レクチャー #3
そのビルには、防犯カメラなどという気の利いたものはなかった。
遠目に見ると、傾いでいるのではないかと思うほど、古ぼけたビルだった。
第三回目のレクチャー。今回は、最初から一人だった。
銃は、前日に受け取っていた。
***
児童公園とは名ばかりの、ベンチとブランコがあるだけの空き地で、田之上は瀬央に銃が入った袋を渡した。
「ちゃんと付き添ってくれるんじゃなかったのか?」瀬央が不満げに言った。内心は、不満ではなく不安だった。田之上なしで、自分はやれるんだろうか?
「お前が憎い相手を殺すときまでは、付きあえんぞ」田之上は言った。正論だった。「うまくいけば、これが最後のレクチャーだ。必ず成功させろ。今回は、携帯を持って行け。終わったら連絡しろ」
「いつも持ってたけど」
「身元が分かるものを持つなと言ったろう。捕まって身元が割れれば、家族が迷惑する」
「……そうだけど。でも、次は持って行っていいんだろ?」
「ああ、連絡に必要だからな。もし警察が来たら、携帯は撃ち壊せ。データをとれなくするんだ」
田之上は、次のターゲットについて説明を始めた。違法高利貸しで、情報屋を兼ねている。
そして、田之上が属する事務所の、裏切り者だった。ターゲットは一人の刑事に田之上の事務所の情報を売り、事務所から逮捕者が三人出た。
「奴の事務所が入ってるのは、古いビルだ。出入りに注意は要らない。だが、中には奴が自分でつけた防犯カメラがある。入り口のドアの前、ドアを開けた正面、奴の机の向かい。それと、壁の絵を監視するカメラの四つだ」
「壁の絵?」
「裏に隠し金庫がある」
「何そのベタな隠し金庫」
「単なる趣味だろう。隠す必要は無いんだがな。高利貸しだ、大金を事務所に保管するのは当然だろう。それ専用のカメラがある」田之上は話を続けた。
「カメラを全部撃って壊せ。システムじゃない、単体のカメラをつけてるだけだ。壊せば記録ごと吹っ飛ぶ。事の後でもかまわん。ターゲットは一発で殺すな、たっぷり痛い思いをさせろ。裏切りのツケを払わせてやる。憎い相手を殺すときの予行演習だと思え。
終わったら、連絡をよこして、そのまま帰れ。後始末はこちらがする。状況を見て、成功かどうか判断する。銃は持ってろ。人に、特に家族には見つかるんじゃないぞ」
「その後は?」
「合格なら、満タンの弾倉を一つやる。それで憎い相手を殺せ」
「不合格なら?」
「状況による」
「たとえば?」
「足が付くかもしれんし、ミスをこちらで始末するかもしれん。何より、お前がし損じる、ということもある」
確かにそのとおりだ。瀬央は二回目のレクチャーで、自分がいかに運が良かったかを実感していた。
「それで、不合格ならレクチャーは続けてくれるの?」
「足が付かなければな。そういう約束だ」
瀬央は少し安心した。失敗しても捕まらなければ、田之上とのつながりは切れずにすむわけだ。そう思い、瀬央は自分のその考えに驚く。やくざとのつながりを切りたくないなど、どうかしている。
いや、事務所に向かったときからもう、どうかしていたのだと瀬央は思い直す。まともな人間は、復讐のために相手を殺そうとは考えないだろう。ましてや、その練習のために自分と無関係な人間を殺すなど。
「明日は、付き添わないが近くにはいる。危険があればすぐ連絡しろ。必要なら、こちらからも連絡する。」田之上はそう言い、予定時刻の書かれた目的地の地図を瀬央に渡した。
***
瀬央は古いビルの三階まで、階段で上がる。
廊下を見ると、天井に一カ所、監視カメラが見えた。
あそこだ。
瀬央はカメラの下のドアへ進む。《坂田金融》と書かれた紙がドアに貼られていた。ドアをノックして、返事を確認し、ドアを開く。
「こちら、坂田金融さんでいいんですよね?」
「随分若いお客さんだな」その高利貸しは、客の若さに驚いたが、疑いは持たなかった。「まあ、座って。で、いくらいるんだ、坊や?」
