第百六話:河原崎博孝の絶望
それは、避けられない運命だったのかもしれない。
時間は巻き戻らず、川の水のように流れ、かつて過ごした平穏な日々には戻れない。
人間がいずれ命尽きるように、避けられないことなのかもしれない。
歳を経ることは、人によって嬉しく、誇らしい。しかし、人によっては悲しく、辛いことだ。
そんな自然の摂理を前にしても、博孝は嘆かずにいられない。
――何故、こうなったのだ、と。
修学旅行という学生生活最大のイベントも終わり、新年へ向かって進む師走の中旬。修学旅行から帰った博孝達第七十一期訓練生は、日常とも呼べる学生としての日々に戻っていた。
四泊五日というスケジュールを消化し、訓練校へ戻った翌日。旅行明けということで休日になったその日、博孝は沙織や里香、恭介などの第一小隊の仲間達とグラウンドで自主訓練に取り組んでいた。周囲を見回してみると、第一小隊以外にも自主訓練に励んでいる生徒の姿がちらほらと見える。
スキーなどで体を動かすことはあったが、五日間も訓練がなかったのだ。『ES能力者』としての身体能力が簡単に落ちることはないが、それでも体を動かす感覚に少しばかり違和感がある。そのため、錆落としを兼ねて朝から自主訓練に励んでいた。
嬉々とした笑みを浮かべた沙織が、柳から受け取った『無銘』を早く振るいたいと切望したのも理由の一つである。修学旅行から帰るなり、一晩中グラウンドで『無銘』の素振りをしていたと聞いた時は、博孝も思わず呆れてしまったものだ。
「さあ、博孝……軽く“模擬戦”といきましょう」
『無銘』の重さや重心をある程度掴んだ沙織は、満面の笑みを浮かべて提案する。模擬戦とは言っているものの、沙織が握っているのは『無銘』である。源次郎が持つ大太刀――『斬鉄』を鍛え上げた刀匠、柳が鍛えた刀だ。
『付与』という一級特殊技能を使用して作られた『無銘』からは、言い知れぬ威圧感が発している。柳曰く、『まあまあの出来』と評した一振り。『武神』が扱う『斬鉄』に比べれば劣るのだろうが、それでもどれほどの切れ味を持つのかわからなかった。
「慣れるために素振りするぐらいは良いけど、どれぐらいの力を引き出せるかわかるまでは模擬戦に使うなって教官に言われただろ……」
やる気満々で模擬戦をやろうと提案する沙織に、博孝は頭痛を覚えたような顔で言う。訓練校に帰るなり、砂原が沙織に釘を刺したのだ。『無銘』がどれほどの代物か、わかるまでは素振りだけに留めておけと。
沙織とて覚えているだろうに、すぐに模擬戦で使ってみたいようだ。それはまるで、長年欲しかった玩具を買ってもらった子供が、すぐに使いたがるのと似ているのかもしれない。玩具と呼ぶには、少々以上に物騒過ぎる代物だが。
「むぅ……わかってるわ。それにしても、みらいはどうしたの?」
抜いた『無銘』を鞘に納めつつ、沙織が問う。普段使っていた『武器化』で生み出した大太刀とは刀身の長さが異なるため、頻繁に抜刀と納刀を繰り返し、『無銘』の感覚を手に馴染ませている。その動作は流麗なものだが、抜刀ついでに斬りかかってきそうで怖かった。
「修学旅行ではしゃぎすぎたんだろうな。俺が部屋から出てくる時はまだ寝ていたよ。そろそろ起きているとは思うけど……まあ、ちょっと見てくる」
四泊五日の修学旅行ではしゃいでいたみらいは、訓練校に帰ると博孝に買ってもらったジャイアントパンダのぬいぐるみを抱き締め、すぐに眠りについてしまった。余程疲れていたらしく、博孝が朝方に声を掛けても起きないほどである。休日ということで寝かせようと思った博孝だが、時刻はもうじき正午。既に十二時間以上眠っており、さすがにこれ以上は寝過ぎだろうと思った。
そう判断した博孝は、男子寮へと足を向ける。『通話』で起きているかを確認しても良いが、やはり起床後の挨拶は大事だと博孝は思うのだ。可能ならば、顔を合わせて挨拶をするべきだと思う。
――そして、それが博孝の運命の分岐路だった。
男子寮の入口を潜り、階段を登って二階へ。そして自室の扉の前に立ち、鍵を開ける。
「まったく……まだ寝てんじゃないだろうな。寝る子は育つというけど、お兄ちゃんはさすがに寝過ぎだと思うんだよな……」
