比べて沙織が非常に落ち着いているように見えた。

 考え事をしていて眠れないと言うが、食事を取れている以上は以前の博孝よりもマシだろう。自分がここにいるのは邪魔なだけかもしれないと博孝は思うが、沙織は自分が不調に陥った際にあれこれと世話を焼いてくれた。体調が戻るまでは里香と共に毎日のように料理を作り、何かと気にかけてくれたのだ。

 このまま沙織を放置するという選択肢は、博孝にはない。


「……何を悩んでいるんだ?」


 故に、博孝は真正面から踏み込む。考え事をしていると沙織は言うが、それが平穏で真っ当なものとは思えない。小隊員の管理は小隊長の仕事だが、そんな建前は関係なしに、少しでも沙織の力になりたいというのが博孝の本音だった。

 尋ねた博孝に対し、沙織は何も答えない。だが、これまで『無銘』に固定していた視線を外し、博孝へと振り返る――正確には、博孝の左腕へと視線を向ける。


「色々と、ね」

「そうか……色々か」


 益体もない言葉を交わし合う。沙織は博孝の左腕を見て、博孝はそんな沙織を見る。どれだけの時間をそうしていたのか、沙織は恐る恐るといった様子で博孝の左腕に右手を伸ばした。そして服越しに博孝の左腕に触れ、どこか悲しそうな様子で眉を寄せる。


「本当に、つながっているのよね?」

「ああ。ちゃんとつないでもらったよ。少しばかり不便だが、なに、すぐに元通りになるさ」


 大丈夫だと、気にするなと、博孝は沙織に触れられた左腕を動かす。沙織は博孝の意思通りに動く――ゆっくりと動く左腕をじっと見つめ、僅かに顔を伏せた。博孝の腕に触れていた右手を床に落とし、拳を握り締める。


「ねえ、博孝。少し……少しだけ、お願いを聞いてもらっても良いかしら?」

「ん? お願い? 一体なんだよ。俺にできることなら何でもするぞ?」


 沙織の口から出た『お願い』という言葉に、博孝は頷く。沙織が畏まってそんなことを言うのは珍しく、また、今の沙織の状態を鑑みれば博孝としても断ることはできない。


「……手を、握ってくれる?」


 か細く、小さなその声は、震えていた。それまでの無感動さが嘘のように、沙織の心の内を表すように、震えていたのだ。

 顔を伏せた沙織の表情は、博孝からは窺えない。しかし、その震えた声を聞く限り、間違っても笑顔ではないだろう。無表情ということも有り得ない。泣いているのか、涙を堪えるように唇を引き結んでいるのか、苦しむように顔を歪めているのか。


「……ああ。これで良いか?」


 博孝は敢えて左手を伸ばし、握り締められた沙織の右手に重ねる。そして沙織の感情を少しでも解すように拳を緩ませ、しっかりと右手を握った。

 本当に、いつから一人で座り込んでいたのか。手はとても冷たく、それが沙織の心情を表しているようにも感じられる。それでも少しずつ、ゆっくりと、重ねた手が温かくなっていく。


「……ありがとう」


 手から伝わる温もりに、沙織は安心したように呟く。そして、博孝が何かを言うよりも先にその身を博孝へと傾けた。肩と肩が触れ合い、博孝は沙織の重みで崩れそうになったバランスを整える。

 博孝と沙織は十センチ近い身長差があり、腰を下ろしてもそれはほとんど変わらない。沙織はその身長差を気にせず、そのまま博孝の肩に自身の頭を乗せて安堵するような声を吐き出した。


「……温かい。落ち着くわ」

「お、おう……そ、そうか。自主練したばっかりだから汗臭くないか?」


 沙織の行動に対し、博孝は着替えてくれば良かったか、と内心で焦る。しかし、沙織は気にしない様子で小さく首を横に振った。


「そう? わたしは気にならないわ。博孝の匂い、わたしは好きよ」

「そ、そうですか……」


 博孝の声色に動揺の色が混じったが、それも仕方ないだろう。常日頃の凛とした様子とは異なり、沙織からは雨に打たれて震える子犬のようなか弱さが伝わってくる。思わず身を固くした博孝に構わず、もたれかかるようにして力を抜いた沙織は小さく息を吐いた。