「あんたの命」
瀬央はそう言うと立ち上がり、銃を取り出した。坂田の細い目が丸く見開かれる。坂田が机の抽出を開けきるより早く、瀬央は、一回目の引き金を引いた。
坂田の右肩に赤いシミができ、坂田が抽出から出しかけた銃が床に落ちた。瀬央は素早くその銃を左手で拾い、ベルトの背中側に差し込む。
次に、坂田の左足を瀬央は撃った。これで、坂田は自力で部屋からは逃げられない。室内にある三個のカメラを撃つ。廊下のカメラは、最後に壊せばいい。
「ひ、あ、ああ、」
痛みと殺される恐怖に、坂田は奇妙な声を上げた。床に血の筋を描きながら、金庫がある壁へと這う。瀬央は、無表情に坂田を見た。違法高利貸し、いわゆるヤミ金だ。田之上の事務所とは、取り立てでつるんでいたのだろう。自分の脛に新しい傷を作りたくなくて、田之上の事務所を売ったわけだ。
「頼むから、殺さないでくれ。欲しい物は、何でもやる」
坂田が言った。
『ターゲットは一発で殺すな。たっぷり痛い思いをさせろ。
憎い相手を殺すときの予行演習だと思え』
瀬央は、田之上の言葉を思い出す。
瀬央は銃を下ろしてみせたが、それは撃たないという意思表示ではなかった。殺すことを先延ばしすれば、坂田が苦痛を感じる時間は長引く。
それに、瀬央が欲しい物は、生きた坂田には用意できなかった。
「金か? 情報か? 言ってみろ」痛みにあえぎながら、坂田が言う。
「何でも? 本当に?」瀬央は訊いた。こいつを殺せば、銃を自由に使える。
「金か? 金だろう? いくら出せばいいんだ?」
金だけが人の望み、か。坂田の言葉と助かったと言わんばかりの表情を、滑稽だと瀬央は思う。その滑稽さに、瀬央は薄く冷たく笑った。
ゆっくりと、降ろしていた右腕を持ち上げた。その手には当然、銃が握られたままだった。銃の重みをしっかり支えるため、グリップを握った右手に左手を添える。
坂田の表情が再び強張っていくのを、瀬央は笑ったまま見ていた。あいつ、柴田もこんな顔をすればいい。冷ややかに笑いながら、確実に戻れない自分を瀬央は強く意識する。
『もう降りられないとこ、来てるだろが』
初めてのレクチャーの後、自分が田之上に言った台詞を瀬央は思い出した。あの時はそう思っていた。
瀬央は今、《降りられない》ことと《戻れない》ことの間にある、目に見えない深く暗い谷の存在を感じていた。自分は、その谷を越えてしまったのだと瀬央は思った。
でなければ、谷底へ堕ちたか。
額を目がけて、引き金を引く。
坂田は、目を開けたまま動かなくなった。
「欲しい物は、確かにいただきました」瀬央は、死体に向かって言った。
銃を、自由に使える権利。
瀬央は、銃を履いているコットンパンツのベルトに挟み込んだ。本当は、危険な持ち方だった。銃が暴発すれば、自分の体を傷つけることになる。
最も安全かつ効率の良い銃の持ち歩き方は、利き手側の腰ににホルスターを付け、そこにに収めることだ。日本では警官や自衛官などの公職で銃を持つ人間以外、まずあり得ない持ち方だった。
次に瀬央は拾った坂田の銃を取り出し、着ていたTシャツの裾で丹念に指紋を拭い、机に置いた。その銃を持ち帰るという考えは瀬央にはなかった。処分に困るだけだ。
Tシャツを整えて銃を隠すと、瀬央はコットンパンツのポケットからイヤホンを引き出した。耳に差し込み、イヤホンのつながったスマホを取り出す。
数度のコールで、田之上が出た。
「完了」
瀬央はそう一言告げると、電話を切った。
そのままスマホを操作して、あのバラードをかける。出来ることなら、沙織とカーラジオでこの曲を聞きたいと瀬央は思った。来年の春の終わりには、免許が手に入るはずだった。
死体を残して、瀬央は事務所を出た。まだ完了ではなかったことに、そこで瀬央は気づいた。誰もいない廊下で、瀬央は最後の防犯カメラを撃つ。
破片と記録が、辺りに散った。