そんなことを言いつつ、博孝は自室の扉を開けた。既に一年と半年近く住んだ、慣れた自室である。玄関から入って右手に小さなキッチンがあり、その対面には別々に設けられた風呂場とトイレ。玄関から入って真っ直ぐを見れば、十五畳という一学生には広すぎる部屋がある。
「みらいー? まだ起きてないのかー?」
開けた扉に手をかけつつ、靴を脱ぐために足元に視線を向けつつ、博孝はそんな声をかけた。部屋の中は、見ていない。
「……え?」
故に、そんな不思議そうなみらいの声が聞こえた時、博孝はごく自然に顔を上げた。顔を、上げてしまった。
結論から言えば、みらいは起きていた。
そのこと自体は、博孝としては安堵すべきことである。爆睡していたが、自分で起きられたのか、と嬉しくも思う。しかし、それと同時に博孝は不満を覚える。もっとも、不満というよりはみらいに対する躾の問題だった。
パジャマの上下を脱ぎ、訓練用の野戦服を着ようとしていたみらい。パジャマの上下を脱いで、野戦服を着る前。
つまりは――下着姿だった。
ついでに言えば、下着も上下の“上”はなかった。みらいには、“上”を用意する必要がなかった。
以前里香に買ってもらったパジャマが、みらいの足元に落ちている。博孝がいないからと、横着をして部屋の中で着替えようとしていたのだろう。書類上は兄妹の関係だが、博孝はみらいに常識を教える意味でも、着替えの際には脱衣所を使うよう教えていた。
注意しなければ、みらいは博孝がいる場所でも平気で着替えを始めてしまう。それは博孝のことを本当に兄のように思っているからか、それとも気にするだけの感情がないのか。博孝にはわからなかったが、みらいはそういった部分に無頓着だ。
それだというのに、みらいは“何故か”固まっている。自分が着替えている最中に部屋に戻ってきた博孝を見て、動きを止めて目を見開いている。
「こら、みらい。服を脱ぐ時はちゃんと脱衣所を――」
使いなさい、と博孝は続けようとした。だが、その言葉が口から出ることはなかった。何故なら、目を見開いたみらいが予想だにしない行動を取ったのである。
「――きゃあああああああああああああああぁぁぁぁっ!」
みらいから、悲鳴が上がった。まるで絹を裂いたような悲鳴が、みらいの口から放たれたのである。顔を赤くして、胸元を腕で隠し、しゃがみ込みながら悲鳴を上げたのだ。
その声の大きさ。その声の切迫具合。外見が幼いみらいに見合った、非常に甲高い悲鳴。まるで衝撃波でも伴ったかのように、博孝の耳朶を強かに叩きのめす。
「あ……お……ええ? う……ええっ?」
何が起きたのかわからず、博孝は高速で目を瞬かせながら意味にならない言葉を絞り出す。状況が理解できず、自分の口から声が出たことにすら気づかない。
自室の扉を開けた――それは良い。博孝にとっても自分の部屋だ。
みらいが着替えていた――みらいが住んでいる部屋だ。それもおかしなことではない。
みらいが悲鳴を上げた――何故だ。
もしもこれが敵の攻撃だったならば、非常に効果があっただろう。最高にして最強、これ以上は有り得ない至高の不意打ちだ。今攻撃を受ければ、博孝はなす術もなく倒れ伏したに違いない。
突然の事態を前にして、博孝の膝から力が抜けた。まるで糸が切れたように体が後ろへ傾き、後頭部を金属製の扉で強打。そのまま博孝の体重で扉が開き、博孝はコンクリートの床の上で尻餅をつく。
「……おい、なんだ? 今のは……悲鳴?」
「二階の方からだったぞ?」
尻餅をついた博孝の耳に、そんな声が微かに届いた。その声を聞いた博孝は、どうにかしなければと思う。だが、何をどうすれば良いのかわからない。
人間、本当に予想外の事態に陥った場合、気が動転して普段通りの行動が取れなくなることがある。博孝にとっては、この状況こそがそれに当てはまった。
『ES寄生体』が現れたのならば、戦えば良い。
敵性の『ES能力者』に襲われたのならば、戦うなり逃げるなりの方策を講じれば良い。
しかし、しかしである。
――突然妹に悲鳴を上げられたらどうすれば良いのか?
