第百五話:修学旅行 その10 旅の終わり
「これは由々しき事態だ……」
日本の『ES能力者』を管理する日本ES戦闘部隊監督部。都心に建てられたそのビルの会議室に集められた一人の男性が、額に手を当てながら呟く。その男性の襟元には少将であることを示す階級章が付けられており、他に居並ぶ男性達も似たような階級章を付けていた。
ほとんどの者が沈痛な面持ちであり、言葉を発することができない。昨日に発生した人面樹の一件もそうだが、本日未明に判明した事件は軍人である彼らを以ってしても打ちのめされた気分になる。
――ES保管施設より、“オリジナル”のESが複数奪取される。
その一報は、情報を知り得る様々な方面へ大きな衝撃を与えた。ES保管施設は厳重に警護がされており、ES適性検査を受ける者以外は侵入できる者が限られている。ES適性検査を受ける場合でも、監視の兵士がついて回るのだ。
ましてや、夜間はES適性検査を受ける者もいない。そのため、“犯行”があった時刻に施設にいたのは警護を担当する『ES能力者』や兵士だけだ。
無論のことだが、ES保管施設の警護については人手のみで行われているわけではない。ES保管施設自体が重厚な造りとなっており、突破するためには強力なES能力を使用して破壊するしかない。その上、施設の内外には監視カメラが大量に設置され、ネズミの一匹すら見落とさないほどだ。
ES適性検査で足を踏み入れることが可能な場所以外は、電子セキュリティも完備されている。扉の一つを潜るためにもセキュリティカードで認証をする必要があり、関係者以外は無理矢理押し通るしか侵入する方法はない――はずだった。
それだというのに、ES保管施設自体は無事である。破壊された痕跡もない。監視カメラをチェックしてみても、不審な人物などは映っていなかった。
そうなると、真っ先に疑われるのは警護に携わっていた人員である。しかし、それぞれを洗ってみたものの結果はシロ。夜間も実直に警護を務めており、保管された“オリジナル”の『進化の種』を目視でチェックする人員によって事態が発覚する始末だ。
『進化の種』は宝石の形をしているが、一晩の間にイミテーションにすり替えられていたのである。しかも解せないことに、すり替えられていたのは保管されていた『進化の種』の内、三分の一程度だった。残りは手を付けずにそのままにしてあり、それが余計に事態を混乱させた。
「まさか、『進化の種』が勝手にイミテーションへ変化したわけではあるまいな」
場の空気を少しでも軽くさせようと、煙草を吸っていた中将が口を開く。だが、その言葉に笑う者は誰もいなかった。
人や監視カメラをチェックしてみても、『進化の種』をすり替えられた者は見つからない。そもそも、いつ、どのタイミングですり替えを行うというのか。
イミテーションとすり替えられていたということは、普通に考えれば少しでも事の露見を遅らせるためだろう。だが、ここまで手がかりがない状況では、『進化の種』が自分でイミテーションへ姿を変えたと言われても笑い飛ばせなかった。
会議室にいた者達は、その言葉を軽く聞き流す者、まさかと思いつつ可能性を思考するもの、場の流れを見極める者にわかれる。『進化の種』については『ES能力者』や『ES寄生体』と比べて研究が進んでいないが、いくらなんでも勝手にイミテーションへ変化することはないだろう、とは思う。しかし、それを裏付ける確証はない。
『進化の種』の外見は宝石のようであり、非常に堅固。モース硬度で表せないほどに堅固な物体だ。何を基準としているかはわからないが、ごく稀に人間の体へ入り込み、その人間を『ES能力者』へと変貌させるという特性を持つ。
いくら力を加えても破壊することができず、可能性としては『ES能力者』の攻撃によって破壊が出来るのではないかと思われている。さすがに、貴重な『進化の種』を破壊する実験などは日本では行われていないが、物理的、科学的にあらゆる手段で確認が行われていた。それでも無理だというのだから、あとは『ES能力者』による破壊を試みるぐらいしかないだろう。
他国では実際に『ES能力者』が攻撃を加え、真っ二つにしてしまったという話も聞く。そんな話を聞けば、自分の国が保有する『進化の種』を叩き割る者はいないだろう。