「覚悟は……していたつもりだったのよ」


 ぽつりと、白い呼気と共に沙織が呟く。博孝はそんな沙織の言葉に何も答えず、話を促すように握った手に少しだけ力を入れた。

 沙織も博孝が逐一反応することを望んでいないのだろう。ゆっくりと、自分の考えや感情を整理するように、静かに言葉を紡いでいく。


「博孝も知っているだろうし、何度も迷惑をかけたけれど……わたしは、お爺様の役に立てる『ES能力者』になろうと努力していたわ。その過程で、敵を殺めることもある。そう思っていたし、それに備えて心の準備をしていた……つもりだったの」


 つもりだった。そう呟く沙織に、博孝は静かに尋ねる。


「……後悔しているのか?」


 今回沙織が敵を殺めたのは、自分の責任ではないかと博孝は眉を寄せた。敵の自爆を防いだ後に気を抜かなければ、いや、その前に全力で敵の独自技能保持者を倒していれば。そう考え、それは自惚れかと博孝は内心で苦笑する。

 それができれば苦労はなく、博孝はそれを成し得るだけの技量を持っていない。全ての危難を独力で退けられるほど、河原崎博孝という人間は強くなかった。

 “できる”人間が何もしないのは怠慢だが、博孝は出来る限りのことをした。できないことの全てにまで責任を感じるのは、怠慢ではなく傲慢と呼ばれるだろう。

 博孝の心情の動きを読み取ったのか、それとも僅かな雰囲気の変化に気付いたのか、沙織は困ったように口元を歪める。


「後悔……後悔、か。そうね、この感情を後悔だというのなら、そうなのかもしれない。自爆しようとする敵を前にして、わたしは動けなかった。あのまま敵が自爆をしていれば、『ES能力者』であるわたし達は無事でも街や民間人に大きな被害が出たわ」


 沙織の声が、震えを帯びる。もしも博孝が敵との交戦を中断して救援に駆け付けなければ、どうなっていたか。『ES能力者』三人による自爆となれば、第二指定都市は甚大な被害を被ったに違いない。

 訓練生だからと、未熟だからと、言い訳はできる。正規部隊員でも敵性の『ES能力者』と交戦した者の数は少ない。ましてや、『ES寄生体』ではなく自分と同じ人間――『ES能力者』を殺めたことのある者はどれほどいるか。

 『ES能力者』同士がぶつかり合った『ES世界大戦』以降、『ES能力者』による大規模な衝突は起きていないのだ。戦時ではなく平時と呼べるこの時代に、多くの人命や財産を守るために訓練生が敵の命を奪うという状況自体が稀有なものだと言える。

 沙織が躊躇したとしても責められるものではなく、出遅れたとはいえ独自技能保持者を仕留めたことで十分に称賛に値するだろう。

 だが、沙織は自分が許せない。被害が少なくて済んだのは結果論であり、一歩間違えば大惨事だった。そして、沙織にとって許せないのは自分自身の躊躇だけではない。

 初めて敵を殺めたことは、確かに心の内に影を落としている。敵を斬った感触も、手の中に残っている。それは慣れることこそあれど、忘れることはできないだろう。


「敵を斬ったことに対しては、色々と思うことがあるわ。でも、わたしが“あの時”動けたのは、わたしが後悔しているのは……」


 沙織はそこまで言うと、博孝から体を離す。そして姿勢を変えて博孝を真正面から見据え、唇同士が触れ合いそうな距離まで体を寄せて博孝の瞳を見る。ほんの数センチしか離れていない距離で沙織から見つめられた博孝は、様々な意味で驚きの感情を覚えた。

 一つは、いくら沙織といえどここまで無防備に接近してきたこと。

 一つは、沙織の声色に大きな不安や怯えの色があったこと。

 そして最後の一つは、沙織の体が震えていたことだ。

 何かを恐れるように、何かに怯えるように。沙織は震える体と声、感情を抑えつけながら、口を開く。


「わたしの躊躇が――あなたを傷つけたことよ」


 それは詫びるような、懺悔するような声だった。悔恨から逸らしそうになる目を博孝に向け、沙織は言葉を紡ぐ。


「敵を殺めたことは、思っていたよりも“重い”ことだったわ。でも、それ以上に、わたしが躊躇ったことで博孝を危地に追い込んだ……それが悔しくて、博孝が死んでいたかもしれないって思うだけで怖くて、申し訳なくて……」