残念ながら、博孝の中にその疑問に対する回答は存在しなかった。そしてそれが、事態をよりいっそう混迷と化す原因になる。
「どきなさい! 今のはみらいの悲鳴だったわ!」
「みらいちゃん!」
「まさか敵の強襲っすか!? 博孝はどうしたっすか!?」
そんな声が聞こえ、沙織や里香、恭介が飛び込んでくる。みらいの悲鳴は大きかった。それが聞こえるなり、即座に駆け付けたのだろう。
そして、沙織達は自室の扉を開き、床に尻餅をつく博孝を発見する。
「あ……ああ……」
悲鳴が上がって三十秒も経っていない。それだというのに駆け付けた沙織達の練度は、称賛すべきものだろう。博孝にとっては、非常に有り難くなかったが。
――やべぇ、終わった。
博孝の脳裏に、短くそんな言葉が過ぎった。しかし、駆け付けた沙織達からすれば困惑するしかない。
あの博孝が、『ES寄生体』と戦っても怯まず、ハリドやラプターなどを相手にしても勇敢に立ち向かう博孝が、顔の血の気を引いて肩を震わせている。その一事を前に、沙織達は最悪の事態を予想した。
もしや、みらいの身に何かがあったのではないか。もしかすると、先ほどの悲鳴は博孝のものだったのかもしれない。みらいが悲鳴を上げるというのも、上手く想像できない。
「……博孝?」
『無銘』の柄に右手を這わせつつ、沙織が声を掛ける。博孝はそんな沙織の様子に肩を震わせるばかりで、何も言わない。時折呻くような声が漏れるだけだ。
そんな博孝の姿を見て、沙織は唾を飲み込みながら博孝の自室前まで移動する。一体何が起きたのか、もしかするとみらいは――。
浮かんだ“最悪”の結末を振り払い、沙織は断固たる決意を以って部屋の中を覗き込む。
「ひっ……ひっ……うぅ……」
部屋を覗き込んだ沙織は、それまで以上の衝撃を受けた。床に散らばる衣服を右手で集めて体を隠そうと努力し、左手は目元の涙を拭う、みらいの姿。押し殺したような嗚咽を漏らし、生まれたばかりの小鳥のように身を震わせている。
「さ、沙織ちゃん……みらいちゃんに何が……え?」
動きを止めた沙織を見て、里香も部屋の中を覗き込んだ。そして、みらいの姿を見て絶句する。
散らばる衣服に、泣くみらい。その姿はまるで――。
「――博孝?」
「――博孝君?」
沙織と里香の口から、絶対零度を超えそうなほど冷たい声が吐き出された。
「ちょっ、一体何が……ひいぃっ!?」
部屋を覗き込んだ沙織と里香の様子がおかしかったため、恭介も事態の確認を試みる。だが、部屋を覗こうとした瞬間、里香の下段蹴りが恭介の両足を刈り取り、沙織が抜く手も見せずに抜刀した『無銘』を突きつけた。
「見ては駄目よ」
「武倉君は他の“男子”が近づかないようにして」
「い、イエスマム!」
沙織と里香の剣幕に恐れをなした恭介は、床に転がされた文句を言うこともなく這うようにしてその場を離脱した。
そこでようやく沙織と里香の存在に気付いたのか、みらいが泣き顔を上げて二人に視線を向ける。里香が靴を脱いで慌てて部屋に上がると、みらいは里香の胸元へと飛び込んだ。
「み、みらいちゃん? どうしたの? 大丈夫?」
飛び込んできたみらいを受け止めた里香は、みらいの様子を確認しながら声を掛けた。下着一枚に、崩れた泣き顔。最近は様々な表情を見せるみらいだったが、これほど取り乱した姿は見たことがない。
「ひぐっ……ひっ……お、おに、ちゃんが……」
博孝を、兄を呼ぶみらいだが、そこから先は声が涙に濡れて聞こえなかった。里香はそんなみらいを優しく抱き締める。
床に散らかる衣服。ほとんど裸に近い状態で、普段は感情の動きが少ないみらいが泣いているというこの状況。