世界各国が、自国の貴重な『ES能力者』を警備に回してまで保管する貴重品。それが盗まれたとあっては、面子にも関わる。人面樹の捜索や殲滅に回した人員以外から、即座に動ける『ES能力者』を抽出して捜索に当たらせるほどだ。
日本から出ようとする船舶は臨検を行い、飛行機で運ぶ荷物や搭乗する客の手荷物もさり気なくチェックする。『飛行』を発現可能な『ES能力者』が国外へと逃亡しないか、防空網を警戒態勢に移行させて目を光らせた。
もちろん、そこまで大がかりに動けば他国から何事かと目を向けられる。そのため、先日“偶然”発生した人面樹の一件を全面的に押し出し、他に脅威が潜んでいないかを確認するためという名目を打ち出した。
「樹木型『ES寄生体』の件もですが、今回の件も放置はできますまい。当分の間は警戒態勢を継続し、手がかりを探す……それしかないでしょうな」
忙しい中で時間を割いて出席した源次郎が、ため息を吐くように言う。長年『ES能力者』として生きてきた源次郎でも、今回のような事態は初めてだ。手がかりもなく、『進化の種』をイミテーションとすり替えた手段も不明。すべての『進化の種』を盗まなかった相手の目的も不明だ。
『進化の種』に適合した者――『ES適合者』の数は、『ES能力者』に比べれば遥かに少ない。割合で言えば、一パーセントにも満たない数だ。
源次郎のように、『ES能力者』と呼ばれる存在が出現した頃は『ES適合者』の方が多かった。その『ES適合者』が子を作ることで『ES能力者』が誕生し、徐々に増え、その数を増したのである。
『進化の種』に適合する理由は解明されていないが、適合した者には後々“ある特徴”が発生することが多い。
――その特徴とは、独自技能の発現である。
全員が全員、独自技能を発現するわけではない。それでも、普通の『ES能力者』に比べれば独自技能を発現する確率が高かった。
中には砂原のように“自力で”独自技能を開発する者もいるが、それは例外中の例外である。砂原の『収束』は普通の『ES能力者』でも習得可能であり、そういう意味では純正の独自技能とは言えない。
他の『ES能力者』が使えない、本当の意味での独自技能。オンリーワンであり、誰にも真似できないES能力だ。
それがあるために、日本では多額の予算を導入してでもES適性検査を行う。『構成力』を発現しつつある者を発見する目的もあるが、『進化の種』に適合する者を見つけることも重要なのだ。
長年適合者が見つからなかった『進化の種』については、同盟国間で同じ数の『進化の種』を交換する場合もある。政治的な取引も含まれるが、自国に適合者がいないのならば新たな『進化の種』を得るために他国が有する『進化の種』を求めるのである。
それほど貴重な『進化の種』を一方的に盗まれた可能性が高いとあっては、関係者の首がまとめて飛ぶだろう。例え過失がなくとも、責任というものは取らなければならない。ES保管施設は防衛省の管理下にあったため、“上”では大騒動に発展している。
なんとか責任を逃れようと、現場にいた『ES能力者』達へ責任を被せようとした者もいた。しかし、その動きは“上”の一派を取りまとめる室町の手によって叩き潰されている。
今回の警備状況については不備もなく、イミテーションとすり替えられた手口や理由さえ不明。ましてや、貴重な『ES能力者』に責任を取らせてどうするというのか。降格などでは釣り合わず、“通常”の責任の取り方を『ES能力者』にさせるわけにはいかない。
『ES能力者』が辞職するのは、殉職した時だけだ。
結果として、警護についていた『ES能力者』達は配置転換。ES保管施設の管理責任があった数人の高官がまとめて“責任”を取ることになった。
『ES能力者』の保有数が少ない国ならば、『進化の種』は喉から手が出るほどにほしいだろう。一つ売り払うだけでも、巨額の富を得ることができる。運が良ければ、『ES適合者』を得ることもできる。
その場に集まった高官達に打開策はなく、捜査を続けることで『進化の種』が取り戻せることを祈るしかない。差し迫って重要なことは、ES保管施設の警備体制を厳重なものに変えることである。