 かつて沙織は、砂原から『無能な部下は上官もろとも他の隊員をも殺す』と言われたことがある。初めての任務で博孝の命令を無視した時に言われたことだが、沙織の頭の中にはこの言葉が反響するように何度も繰り返された。

 今回は、博孝の命令を無視してなどいない。むしろ忠実に命令を守り、防衛部隊に連絡を取り、自分達は敵の足止めを目的として戦った。戦力は優越しており、相手が自爆という手段を取らなければ何時間でも拘束できただろう。

 その点においては、沙織は責められるべきことなど何もない。訓練生に敵の『ES能力者』を仕留めろということ自体が無理な注文であり、“本来”はもっと場数を踏んでから経験すべきことだ。

 襲ってきた敵とはいえ、同じ『ES能力者』、同じ人間を手に掛けることを忌避する感情は正常のものだろう。逡巡し、戸惑い、苦悩するのは当然の帰結と言える。

 しかし、それでも沙織は自分が許せない。

 自分の戸惑いが、躊躇が、博孝を死の淵に追いやったのだ。

 治療の結果、博孝は左腕を除いて完治している。だが、もしも治療が間に合っていなかったら、もしも敵の攻撃を受けた時点で即死していたら、もしも治らないほどの重傷を負っていたら。

 『ES能力者』は普通の人間に比べれば頑強で、怪我も治りやすい。外見の加齢も遅い。だが、不死身ではない。

 そのことを沙織は知っていた――はずだった。それが自身の手で敵を殺めたことでより鮮明なものとなり、様々な感情を抱かせる。


「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」


 思い返してみれば、今回に限らず“過去”の自分はなんという恐ろしいことをしていたのか。かつて自分の手で博孝を斬ったことがあったが、今思うと、過去に戻って当時の自分を斬り殺したくなるほど愚かしい。当時は、立ち直った後に“二度目”があるなどとは思いもしなかったのだ。

 繰り返して謝罪をする沙織だが、今度は決して俯かなかった。切々と、罪を悔いる罪人のように謝罪の言葉を繰り返す。

 そんな沙織の言葉を聞いた博孝は、驚きから言葉を失っていた。

 ここ最近の沙織の様子を見た博孝は、てっきり敵を殺めたことに対するショックが原因で落ち込んでいるのだと思っていた。無論、それが皆無とは言わないが、まさか博孝自身に対する申し訳なさをそれ以上に感じていたとは思いもしなかったのだ。

 昔の沙織ならばいざ知らず、現在の沙織ならば不思議ではないのかもしれない。しかし、その答えに博孝が、教官である砂原でさえも思い至らなかったのは、“元々”の沙織を知っていたからだろう。


「そっか……」


 沙織の話を聞いた博孝は、得心したような声を吐き出す。沙織はそんな博孝の声にビクリと体を震わせるが、博孝から視線を外すことはなかった。

 博孝は沙織の予想通りに怒りを露わにする――などということはない。むしろ、嬉しさを覚える。博孝は沙織の顔を真正面から見つめ、小さく笑った。


「なんというか、沙織には悪いけど……俺は嬉しいよ。それと、すまん。俺が最初の敵を倒していれば、沙織にそんなことを思わせることも、謝らせることもなかったんだよな」


 悔やむとすれば、その点だろう。博孝は口元を引き締め、真剣に、力強い眼差しで沙織を見つめる。

 自分と同じように、初めて敵を殺めた時のように、悩んでいるのではないか。そこで思考を止めてしまった自分が、なんとも情けない。沙織が自分と同じだと思うのならば、それ以外の部分に注意すべきだった。

 博孝がハリドとの戦いに里香や市原を巻き込んで負傷させたことを悔んだように、沙織もまた、自分のことよりも博孝の負傷を悔んだ。

 それが申し訳なく、同時に嬉しく、博孝は沙織の目の端に溜まった涙を指で拭いながら笑いかける。


「ごめんな、沙織。それと、そんなに心配してくれてありがとうな。言葉で表せないぐらい嬉しく思うよ」


 博孝の謝罪と感謝の言葉に、沙織は涙で濡れた瞳を丸く見開く。唇が更なる震えを帯び、今度こそ沙織は俯いてしまう。正面から向き合った博孝に頭を寄せ、震えながら言う。


「謝らないで……謝らないでよ! わたしは……わたしがっ、あの時躊躇わなければ!」

「馬鹿言うな。それを言ったら、俺だってそっちに駆け付ける前に敵を倒し切れれば良かったんだ。それなのに気を抜いて殴られて気絶して、挙句に沙織に尻拭いさせちまった。沙織が悪かったって謝るのなら、俺も悪かったって謝る」