今まで博孝は一緒に自主訓練を行っていた。みらいが起きているかを確認しに行ったはずだというのに、いたのは声もなく尻餅をついている博孝と、泣きながら裸身を晒すみらい。
「――博孝?」
再度、沙織が博孝の名を呼ぶ。相も変わらず、その声は氷のように冷たかった。
みらいに悲鳴を上げられたという驚愕。駆け付けた沙織や里香から向けられる視線と、温度を感じない声。
「ち、ちがっ……お、俺っ、な、何も……」
必死に吐き出したその言葉は、絶望に濡れていた。
その日、砂原は朝方から日本ES戦闘部隊監督部へと足を運んでいた。源次郎から内密に、されど非常に重要な情報があると言われ、昨日行ったばかりの東京へ『飛行』で急行。
そして知らされたのは、ES保管施設にあった『進化の種』の三分の一程度が、何者かに奪われた可能性が高いという情報だった。
高い階級にある者ですら、ほとんど知らされていないこの情報。これが伝えられたのは、源次郎による独断に近い。佐官はおろか、将官の中でも一握りしか知らない情報だ。
それが如何に『穿孔』といえど、一軍曹、一教官に教えられたのは、砂原に警戒を促すためである。人面樹の発生で目を惹き、その間に行われた事件だ。連動して行われた事件ならば、連動する“何か”が発生する可能性がある。
それを考慮した源次郎は、砂原に警戒を促すためにも伝えた。修学旅行は“大体”が無事に終わったが、訓練生の生活はまだまだ続く。警戒を促して損はない。そう言った源次郎の顔は、不審の感情で溢れていた。
後始末で忙しい源次郎の元を辞した砂原は、『飛行』を発現して訓練校へと戻る。事情は話せないが、校長である大場に相談して訓練校の防備を見直そう。そう思いながら訓練校へ戻り、第七十一期訓練生が使用するグラウンドへ降り立ち――『穿孔』と呼ばれる砂原でさえも、眼前の光景が理解できずに思考を停止させた。
「……これは一体何が起きているんだ?」
訓練校に帰還した砂原は、眼前に展開された光景を見て言葉を失った。源次郎から『進化の種』が奪われたことについて注意され、訓練校に帰還したと思えば――。
「ほら、キリキリ吐きなさい。みらいちゃんに何をしたのよ」
「黙秘権なんて認めてないわよ。沈黙は肯定と見做すわ」
「この下種っ! いくらみらいちゃんが可愛いからって、妹に手を出すなんて!」
博孝が、女子生徒達に周囲を囲まれながらそんな罵声を浴びせられていた。それも、グラウンドに置かれた鍛錬用の鉄塊の上に正座させられ、両手を体の後ろで縛られ、膝の上には重しとして何枚もの鉄板が乗せられた状態でだ。博孝の体の周囲には大量の『盾』が発現され、身動きをできないようにもされている。
「ち、違うんだぁ……俺は何もしてねぇ……何もしてねぇんだぁ……」
今にも死んでしまいそうな、震える声で呟く博孝。下手をせずとも拷問にしか見えないが、『ES能力者』の体ならば正座した上に鉄板が乗ってもそれほど痛くない。だが、そんな博孝の言葉を聞いた周囲の女子生徒達は、眦を吊り上げて般若の如き様相へと変わった。
「何もしてないのなら、なんでみらいちゃんが悲鳴を上げて泣くのよ!」
「下手な言い訳をしてると、長谷川さんに頼んで“試し切り”の材料にするわよ!」
「ええい! 男子! 重しが足りないわ! ランニング用の一トンぐらいある鉄塊を持ってきなさい!」
博孝は可能な限り抗弁しようとしているが、周囲は聞く耳を持たなかった。
その光景を見た砂原は、思わず目を閉じ、瞼越しに眼球をマッサージしてしまう。一体何が起きているのかと、歴戦の『ES能力者』である砂原でさえ理解ができない。
「ちゃうねん……ほんまちゃうねん……」
言葉の暴力で叩きのめされたのか、言動すらおかしくなる博孝。そんな博孝から離れた場所では、私服に着替えたみらいを里香が抱き締め、沙織がその傍に立っている。男子生徒達はさらに遠くで博孝の様子を窺っていた。