人面樹の件も放置はできず、ES保管施設の警備の変更も放置はできない。源次郎はこれからのことを思い、心中だけで深々とため息を吐くのだった。
日本ES戦闘部隊監督部の会議室が重苦しい空気に包まれている頃、博孝達第七十一期訓練生達は修学旅行の予定通りに市街地に繰り出していた。昨晩の間に何が起きているかを知らない以上、それは当然だろう。人面樹の一件で修学旅行の継続も危ぶまれたが、生徒達には関係のないことだとして継続を許可されていた。
それは、生徒達への配慮ではない。人面樹との遭遇は生徒達に問題がなかったと宣言したにも関わらず、その宣言を即座に撤回したのでは何かしらの“問題”があったのだと公言するようなものだ。
結果として、“上”からは護衛達に『訓練生の警護を何事もなく勤め上げよ』というお達しが下されるだけとなる。『進化の種』が奪われたという問題は、知らせないままに。
「おお……さすがは東京だ。人の数が半端ねえ」
人面樹については気になるものの、目先の修学旅行を楽しもうと決意した博孝がそんなことを呟く。修学旅行の最終日に自由行動を許可されたのは、日本の首都である東京だった。
訓練校近くの街とは比較にならないほど栄えている、一国の首都。人の数も、建物の規模も、これまで見たことがないほどだ。みらいなどは目を輝かせ、忙しなく周囲を見回している。
移動の際は必ず小隊単位で移動し、護衛として一小隊辺り陸戦部隊員が一個小隊、空戦部隊員が一個分隊配備される。空戦部隊については数が足りないため、隊長である町田が一人で護衛につく。そして、第七十一期訓練生達の教官である砂原も護衛役として回された。
第一小隊の護衛として回されたのは、砂原である。陸戦部隊一個小隊と共に護衛につくその姿は、通常の階級を超越したものがあった。第一小隊の護衛には中尉がいたが、軍曹である砂原に対してまるで入隊したての新兵のような態度で接する。
軍制上、その中尉の行動はまったく以って望ましくない。しかし、かつては『零戦』の中隊長を務め、『穿孔』とあだ名される砂原のことを通常の下士官と同様に扱うことはできるはずもなかった。むしろ、歴史上の偉人か憧れのアイドルにでも遭遇したような態度で接する始末である。
「中尉殿、階級が下の者に対してそのような態度では、訓練生達に良からぬ影響を与えるのですが?」
もしもこの場にいたのが町田ならば、内心はどうであれ表面を取り繕うぐらいのことはしただろう。しかし、その中尉は反射的に最敬礼をすると、震える声で応答した。
「は、はっ! も、申し訳ございません!」
「……いえ、ですから、そのような口調は止めていただきたい。小官は一介の軍曹であり、今は訓練校の教官でしかないのです」
『ES能力者』は通常の軍組織とは異なるとはいえ、さすがに階級差を無視した態度は止めるべきである。砂原は態度と言葉でそれを伝えるが、中尉の態度が改まることはなかった。
「はっ、そ、その、小官は貴官の活躍振りを以前からお聞きしておりまして、勝手ではありますが尊敬しておりました! 護衛任務とはいえ、御同道できることを光栄に思います!」
むしろ、砂原と会話できたことで目を輝かせるほどだ。日本の『ES能力者』の中では、『武神』には敵わずとも高い名声を誇るのが『穿孔』である。かつては陸戦にも所属し、自力で独自技能となる『収束』を編み出し、『零戦』で猛威を振るった武官。
その中尉も『ES能力者』としてそれなりに長い時を生きてきたが、砂原に関する“逸話”はいくらでも耳にしてきた。砂原とかつて同じ部隊に所属していた陸戦部隊員などは、今では軒並み部隊の長を務めるか、空戦部隊の要職を務めている。
先輩の『ES能力者』達からも、実体験や噂として話を聞いたことがあるほどだ。中尉だけでなく、他の陸戦部隊員についても似たような態度を取っている。
砂原と護衛達がそんな会話をしている傍で、博孝達は東京の地図を広げて相談をしていた。町田などで慣れているため、特に注意を払わなかったのである。
「せっかくだから、思い出に残りそうな場所に行きたいよな」
「新宿とか渋谷、それか池袋なんてどうっすか? 鉄板っすよ」
「わたしは興味ないわ。なに? 服でも買うの? そんなの、訓練校に帰っても通販で買えるじゃない」