 俯いた沙織の言葉を、博孝は否定する。沙織は、自分が躊躇したせいで博孝が重傷を負ったと言う。それならば、博孝が言うことは決まっていた。


「すまなかった、沙織。お前に敵を殺させたことも、そこまで悩ませたことも……すぐに気付かなくて、ごめんな」

「っ!」


 そこが沙織の限界だった。博孝の胸板に自分の頭を押し付け、破れそうなほどに強く服を握り込む。そして俯いた顔から、静かに涙が零れ落ちていく。


「馬鹿……博孝は馬鹿よ……わたしも馬鹿だけど、博孝はそれ以上の馬鹿だわ」

「あー……あんまり馬鹿だ馬鹿だと言わんでくれ……地味に凹む」


 沙織の様子に注意を払っていたはずが、何を悩んでいるのかに気付くことができなかった。砂原が事後処理に当たっている以上、小隊長である自分がしっかりとしなければならないというのに。沙織に馬鹿と言われても、否定ができない。

 そう思った博孝は、嗚咽を漏らす沙織の背中を優しく叩く。


「俺のことでそこまで考え込んでくれたのは嬉しいけど……体調は大丈夫か? 食事は取っていたけど、隠れて“戻して”たりしてないか? って、女の子に聞くことじゃねえな」


 自分の体験を思い出し、今ならば正直に話すだろうと判断して尋ねる博孝。冗談混じりの言葉だったが、沙織はそれを否定する。


「大丈夫、よ……以前の博孝みたいに、酷い状態じゃないわ」

「それはそれで、俺が精神的に弱いみたいに聞こえるなぁ……でも、それなら良かった。睡眠は?」

「あんまり……」


 食事はともかく、睡眠はそれほど取れていない。そう白状する沙織だが、涙を拭って顔を上げ、泣き笑いのような表情を浮かべた。


「でも……今日からはきちんと眠れる気がするわ」

「そうか……それは良かった」


 博孝に対する自責の念が、眠ることを妨げていたのだろう。それだけで済んでいたのなら、博孝が言葉にした通り、博孝よりも精神的に強かったのか。

 博孝が怒っていない、むしろ申し訳ないと思っていたことがわかり、沙織は強い安堵の感情を覚え――その感情が何なのかと、僅かに首を傾げる。

 大切な“仲間”との確執など、今の沙織には辛いだけだ。しかし、互いに負い目を感じていたことがわかり、それを謝罪し合った沙織の心情は、徐々に軽くなりつつある。

 敵を殺めたことに対する心苦しさはあれど、博孝に対する苦悶は解消できる。それが沙織の心を軽くし、沙織自身にも予期せぬ行動を取らせた。


「ねえ、博孝……一つだけわがままを言っても良い?」

「なんだよ、ここまで来て遠慮すんな。よっぽどのことじゃない限り、聞いてやるさ」


 口から出てくる言葉は、沙織も深く考えた言葉ではない。衝動任せの、一つの願い、一つの言葉。


「少しの間で良いから……」


 同じように、特に意識することなく請け負おうとする博孝。そんな博孝に対し、沙織は涙で濡れた瞳で見つめ。


「――わたしを抱き締めて」


 願いを口にした。


 その願いは、自分の心の赴くままに自然と紡いだ言葉だ。時間が経てば、何故望んだかを説明できないかもしれない。それでも今、沙織が心の底から望んだことだった。

 沙織の願いの言葉を聞いた博孝は、思わず何度も瞬きをする。聞き違いか、それとも言い間違いか。咄嗟にそんな疑問が浮かぶほど、衝撃的な発言だった。

 錆び付いた機械のように動きを止めた博孝に対し、沙織は自分の言葉を脳内で反芻する。抱き締めてほしいと願った自分の心情が理解できず、しかし、“何故か”顔が熱くなっていく。まるで風邪を引いて熱が出たようだと心の片隅で思いつつ、どうしてか、博孝の顔を直視できなくなって再度俯いてしまう。