「まだ白を切るのね!? こうなったら、鉄板の下に火を焚いて――」
「待て。いや、お前らが何をしているのかよくわからんが、とにかく待て」
ヒートアップする女子生徒達を見て、砂原はとりあえず止めに入った。膝の上に置かれた鉄の重しはそれほど痛くないが、さすがに熱した鉄板の上に座れば砂原でも熱く感じる。
拷問か、はたまた私刑か。自分が訓練校を離れている間に何があったのかわからないが、何故こんな事態になっているのか。
もしかすると、生徒達は何者かによって操られているのではないかとすら考えてしまった。それでも止めに入った砂原は、教官として正しかっただろう。しかし、多くの女子生徒から鋭い視線を向けられる。
「教官は黙っていてください! これは人として、いえ、女の子として重要かつ重大なことなんです!」
「う、うむ……そうか……」
まさか教え子達にここまで反発されるとは思わず、砂原は思わず引いてしまった。
なるほど、自分は男だ。『女の子として重要かつ重大』などと言われてしまえば、深く追求することはできない。女性というものは、男性からすれば全てを理解し得ない不思議で神秘な生き物なのだ。
訓練ならば容赦なく叩きのめすが、今日は休日だ。これほど多くの女子生徒が怒りを露わにするということは、博孝が馬鹿なことでも仕出かしたのだろう。修学旅行で覗きを敢行して失敗したが、まだ懲りていなかったのかと砂原は首を傾げる。
それでも砂原は教官として、事態の把握に努めた。男子生徒達は女子生徒の剣幕に怯えて距離を取っており、役に立ちそうにない。そのため砂原は里香と沙織のもとへ足を運んだ。
「事情がよくわからんのだが……何があった?」
沙織はともかく、里香は冷静な性格をしている。もう少し自分を前に出すことができるならば、小隊長として据えたと思う程に冷静だ。
「……さあ?」
しかし、返ってきたのは凍てつくような流し目である。『穿孔』と呼ばれる砂原ですら、思わず心胆寒からしめるような眼差しだった。里香の胸元ではみらいが泣いており、事態の混迷さに拍車をかけている。
『無銘』の柄に右手を掛けている沙織に視線を向けると、意外というべきか、沙織は平常心を保っていた。
「みらいを除いて、わたし達は自主訓練をしていました。さすがにお昼前なので博孝が眠っているみらいを起こしに行ったのですが、そこでみらいの悲鳴が聞こえまして……」
「悲鳴だと?」
みらいが悲鳴を上げるというのは、余程のことだろう。少なくとも、砂原はみらいが悲鳴を上げたところを聞いたことがない。何があったのかと話の続きを促す砂原だが、沙織はひどく言い難そうにしながら口を開く。
「わたし達が駆け付けてみると、扉を開けたまま床に座り込む博孝がいまして……そこから部屋の中を覗いてみると、下着一枚で泣き声を上げ、衣服が散らかった状態で座り込むみらいがいたんです」
そして、自主訓練を行っていた他の女子生徒も“現場”に駆け付け、博孝は“下手人”として捕まった。訓練で使用する特殊鋼線で手足を縛られ、まるで粗大ゴミでも運ぶように引きずられ、グラウンドに用意された“特設会場”で針の筵へご招待だ。
「乙女を汚そうとしたその腐った性根! あの世で閻魔様に叩き直してきてもらいなさい!」
「さあ、泣いて震えなさい! 己の罪を数えなさい! 地獄の釜が貴方を待っているわ!」
「判決――有罪! 死刑!」
砂原が事情を聞いていると、その背後では死刑宣告が下されていた。
裁判官も、検察官も、弁護人も、聴衆も、全てが一致団結で決定した判決である。なお、控訴や上告を行う権利など博孝にはない。