「新宿は行ったことないけど、わたしも買うものはないなぁ……」
「……おいしいもの、たべたい」
集合時間が来るまでは、自由に行動ができる。そのため詳しく予定を立てておらず、博孝達はバスから降りた上野駅で雑談をしていた。行き当たりばったりだが、行先を相談するだけでも楽しい。
「上野駅って、近くに何があったっけ?」
「えーっと……上野動物園とか?」
地図を眺めながら博孝が言うと、里香が上野駅の傍にある上野動物園を指差す。
「わたしは浅草寺に行きたいわ。雷門を見てみたいし」
「沙織っち、選択が渋いっすねぇ……まあ、俺は特別行きたい場所があるわけじゃないし、みんなに任せるっすよ」
沙織は浅草寺に興味を持っているらしく、恭介は沙織の選択に苦笑した。みらいは里香の言葉を聞き、目を輝かせている。
「……どうぶつえん……どうぶつ、いっぱい?」
「そうだぞ。動物がいっぱいいる場所だ」
「いきたいっ!」
動物園と聞いたみらいが、手を挙げて提案した。博孝達は顔を見合わせると、揃って苦笑を浮かべる。
「俺は兄貴としては、妹の願いを叶えたやりたいんだけど……」
「わたしは別に構わないわ」
「えと、わたしも……そのね、パンダを見てみたい」
「俺も構わないっすよ。こういうのは、気の合うダチと見て回る方が重要だと思うっす」
みらいの頼みを聞き、博孝達は特に異存なく了承した。誰も行ったことがないというのも決め手だった。
「とりあえず、午前中は上野動物園。午後は浅草寺にでも行くか」
「異議なしっす」
博孝がまとめると、他の小隊員も頷く。みらいなどは動物園に行けると聞き、目を輝かせて博孝の手を引っ張った。
「おにぃちゃん、はやくっ」
「おいおい、動物園は逃げないぞ?」
手を引かれた博孝は苦笑を深めて歩き出す。すると、砂原と話していた陸戦部隊員達もそれに続いて動き出した。さすがに護衛任務を忘れていたわけではないようだ。職務には忠実な陸戦部隊員達を見て、砂原は安堵の息を吐いた。
上野動物園には、様々な動物がいる。その中でも最も有名なのはジャイアントパンダだろう。平日にも関わらず、パンダ舎の周りは多くの人出で賑わっていた。
白と黒の毛並みが特徴的なパンダを一目見ようと、多くの人が詰めかけている。人気があるからと最初に見に行った博孝達は、あまりの人の多さに目を丸くした。
「さすがに人が多いな」
「……ぱんだは?」
周囲を見回しても、人しかない状況である。みらいは『パンダはどこだ』と博孝の袖を引きながら尋ねた。博孝はそんなみらいの頭を撫でて落ち着かせるが、僅かな違和感を覚えて周囲に視線を巡らせる。
敵意を感じたわけではない。ただ、周囲の人々が自分達に視線を向けていることに気付いたのだ。それは好奇心が大半であり、下手をするとパンダに向けるよりも視線が集中している。
「……見て、あの人達『ES能力者』よ……」
「うわ、本当だ……こんなに間近で見たのは初めて……」
「なんでこんなところに『ES能力者』がいるんだ? 暴れたりしないよな?」
ヒソヒソと、小声でそんな会話までされている。博孝達は訓練校の制服に身を包んでいるが、『ES能力者』であることを示すバッジをつけていた。そのため、周囲にいた人々も博孝達が『ES能力者』だと気付いたのだろう。
護衛として周囲に散っていた砂原や陸戦部隊員は私服に着替えており、場の風景に溶け込むようにして不審者がいないかを監視している。もしも人込みに紛れて生徒達に危害を加える者がいれば、即座に鎮圧するつもりだった。
周囲にいた人々の中には、博孝達が暴れないかを危惧している者もいる。しかし、無邪気にはしゃぐみらいの姿をみて、毒気を抜かれる者も多くいた。
訓練校近くにある街ならば、これほど騒がれることはなかっただろう。訓練生が休暇の日に繰り出しているため、毎日のように見かけるほどだ。だが、ここは東京である。『ES能力者』が都市の護衛として配備されているが、動物園の中で見かけることはほとんどありえない。
中には非常に好意的な視線を向けてくる者もいるが、おそらく家族か友人に『ES能力者』がいるからだろう。それでも、このままでは周囲の動物の代わりに見世物になってしまいそうだ。そう思った博孝達は、パンダを見ると足早にその場を去る。のんびりと観賞していたいが、その間は自分達が周囲から注目されるのだ。