「博孝は怒っていない。むしろ、わたしと同じことを考えていた……そう思えば、これまでの悩みもなくなる……でも、何故かしら? 博孝の怪我は治った、博孝は生きている……そう思っても、“怖い”の。博孝が生きているのに、どうしようもなく不安になるのよ」


 言い訳のように言葉が零れ落ちるが、それも沙織の本心だ。左腕が完治していないが、博孝は元気になっている。死んでなどいない。それだというのに、不安に思ってしまう。

 沙織は博孝に対する懸念がなくなったことで安堵したが、それでも心が落ち着いていないのだろう。敵を、人を殺めたことは、即座に切り替えられることではない。それができるのは、ハリドのように殺人に快楽を見出す者だけだろう。

 博孝とて、“二度目”とはいえ心がざわついているのを感じていた。“一度目”とは異なり食事も取れる、睡眠も取れる。だが、思うところはあるのだ。

 沙織の心情、その恐怖は、博孝にも理解できる。足が地につかないような、落ち着かない感覚。死線に“潜りっぱなし”になり、生と死の境目を見失うのだ。

 沙織の身にも、似たようなことが起きているのだろう。博孝は、“不思議と”踏みとどまることができた。それは里香に対する自責の念がそうさせたのか、砂原の叱咤によるものか、はたまた意思の強さか。

 そう考えた博孝は、これも一つのケアだと自分に言い聞かせ、俯く沙織へ手を伸ばす。


「少しの間で良いのか?」

「……はい」


 小さく頷く沙織は、どこかしおらしい。窓から差し込む月明かりに照らされ、沙織の黒髪が淡く透けて見えた。首筋から頬にかけて淡く朱色に染まっているのは、目の錯覚か。


「……わかった」


 頷き、伸ばした右手を沙織の背中に回し、そのまま抱き寄せる。左手が思い通りに動かないことが、どこかもどかしい。博孝は右手だけで抱き寄せた後、ゆっくりと左手を持ち上げて両手で沙織を抱き締め、深呼吸をする。


「ええっと……これで良いか?」

「うん……」


 抱き締めているため沙織の表情は窺えないが、小さな返事に込められた感情は、これまでにないほど気が抜けていた。まるで両親に抱き締められた幼子のように、警戒心も何もかもが抜けている。

 服越しにゆっくりと、少しずつ伝わる互いの体温。同時に、抱き合った部分から心臓の鼓動の音が聞こえ始める。博孝も沙織も、平常よりも早く大きな鼓動の音が響く。それを感じつつ、言葉を交わすこともなく抱き締め合う。

 抱き締めた沙織の体から、力が抜けていく。それに合わせて、密着する度合いも強くなっていく。無防備に、無造作に、無遠慮に体を預ける沙織に対し、博孝は内心で唸るような声を上げた。


(ぬぅ……さすがに落ち着かねぇ……なんかこう、柔らかいやら温かいやら良い匂いがするやらで、理性がガリガリと削られていくような感じが……)


 ここまで畏まって異性を抱き締めたことはなく、博孝は大きな緊張と僅かな興奮で心臓を高鳴らせる。困ったことに、時間が経てば経つほど緊張が薄れ、興奮が強まっていくのを感じた。

 年頃の少年らしく、“欲”に走ってしまって良いものか。しかし、沙織が求めているのは“安心”だろう。

 小隊長として、仲間として、友人として、一人の男として、様々な感情が博孝の中で渦巻く。理性と欲望が大声をぶつけ合わせているが、徐々に理性の方が弱くなっていく。


(いや、待て、待つんだ……普段ならもうちょっと精神的なコントロールも簡単なはずだ……俺も沙織同様、精神的に弱っているんじゃないか?)