「いや、その、マジで話を聞いてください……俺はみらいが服を着替えているところに遭遇しただけで、他には何もしてないんです……」
それでも博孝は抗弁を行う。このままでは、本当に死刑になりそうだ。死刑はなくとも、私刑が行われそうだ。
「はあ? アンタとみらいちゃんは兄妹でしょ? わたしも兄貴がいるけど、兄貴に着替えているところ見られてもあそこまで取り乱さないわよ!」
第六小隊に所属する紅一点、牧瀬がそれは有り得ないと否定した。その言葉に対し、兄弟を持つ女子生徒達が同意するように頷いている。
「異性だけど、生まれた時から一緒だもの。木石ぐらいにしか感じないわね」
「さすがにそこまではいかないけど、一緒にお風呂に入ったこともあるし。大して気にならないわよね」
「まあ、着替えだけなら泣きはしないかなぁ……慌てたり、ちょっと気まずくなったりするけど、少し時間が経てば忘れるぐらいね」
兄弟を持たない他の女子生徒からすれば理解はできなかったが、親に着替えを見られるのと同じぐらいだろうと判断した。つまり、それだけでは泣くはずもない。みらいが泣いている以上、それ以外の“何か”があったはずなのだ。
「残念よ、河原崎君。アンタのこと、嫌いじゃなかったわ」
「面白い奴だったのに……」
「地獄の業火に焼かれてきなさい」
じわじわと、包囲網を狭め始める女子生徒達。博孝は『飛行』を発現して逃げようかと思ったが、体中を『盾』で押さえ込まれている。
「河原崎妹。お前の兄が今から死出の旅に出ようとしているが、本当に河原崎兄が何かをしたのか?」
砂原が問いかけると、みらいは首を横に振った。
「……なにも、してない……でも、はだか、みられた……」
冷静な声で問われて、みらいもようやくそれだけを答える。そして、その言葉は博孝を救うのだった。
「いやぁ……今回ばかりは本当に死ぬかと思いました」
みらいの言葉を聞いた砂原により、事情聴取という名目で博孝は一時的に助かった。場合によっては先ほどのサバトへ逆戻りだが、みらいの言葉を聞く限りそれはないだろうと砂原は思っている。
教官室に連れて行かれた博孝は、疲れた顔に苦笑を浮かべながら事情を説明した。
みらいを起こしに行ったが、他に何もしていない。たしかにみらいが着替えているところを見たが、博孝はむしろ脱衣所で着替えるよう指導を行おうとした。それを切々と語ると、砂原は苦笑しながら頷く。
「誤解が誤解を呼んだわけか……まあ、お前が妹に手を出すとは思わなかったが」
「出すわけないじゃないですか! みらいは可愛い“妹”ですよ!」
守りこそすれ、手を出すことなど有り得ない。そう断言する博孝だが、すぐに肩を落として眉を寄せる。
「でも、みらいが悲鳴を上げるなんて……お兄ちゃんは軽く絶望ですよ……」
肩を落としたついでに膝と手を床に突き、今にも泣き出しそうだ。そんな博孝を見た砂原は、思わず苦笑を深めてしまった。
「河原崎妹にも、羞恥心が芽生えたのだろう。お前の気持ちもわからんではないが、落ち込み過ぎではないか?」
書類上の妹、義妹だが、博孝はみらいのことを猫可愛がりしていた。そんなみらいに悲鳴を上げられて落ち込みたい気持ちはわかるが、さすがに落ち込み過ぎではないか。そう尋ねる砂原に対し、博孝は顔を上げて唇を尖らせる。
「教官だって、いつか娘さんが大きくなったらわかりますよ! 『お父さんと一緒にお風呂入りたくない』とか、『わたしの服、お父さんの服と一緒に洗わないで』とか言われて絶望に打ちひしがれあだだだだだだっ!?」
やさぐれたように話していた博孝の顔面を、砂原の右手が鷲掴みにする。そしてそのまま吊り上げられ、博孝の口から苦痛による悲鳴が吐き出された。
「ぎゃあああああぁぁっ! 頭がっ! 脳がっ!」