「あんまり気にしてなかったっすけど、『ES能力者』ってやっぱり珍しい存在なんっすね」
人込みから抜け出すと、恭介が疲れたように言う。みらいは少しでもパンダを見れたことで上機嫌だが、里香や沙織も辟易とした表情を浮かべていた。
「もう少しゆっくりと見て回りたいわ……人が少ない方へ行きましょう」
「うん……そうだね」
沙織の提案に里香が頷き、第一小隊は移動を始める。近くに動物を見られる場所がある場合は足を止め、人が集まる前に移動。そうやって移動を重ねていると、博孝達は東園から西園まで移動してしまった。
砂原を含めた護衛は周囲を警戒しながらついてきており、博孝達は気を楽にしながら動物を観察する。
「……ぺんぎんさん」
「わぁ……可愛いっ。ペンギンのぬいぐるみとか売ってないかなぁ……」
「そうやって喜ぶ里香とみらいの方が可愛いわ」
里香やみらいはペンギンの姿を見て喜び、沙織が反応に困る発言をした。
「おい、見ろよ恭介……あの鳥、ただ者じゃねえぞ」
「おおう……なんとも鋭い眼光っすね。面構えも半端ないっす。アレが『ES寄生体』だと言われれば、俺は納得するっすよ」
博孝と恭介は、ペンギンが見られる施設の近くにあったハシビロコウの鳥舎を眺めてそんなことを話し合う。青みがかった羽を身に纏い、直立したまま一向に動こうとしないその姿。顔付きは精悍であり、真正面から見れば鋭い眼光が強く印象に残る。
もしも『ES寄生体』だと言われれば、納得をするだろう。それほどにハシビロコウの存在感はすさまじかった。
周囲からの視線を気にしないことにしたのか、博孝達は上野動物園を満喫する。一通り見て回ると、軽く昼食を取り、土産物を買うために売店へと向かう。様々な土産物が売られているが、やはり一番のお勧めはジャイアントパンダなのだろう。菓子に小物、ぬいぐるみなどが売られている。値段は相応だが、博孝達は『ES能力者』だ。毎月受け取る給料は使い道に困るほどであり、買おうと思えばいくらでも買うことができる。
「……おにぃちゃん、これ」
「ん? おお、それが欲しいのか。よしよし、兄ちゃんが買ってやるからな」
みらいがパンダのぬいぐるみを欲しいと“お願い”すると、博孝は即座に頷く。ハリドを倒したことで多額の報奨金を受け取ったが、毎月振り込まれる給料もほとんど使っていないのだ。そのため、使える時に使おうとみらいの願いを叶えることにする。
「博孝、ダダ甘っすね……」
「お? 恭介も同じやつが欲しいなら買おうか?」
「いらないっすよ! パンダのぬいぐるみをもらってどうしろって話っす!」
博孝が真顔で尋ねると、恭介は全力で拒否した。もちろん、博孝としても冗談である。そうやって博孝と恭介が騒いでいると、里香もパンダのぬいぐるみを手に取っていた。
「可愛い……うぅ、でも、部屋には他の子達が……」
里香の部屋には、ファンシーな小物が多い。以前博孝との初デートでプレゼントされたうさぎのぬいぐるみを筆頭に、数種類のぬいぐるみが存在した。
これ以上増えるのはどうだろうか、などと里香が悩んでいると、博孝が里香の手からぬいぐるみを奪取する。そして里香が何かを言う前にレジへ移動し、パンダのぬいぐるみ二つを購入した。
「ほい、プレゼント」
「え……その……」
店員にラッピングしてもらったパンダのぬいぐるみを手渡し、博孝が何でもないように言う。それを聞いた里香は、思わず受け取って良いものかと悩んでしまった。
「良いから受け取ってくれよ。里香には俺が体調を崩した時に世話になったし」
博孝としては、ハリドを殺して体調が不安定になった時に世話になった恩がある。そんなものがなくとも里香にプレゼントを贈ることに躊躇はないが、里香が受け取りやすいよう理由を付けたのだ。
里香は博孝とパンダのぬいぐるみを交互に見ると、やがて、頬を赤く染めながら大事そうに受け取る。
「あ、ありがとう……この子も大事にするね」
「どういたしまして。大事にしてもらえるのなら、そのぬいぐるみも喜ぶだろうさ。ほらみらい、お前にはこっちだぞー」