 疑問を覚えることで、理性を強める博孝。沙織と同じように、自分も安心しているのだろう。それによって普段よりも理性が緩んでいるのではないか。

 これはまずい。何がまずいかわからないが、とにかくまずい。とてもまずい。

 そうやって、博孝は『まずい』と内心で連呼する。持ち前の集中力を発揮して無心になろうとするが、それも上手くいかない。


「博孝」

「は、はいぃっ!?」


 考え込んでいた博孝は、沙織の声に対して悲鳴のような声を上げた。邪念が見透かされたかと焦り、沙織はそんな博孝の声に目を瞬かせたが、力が抜けたように微笑む。その頬は朱に染まり、月明かりによっていっそう美しく映えていた。



 ――その微笑みは、博孝には見えなかったけれども。



「もっと強く、抱き締めて」

「……ま、マジですか……」


 わたわたと、抱き締めていた両手を離して慌てたように上下させる博孝。あー、うー、あー、と言葉を忘れたような呻き声を上げ、理性と興奮が葛藤を演じる。


「……嫌だった?」


 そんな博孝の声を聞いた沙織は、一転して不安を覚えたように尋ねた。不安そうな沙織の声を聞いた博孝が出来るのは、首を横に振ることだけである。


「嫌ってわけじゃないんですがね……」


 焦っているためか、博孝の口から出たのは敬語だった。


(嫌ってわけじゃなくて、俺の精神と理性が……)


 言葉には出さず、内心だけで理由を呟く。それでも沙織の希望に応え、博孝は沙織を抱き締める両腕に力を込めた。

 密着の度合いが高まり、高鳴る心臓の音がやけにうるさく聞こえてしまう。戦闘とは異なる緊張感が全身を満たし、博孝は沙織を力強く抱きしめながらも視線を忙しなく彷徨わせる。

 何故こんな状況になっているのかと現実から逃避しようとするが、全ては自分の発言が招いたことだ。安請け合いはするべきではないと、今回のことを教訓として胸に刻む。

 博孝の葛藤に気付いているのか、それとも気にしてなどいないのか。沙織は博孝の肩口に顔を埋めながら囁くように呟く。


「博孝……わたし、強くなるわ。もっと、もっと強くなる。今度は躊躇わないよう、あなたを守れるよう……強くなるわ」


 その声に込められていたのは、新たなる決意と万感の想い。源次郎の役に立つ人間になることを盲信し、強くなりたいと足掻き、最後に抱いたのは仲間を――博孝を守れるようになりたいという切望。

 ラプターに敗北した後、沙織は博孝と共に強くなろうと誓った。その決意に変わりはないが、ただ強くなるだけでは意味がないと気付いたのだ。

 そんな沙織の変化を感じ取った博孝も、“かつて”のように決意を新たにする。


「俺も、もっと強くなる。沙織が俺を守ってくれるって言うのなら、沙織のことは俺が守る。そうやってお互いに、もっと強くなろう」

「……うん」


 博孝の返答を聞き、沙織は一度深呼吸をしてから嬉しそうに頷く。そして全てを委ねるように、全身から力を抜いた。

 そのまま言葉を交わすこともなく、静かに時間が流れる。互いの鼓動が重なり合っているように思え、落ち着くような、気恥ずかしいような感覚を覚えた。


「沙織、俺さ……」


 どれぐらいの時間が経ったのかわからないが、不意に博孝が口を開く。興奮も緊張もなくなり、自然体で沙織を抱き締めた博孝は、無意識の内に言葉を発していた。

 続く言葉は、何なのか。博孝はそれを思考するが、考えずとも言葉が出てきそうだ。口が動くままに、感情のままに、博孝は言葉を紡ぎ――。


「……すぅ……すぅ……」


 沙織の寝息が、博孝の耳に届いた。

 いつから眠っていたのか、眠れるほどに安堵していたのか。博孝は開いた口を閉ざし、思わず口の端を吊り上げて苦笑する。


「……寝ちまった、か。おやすみ、沙織」


 出てきたはずの言葉は、霧散した。その代わりにかけた言葉は安堵したような、落胆したような、複雑な色に染まっている。

 さすがにこのままでいるわけにもいかず、博孝は両腕を解いた。そして沙織を起こさないよう注意しつつ抱き上げ、ベッドへと寝かせようとする。しかし、いつの間に握り締められたのか、服の裾が沙織に掴まれていた。

 二度と離さないと言わんばかりの様子に、博孝は苦笑を深める。前かがみになって沙織を抱き上げ、そのまま移動してベッドへと寝かせた。

 制服のまま寝かせると皺がつきそうだが、脱がして着替えさせるわけにもいかない。自由に動かない左腕に難儀しつつも布団を被せ、沙織の頬にかかっていた黒髪を払う。


「さて……これはどうするかねぇ」


 ベッドに移動させても服の裾を離さない沙織に内心で白旗を揚げつつ、博孝は思考を巡らせる。一番簡単な手段としては、握られている服を脱ぐことだ。上着を握られているだけのため、沙織を起こさないように脱ぐことも容易だろう。