「俺の家庭のことはどうでも良い。あまりふざけたことを抜かすと――このまま頭蓋を握り潰すぞ」
「すんません! すんません! まさか教官が娘さんの反抗期でそこまで落ち込むわけがないあああああぁぁっ! 余計に強くなったあああぁっ!?」
ビタンビタンと体をくねらせる博孝。その姿はまるで、釣り上げられて暴れる魚のようだ。砂原は博孝を放り出すと、鼻で笑ってから視線を宙に向ける。
「しかし、そうか……河原崎妹に羞恥心が芽生えるとはな。このままお前と同じ部屋に住まわせて良いものか……」
みらいは『構成力』が不安定だったため、『活性化』を発現できる博孝と一緒に住まわせていた。今回の一件では、羞恥から泣き崩れることはあっても『構成力』自体は安定している。感情の波によって『構成力』を揺らがせていた以前と比べれば、格段の進歩だろう。
「ふむ……そうだな。とりあえず河原崎妹を女子寮に移すか。それで様子を見よう」
「なっ……み、みらいを女子寮に……で、でも、みらいのことを思えば、それが妥当な気も……しかし……ぐ、ぐうううぅぅ……」
額の血管が切れそうなほどに悩む博孝。そんな博孝を見た砂原は、とりあえず蹴り飛ばして落ち着かせる。
「落ち着け。今回の件は、妹の成長を祝え。反抗期とまではいかないが、河原崎妹が“人として”成長している証だ」
人工の『ES能力者』であるみらいが、兄である博孝に裸を見られて羞恥心から泣く。それは、側面から見ればみらいの情緒が発達してきた証拠だ。
「う、は、はい……」
それが理解できた博孝は、皮膚を突き破りそうなほど強く拳を握りながら頷いた。女子寮には空き部屋があり、クラスメート達の手を借りれば今日中に引っ越すことも可能だろう。みらいの“今後”を思えば、そうするべきだった。
「河原崎妹の『構成力』が不安定になれば、またお前の部屋に戻すかもしれん。『活性化』による“治療”は続けるが、河原崎妹についてはひとまず部屋を女子寮に移す。良いな?」
「了解です……」
絞り出すようにして答える博孝。
その日、みらいは女子寮へ引っ越すことになった。そして、みらいが泣いた理由や事の顛末を知った女子生徒達は、にこやかに笑いながら博孝の肩を叩く。
「わたしは信じていたわよ、河原崎君」
「ええ、わたしもよ。妹であるみらいちゃんを、あれほどまでに可愛がる河原崎君だもの。手を出したりしないって思っていたわ」
「そうそう。今夜はみらいちゃんの成長を祝いましょう? あ、ケーキはわたし達が用意するわね。それとも赤飯が良い?」
状況が状況だったため、仕方がないと言えば仕方がない。それでも、女子生徒達は自分達の行動を忘れてそう言った。対する博孝は、死んだ魚のような目で女子生徒達を見回す。
「良いよ……みんなが俺をどんな目で見ていたか、よくわかったよ……」
結果として無罪放免となったが、博孝は女子生徒達の行動を忘れることなどできなかった。もしも逆の立場だったならば、同じことをしたと断言できるだけに強くは言えないが。
「え、えっとね、わ、わたしは信じてたよ?」
「そうね。わたしも信じていたわ、博孝」
「それならせめて、目を合わせてから言ってくれよ」
視線を逸らしながら告げる里香と沙織に対し、博孝はツッコミを入れる。仕方ないとは思うが、まさか里香や沙織まで疑うとは思ってもみなかった。それほどまでに、みらいが羞恥心から泣くという事態は予想外だったのである。
砂原が思わず、『進化の種』を盗まれたという大事件を一時的に忘れるほどの事態だった。第七十一期訓練生全員を巻き込んだ、忘れ難き事件となった。
その夜、一人だけになった部屋で博孝は涙で枕を濡らす。こうして、博孝が色々な意味で絶望に沈んだ一日は過ぎていくのだった。