里香の感謝の言葉を受け取り、博孝は笑い返してからみらいへぬいぐるみを渡す。みらいはぬいぐるみを受け取ると、嬉しそうに笑った。
「ありがと、おにぃちゃん」
「良いってことよ。沙織もいるなら買ってくるぞ? 沙織にも世話になったことだし」
みらいの頭を一撫でして、博孝は沙織に話を振る。それを聞いた沙織は、近くにあったパンダの顔をしたクッキーに視線を向けた。
「わたしはぬいぐるみを大切にする性質じゃないから、こっちが良いわ」
「そこで食い物を選ぶのは沙織らしいというか……了解。ちょっと多めに買って、訓練校宛に送ってもらうか」
沙織が今一番欲しいのは、携帯している『無銘』を振り回す時間だろう。布製の鞘袋に入れて担ぎ、時折袋越しに感触を確かめているのだ。そんな沙織の様子に苦笑した博孝は、言葉通りにクッキーを大量に購入して訓練校へと送るのだった。
午後になって博孝達が向かったのは、沙織の希望である浅草寺である。馴染みのない者にとっては、『雷門が有名』と言えば通じるだろう。あるいは、『仲見世が有名』と言えば通じるかもしれない。
表参道から足を運べば、最初に視界に入ってくるのは切妻造の八脚門だ。門の両脇に設置された風神雷神と、『雷門』と書かれた巨大な提灯が特徴的である。正式な名前は風神雷神門だが、この提灯こそが『雷門』という通称を流行らせた理由だろう。間近で見ると、提灯の大きさに圧倒されるばかりだ。
「うおぉ……すげー」
「……おっきい」
「滅茶苦茶重そうな提灯っすね」
「でも、わたし達なら持ち上げられるわよ?」
「沙織ちゃん? 絶対に持ち上げないでね?」
初めて見た雷門に対し、博孝達は素直に感想を述べる。ついでにデジカメを取り出すと、護衛の『ES能力者』に渡して集合写真を撮ってもらった。雷門を背景にして撮影を行い、その出来栄えを確認してから門を潜る。
雷門を抜けた先にあるのは、仲見世と呼ばれる商店街だ。土産物や菓子を売っている店が多く、博孝達以外にも観光客や修学旅行生が大量に訪れている。独特の雰囲気があり、みらいなどは周囲の雰囲気に押されたように博孝の袖を引いた。
「おにぃちゃん、あれ」
「んん? 人形焼? 食べたことないけど、美味しそうな匂いだな」
みらいにねだられたため、博孝は近くで売っていた人形焼を購入する。とりあえず小隊全員分を購入すると、熱い内に手渡した。
人形焼と呼ばれるだけはあり、購入したものはそれぞれ形が異なる。雷門や五重塔を形取っているものもあれば、動物の形を真似ているもの、あるいは七福神をモチーフにしているものもあった。中には餡子が入っており、優しい甘さが食べる手を止めさせない。
「ふう……美味かった。帰りにもう少し買うか」
多少日持ちがする人形焼も売られており、土産に買って帰ろうと決意する博孝。出来立てのものも購入し、バスの中でクラスメートに配るのも良いだろう。
そうやって仲見世を散策しつつ、博孝達は宝蔵門を潜る。その先にあるのは、浅草寺の本堂だ。荘厳で巨大な本堂の前には、常香炉が設置されている。巨大な金属製の釜の中で線香が焚かれ、静かに煙を立てていた。
「おにぃちゃん、あれなに?」
みらいが不思議そうに常香炉を見る。常香炉の周囲には何人もの人がおり、自分の体に煙をかけていた。それが何を意味しているのか、みらいには理解できないのだろう。
「えーっと、アレはだな……里香、なんだっけ?」
一度も浅草寺を訪れたことがない博孝は、常香炉が何のために設置されているかわからず、知っていそうな里香へ話を振った。里香は少しばかり悩んだが、思い出したらしく口を開く。
「えっと、たしか……あの煙を体の悪いところにかけると、それが良くなる……だったような……」
自信がなさそうに里香が言うが、それを聞いた博孝は瞳を輝かせた。
「つまり……全身に浴びたら厄払いもしてくれるすごいアイテム?」
「厄払いがしたいなら、お祓いをしてもらったらどうっすかね」
つい先日、突然木の枝に殴りかかられるという体験をした博孝である。そもそも今年の初詣で引いたおみくじが『凶』であり、今年一年だけで何度死に掛けたことか。そのことを思い出した博孝は、無言で常香炉へと向かう。そして煙を全身に浴びると、虚ろな眼差しをしながら戻ってきた。