 他の手段としては、沙織の隣で眠ることだろうか。沙織の腕が届く範囲で、なおかつ博孝が一番楽な体制である。


「でも、それはさすがにな……沙織の部屋に入るってレベルの騒ぎじゃねえぞ」


 同じベッドで共に眠る――つまりは同衾だ。分別のある男女が、それも恋人同士でもない者同士だ。


「あ、いや、恋人じゃないから逆にセーフ……って、そんなわけないよな」


 答えが出ず、博孝は自分も疲れているのだろうと頭を振る。結局は沙織を起こさないよう注意しながら上着を脱ぎ、そのまま一息吐いた。暖房が入っていない夜の部屋は肌寒いが、『ES能力者』にとっては問題があるわけでもない。

 あとは部屋に戻り、翌日沙織にこっそりと上着を返してもらえば良いだろう。そう判断した博孝は部屋から出ようと踵を返す。


「……ひろ……たか……」


 しかし、その寝言が博孝の足を止めた。沙織の右手は博孝の上着を握り締めたままだが、その温もりを探すように左手が動いている。


「あー……」


 捨てられた子猫と目が合ったような気分になった。このまま部屋を出ていくのも気が引け、さりとて共に眠るわけにもいかず。博孝は優柔不断な自分と無防備過ぎる沙織に対して愚痴を零しつつ、床へ腰を下ろす。そしてベッドへ背中を預けると、目を閉じた。


(これなら傍から離れていないし、問題ないだろ……とりあえず、沙織の眠りが深くなったら部屋を出よう)


 そう思ったが、沙織と同様に博孝も精神的な疲労を抱えている。“二度目”ということで沙織よりも“慣れ”ていたが、それでも自覚しない疲労があった。

 沙織が眠りについたことで緊張が解け、博孝の瞼がゆっくりと閉じていく。そして、沙織の寝息を背中に聞きつつ、その意識は闇へと落ちていったのだった。








(…………ん?)


 窓から差し込む光が顔に当たり、博孝の意識が覚醒する。数度瞬きをして視界を取り戻すと、博孝は俯いていた顔を上げた。

 いつの間にか眠っていたらしい。座ったまま眠っていたため体が硬くなっていたが、『ES能力者』である博孝にとっては違和感を覚える程度でしかない。

 窓の外に視線を向けると、既に日が昇りつつあった。沙織の部屋に置かれた時計へ視線を向けてみると、時刻は午前八時を指している。


「……やべっ! 朝飯の時間じゃねえか!」


 時刻を確認した博孝は、慌てて体にかかっていた“布団”を剥ぎ――そこで動きを止めた。


「すぅ……すぅ……」


 窓の反対側――博孝の左側に並んで座り、左肩に頭を乗せて沙織が眠っている。ギギギと音が立つような歪な動きで視線を向けてそれを確認した博孝は、首を無理矢理捻ってベッドを確認した。

