交渉
「序」で書き忘れました。
この小説は、各章が時系列順ではありません。
読みづらい構成を採用したことをお詫び申し上げます。
その雑居ビルの、2階に上がる階段の入り口には、黒地に金の毒々しい看板が掲げられていた。
少年は看板を見上げ、書かれた文字を確認してビルに入っていった。
階段を上がり扉を開けると、中にいた男達が一斉に少年を見た。チンピラから少し格上と思われる男まで、皆、いかつく人相が悪い。
「なんだぁ? このガキ。来るところを間違えてるぞ」
いかにも下っ端といった風情の、若い男が少年にすごんで見せた。
「ここは子供の使いで来るような所じゃない。さっさと出て行け」
「そう言うあんたも、おつむの方は相当ガキみたいだけど」少年は応じた。「これでも客なんだ。あんたじゃ話にならなそうだから、上の奴に話つないでくんない?」
「このくそガキ! 舐めた口利くんじゃねぇぞ!」
少年よりほんの少し年上のその若い男は、いとも簡単に激高した。周りの男達はにやついてその様子を見ている。ちょっとした娯楽といった様子だった。
「ガキに舐められるのは、あんたの人格の問題じゃね?」
少年は平然と言った。
この一言に完全にキレた男は、少年の胸ぐらをつかんで引き寄せ、上着の下に隠してあった銃を少年に突きつけた。
「それ、売って欲しいんだけど」
少年は突きつけられた銃を見てそう言うと、パンツのポケットから通帳を取り出した。
「型式とか全然知らないんだけど、選べるなら軽くて素人でも扱いやすいのがいい。サイレンサーと、撃ち方のレクチャー付きで」
若い男は顔を真っ赤にして、少年を引き寄せた手を怒りに震わせていた。少年はかまわず、「ガキが手一杯バイトして稼いだ金なんだ。足りないとか、ケチくさいこと言うなよ」と続けた。
一触即発のその場で、おそらくは一番上の立場にいるらしい男が、若い男を制した。
「見せてみろ」
男は、険しい顔に似合わない穏やかな声でそう言い、少年の手から通帳を受け取った。
若い男は不満げに舌打ちし、「田之上さんのおかげで命拾いしたな」と唸るように言うと、少年を解放した。
『田之上さん』と呼ばれた男は、少年の通帳を開き、そこに書かれた金額を見ながら言った。
「撃ち方のレクチャー付き、だったな」
「ああ」
「何を撃つつもりだ?」
「人間だよ」少年は田之上の質問にあっさりと答えた。
「おもしろ半分か?」
「まさか。憎いから殺すんだよ」
「殺すだけなら、刃物で充分だろう」
「それじゃ予想の範囲内だよ。複数相手にもみ合いになったら、勝てるとは限らないし。間違いなく殺したいし、殺す前に《そこまで恨まれてる》事を実感させたい」
「相手は複数、かつ、お前に憎まれてることを理解している、ということか」
「そゆこと」
田之上は通帳を閉じると、そこに書かれた少年の名字を、声に出して読んだ。
「山内……」
下の名をどう呼べば良いか分からなかったようで、語尾が戸惑っていた。
「セオ」
少年は自分の名前の呼び方を伝えた。
「山内瀬央」田之上は少年をフルネームで呼び直した。通帳を閉じて、少年に返す。「銃は、貸してやる」
「え?」少年は聞き返した。
「田之上さん! 何言ってるんですか!」少年に馬鹿にされた若い男が、大声を上げた。
他の男達も、一様に驚いた表情を浮かべた。
「ただし条件がある」田之上は続けた。「レクチャーは実践だ。見ず知らずの、なんの感情も抱いていない相手を殺せるか? 憎いわけでも恨んでもいない相手だ。相手には、守るべき、愛すべき人間がいる。そういう相手を殺せるか?」
「俺を、えーと、《鉄砲玉》だっけ、に使おうって訳?」
「そういうことだ。嫌なら、とっとと帰れ」
少年の顔に一瞬、それまでにない真剣な表情が浮かんだ。
死んでしまった少女の顔が、少年の脳裏をよぎる。彼女がそれを喜ばないことは承知していた。
これは自分自身の問題だ、そう少年は思う。だからここまで来たのだ。
「レクチャーの間に逮捕されるのは嫌だな。肝心の相手を殺せない」
「ちゃんと付き添って指導してやる。逃げ方も」
それは事実上、田之上自身が鉄砲玉になるのと同じだった。
少年と男は、互いに値踏みするように見つめ合った。先に目をそらしたのは、田之上の方だった。
「わかった」
「なら帰れ」
「冗談言うな。最初のレクチャーは、いつだ?」
田之上は、もう一度少年を見つめた。それから「おまえ、携帯は持ってるか?」と訊いた。
「当然」少年は答えて、ポケットからスマートホンを取り出した。
「今時のガキは……」それを見た田之上はつぶやくように言って、自分も携帯を取り出した。ガラケー。
「これぐらい使えなきゃ、時代においてかれるぜ、おっさん」
「田之上だ。それぐらい覚えろ、くそガキ」ナンバー交換。「近いうちに連絡する。それまでに、覚悟を決めておけ。今日はもう帰れ」
「覚悟は出来てる」
「それでもだ」
「……わかった。話のわかる奴がいて助かったよ、おっさん」
「田之上だ」男が言った。
田之上が少年を帰すと、事務所の中で小さな騒動が起こった。
「田之上さん、何考えてるんすか!」
「あんなガキに、本当に人が殺せると?」
「田之上さんが付き添うと言うことは、その殺しが我々の仕事だと警察に知らせるようなものですよ。相手のバックにも」
男達は、田之上に言いつのった。
「お前ら、見なかったのか?」
「何をですか?」田之上に意見した男が、質問に質問で答える。
「あのガキの目だよ」
「目、ですか?」
「ああ。ここに来たときから、本気だった。奴は殺れるよ、少なくとも、自分の的を殺るまではな。その先は分からんが」
男は口をつぐんだ。彼も、田之上と同じ印象を、少年に対して持っていたからだった。
「我々はいつでも人手不足だ。自分から仕事をしてくれるというんだ、好都合じゃないか。育てる甲斐はある」
田之上は言った。それが本気なのか言い訳なのかは、その場の誰にも分からなかった。田之上自身にも。