「これで、きっと、俺にも運が……せめて、来年には幸せなで穏やかな生活が……」
「『ES能力者』に穏やかな生活は来ないんじゃないかしら?」
博孝の切なる願いを、沙織が容赦なく叩き斬る。博孝は思わず地面に膝を突きかけたが、この程度で凹んでいては生きていけない。それでも膝が震え、博孝は無性に泣きたい気分になった。
「とりあえず、俺も煙を浴びとくっすかね」
「わたしも……」
「……けむたい」
「一応わたしも浴びておこうかしら」
そんな博孝を放置すると、恭介達も常香炉の煙を浴びに行く。全員が浴び終わると、今度は本堂へ移動した。本堂には巨大な賽銭箱が置かれており、それぞれ硬貨を取り出して放り込む。博孝だけは、いくら放り込むかで真剣に悩んでいたが。
「もっと平穏な生活を……お願いします……ここに何が奉ってあるかも知らないけど、お願いします……あ、それともっと『飛行』の技術を向上したいです……」
「むう……隣から切実な願い事が聞こえてきて、集中できないっす」
思わず願い事が口から漏れる博孝に、恭介は苦笑してしまった。恭介は博孝の願い事を聞くと、自分も早く『飛行』を上手く発現できるよう祈る。みらいは博孝達の動きを真似ているだけで、願い事をしているかは怪しい。里香は非常に真剣な様子で願を掛け、驚いたことに沙織も真剣な様子で何かを願っていた。
そして祈りを捧げ終わると、博孝達は本堂を後にする。時刻はもうじき夕方であり、集合時間が迫っていた。
「やべぇ……願い事って口に出したら駄目だった気がするんだけど……」
今更になり、博孝が後悔したように呟く。その呟きが聞こえた恭介は引きつったように笑い、みらいは不思議そうに首を傾げた。博孝は『自力でどうにかするか』と前向きに考え、里香と沙織に視線を向ける。
「二人も願い事をしたんだろ? どんな願い事だったんだ?」
話の切っ掛けとしては、当然の選択だろう。内容は聞けずとも、何かしらの願い事をしたとだけ聞ければそれで良い。そう思った博孝だが、質問を聞いた里香が徐々に頬を赤く染めていく。
「えと……ひ、秘密っ」
願い事を口に出さないという点では、正しい反応だ。そんな里香に対して、沙織は背中に背負った『無銘』を指しながら口を開く。
「わたしは願い事というより、宣言かしら。この『無銘』を扱うに足る『ES能力者』になるっていう宣言をしてきたわ」
「ははぁ……そいつはまた沙織らしいな」
里香の反応と沙織の言葉に納得を覚え、博孝は引き下がった。沙織の言葉は少々物騒だったが、『ES能力者』である以上はそれぐらいで丁度良いのかもしれない。
博孝達は雑談をしつつ、集合場所である上野駅まで足を運ぶ。上野駅には他の小隊の面子も集まりつつあり、あとはバスに乗って訓練校へ帰るだけだ。
五日間という、学生にとっては長い旅行。それでも、実際に体験してみればあっという間に過ぎた五日間である。人面樹に襲われるという問題もあったが、それ以外は総じて良い思い出になるだろう。
そうして、博孝達第七十一期訓練生達は帰宅の途へつく。楽しく、一生の思い出になるであろう修学旅行は、こうして幕を閉じることになる。後々振り返れば、笑いながら語れるであろう思い出。それを土産に、生徒達は訓練校へと帰還する。
「……あ、帰りに人形焼を買うの忘れてた」
バスの中で博孝の口からそんな呟きが漏れたが、それは些細なことだった。
修学旅行が終わり、博孝達は訓練生として再び訓練に励む日々が待ち受けている。在学中にも任務があり、卒業後は部隊への配属も待っていた。
『進化の種』が奪われたことを知るはずもなく、生徒達は訓練校へ帰還する。その事実が何をもたらすかを知るのは、まだ先のことだった。
どうも、作者の池崎数也です。
修学旅行“は”平和(作者基準)に終わりました。たまには(博孝達に)何も問題がない(作者基準)というのも良いのかな、などと思います。
これにて、修学旅行は終了となります。
キリが良いところまできたので、次話では以前ご意見をいただいた閑話を書ければ、などと考えています。
それでは、こんな拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。