 沙織が分身しているはずもなく、ベッドの上はもぬけの殻である。首を戻して再度沙織に視線を向けてみるが、沙織は心底安心したように眠っていた。

 眠った後に博孝がいないことに気付き、移動してきたのだろう。常の澄ました表情は存在せず、年齢よりも幼く見えるあどけなさを感じた。

 そんな沙織の寝顔を見ていた博孝だが、生憎と時間がない。砂原がいないとはいえ、授業や自主訓練はあるのだ。


「沙織、沙織……おーい、沙織さーん。頼むから起きてくださいよー」


 かわいそうだとは思ったが、肩を掴んで揺らし、沙織を起こそうとする。体が揺らされていることで眠りを妨げられ、沙織は薄く目を開いて博孝を見た。


「ああ……博孝……おはよう」


 何の気負いもなく挨拶をすると、腕を上げて猫のように体を伸ばす。そして小さく欠伸をすると、改めて博孝を見た。


「久しぶりにぐっすりと眠った気がするわ……」

「そりゃあ良かった。寝起きで悪いが、もう八時だ。朝飯を食べに行かないと」

「そう……そう、ね。もうそんな時間なのね……」


 時間の経過が理解できなかった様子の沙織だが、時計を見て大きく頷く。布団を剥いで立ち上がると、博孝の腕を掴んだ。


「それじゃあ、食事に行きましょうか。安心したからか、すごくお腹が空いたわ。博孝は左腕が動かしにくいだろうし、食べるのを手伝ってあげるわね」

「ああ……って、待て待て! 手伝いもそうだが、そもそも、このまま一緒に行けるか!」


 あまりにも自然と促されたため、一度は頷いてしまう。それでもおかしな点――実行すれば非常に危険だということに気付き、博孝は慌てて首を横に振った。

 沙織の表情を見れば、昨晩まで抱えていた不安や葛藤がほとんどなくなったことが窺える。どこか晴れ晴れとした、力の抜けた顔に笑みを浮かべて博孝を見ていた。様子を見に来て正解だったとは思う博孝だが、このまま沙織の部屋から出ればどうなるか。

 時刻は午前八時。その時間は朝食の時間であり、校舎の食堂へ移動する必要がある。その上ここは女子寮の一室であり、外に出れば高確率で誰かに目撃されるだろう。下手をすると、扉を開けた瞬間に誰かと鉢合わせる可能性もある。

 男女が互いの寮に足を踏み入れることは、“規則”では禁じられていない。その点を考えれば、砂原などの教官職に就く者には咎められないだろう。しかし、クラスメートが相手ならばどうなるか。

 愉快で素敵で、地獄の獄卒も裸足で逃げ出し、悪鬼羅刹も涙ながらに土下座するような凄惨な未来が待ち受けていることは想像に難くない。

 博孝は戦闘中並に五感を研ぎ澄ませ、部屋の扉越しに廊下の気配を探る。すると、明らかに複数の気配が廊下に存在していた。『構成力』を探るまでもなく、確信を持って自分が死地にいることが理解できる。


「まずい……これはまずいですよっ……」


 額から流れる汗を拭いつつ、博孝は自分の靴を手に取った。そして部屋に戻ると、中腰になって外から見えないよう注意しつつ、ベランダに続くガラス戸の鍵を開ける。


「玄関から出ないの?」

「出ねぇよ!」


 キョトンとした顔で尋ねる沙織にツッコミを入れ、博孝はガラス戸を開けた。そして一度だけ沙織へと振り返り、引きつった笑みを向ける。


「というわけで、俺はこれで失礼するわ……ちゃんと朝飯を食べに来いよ?」


 最後に注意を付け足し、『探知』を発現して周囲の『構成力』の位置を探る。ついでに『瞬速』を発現して姿を消すと、空中に『盾』を発現して蹴りつけ、三角飛びの要領で女子寮の屋根へと着地した。

 周囲が気付かないよう、『瞬速』も『盾』も発現したのは一瞬だけだ。誰かが見ていたとしても、朝日によって『構成力』は見えにくい。


(なんつーか、浮気現場から逃げ出す間男みたいで嫌だなぁ……)


 そんなことを内心で呟きつつ、博孝は伏せた状態で女子寮の屋根を移動する。屋根の端まで到着すると再度『瞬速』を発現して男子寮の屋根に跳び移り、眼下に誰もいないことを確認して玄関へと飛び下りた。

 自主訓練を終えて着替えにきたとでも言わんばかりの様子で玄関を潜り、自然体を装って談話室にいたクラスメートに朝の挨拶をして、博孝は自室へ向かう。


(とりあえず、沙織も立ち直ったみたいだし……これで一件落着かね)


 起きたばかりだったが、沙織は“いつも”の沙織だった。陰っていた表情はなくなり、立ち振る舞いも普段通りになっている。少しばかり雰囲気が柔らかくなっていた気もするが、誤差の範囲だろう。

 そう判断した博孝は、自分の足取りも軽くなっていたことに気付かず自分の部屋へと戻った。あとは砂原が事件の報告から戻れば、日常が戻ってきそうである。

 沙織と共に、更に強くなると決意を新たにしたばかりだ。厳しい訓練でも乗り越えていけるだろう。

 そのことを思い、博孝は一人笑みを浮かべるのだった。








「あれって……博孝、君?」



 ――目撃者がいたことに、気付かないままに。


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