覚悟
瀬央は奥の部屋へ入る扉の横にいた。
五対二で始まった銃撃戦は、ゼロ対一.二になっていた。井口が瀬央の横で、腹を押さえていた。
一.二はもうすぐ一になるだろう。瀬央の左腕の負傷を考慮すれば、一ではなく0.八か。両腕で銃を支えられなければ、命中率は低下する。
「井口さん」
「……痛ぇんだ。しゃべらせるな」
「すみません」
それは、しゃべらせた事ではなく、負傷させた事への謝罪だった。
腹部に二発。井口は保たないだろうと瀬央は思い、自分のふがいなさに苛立った。
そのとき、瀬央のポケットでスマホが振動した。表示を確認する。親なら無視するところだったが、画面に表示された番号は田之上のものだった。慌てて出る。
「おっさん、井口さんが怪我した。腹を撃たれてる」
「余計な、ことを……」言うんじゃない、まで井口は言うことが出来なかった。瀬央は唇を噛む。
「井口がやられただと? お前は?」
「撃たれてたら、しゃべれねえよ」左腕の傷のことは伏せた。井口に比べれば、かすり傷だ。
「今、どんな状態だ?」
「大部屋は終わったけど、奥の部屋が静かすぎる。ホントにいるのか?」
「わからん。いるなら護身のために腕利きを連れているだろう。一人で入るな。戻ってこい」
「何言ってんの、おっさん」
『戻ってこい』という田之上の言葉に、瀬央は驚いた。
「取引現場にサツが来た。もうすぐそこにも行くはずだ。お前は面が割れてない。今なら間に合うかもしれん」
「こんな時間に職質受けたら一発だよ」瀬央は答える。警官の前を素通りするには、左腕の傷は目立ちすぎた。
「井口さんも置いてけないし、それに、俺が本物の鉄砲玉なら、『何をおいても殺れ』って言うんだろ?」瀬央はそう続けた。それは、二度目のレクチャーで田之上が瀬央に言った台詞だった。
「瀬央、戻れ!」田之上が電話口の向こうで叫ぶ。
「田之上さん」瀬央は、初めて田之上を名前で呼んだ。「いろいろ、ありがとう」
瀬央はそう言って、田之上の声で自分を呼び続けるスマホを床に落とした。スマホに狙いをつけて引き金を引く。
『もし警察が来たら、携帯は撃ち壊せ。データをとれなくするんだ』
三度目のレクチャーで教わったことを、瀬央は忘れていなかった。
遠くに、パトカーのサイレンが聞こえる。
どのくらい壊せばデータが取れなくなるか、瀬央には分からなかった。原形を留めなくなるまで撃ち続ける。それは、家族のためだった。息子が大量殺人鬼だと報道されたら両親がどんな目に遭うか、瀬央にも想像するのは容易だった。
もしデータを取られて通話記録が調べられても、番号で足がつくような携帯を田之上が使っているわけはない。そう瀬央は信じることにした。
瀬央は砕け散ったスマホを眺める。あのバラードがもう聴けなくなったことが、心残りだった。
瀬央は残りの弾丸が少なくなった銃を捨て、井口の手から銃を取った。井口はほとんど無駄弾丸を撃っていない。井口には、それに抵抗する力は残っていなかった。
瀬央はゆっくりと立ち上がり、ドアのノブを取った。部屋の入り口の横に立ったまま、勢いよくドアを開ける。案の定、数発の銃弾が、扉を開けた空間を飛び抜けていった。
銃声が止む。瀬央は入り口の横から腕を伸ばして、相手を撃った。
***
「瀬央! 返事しろ!」田之上は携帯に向かって叫んだ。「瀬央!」携帯から、通話が切れた後の発信音が空しく田之上の耳に届いた。田之上は黙って携帯を折りたたむ。
「田之上さん…」
皆が無言の中、五十嵐が田之上に声をかけた。
田之上は顔を上げ、指示を出した。
「瀬央からの情報だ。井口が腹を撃たれたそうだ。井口が向こうの事務所で見つかれば、うちには殺人教唆を理由に強制捜査が入る。押収されそうなものは片っ端から運び出せ。」
じきに取引現場組が戻ってくる。警察が欲しがるような証拠物件の隠滅は、なんとか間に合わせられるだろう。
だが、井口と瀬央は、おそらく戻ってこない。
田之上はこれまでに瀬央と交わした会話を思い出し、それを頭から振り払う。今は、感傷に浸っている暇はなかった。
「警察に少しのお土産を用意しましょう」代表が、唐突にそう言った。
「誰かを警察に売れと?」田之上が応じた。
「組織のためです。強制捜査で何も出なければ、何かが出て来るまで、警察は我々から片時も目を離さないでしょう。それでは今後の活動に差し障る。捜査では何も出さず、遠からず末端を小出しにします。」
「なら、私が逮捕されます」そう、田之上は言った。組員や協力者を道具と見なすような若い代表の言葉は、今の田之上には不愉快を通り越していた。
「人選は私がします。あなたには人望がある。失うわけにはいかない」
田之上は若い代表をきつく睨む。
代表は、
「生き残るためです。私も本意ではない。恨みたかったら、そうしてくれてかまいません」
そう、静かに言った。いつもの嫌みな口調ではなかった。田之上は、それ以上反論しなかった。
***
瀬央が撃った弾は、相手の左肩に当たった。男の体が揺らぐ。瀬央は部屋へ飛び込むと、男に向かって二度、引き金を引いた。一発は外したが、もう一発が男のみぞおちに当たった。男が銃を落として倒れる。
瀬央にとって幸いなことに、部屋にいたのは、その男と、豪華な机に向かった男の二人だけだった。
机に向かった男は、自ら銃を取って身を守ることもせず、呆然と成り行きを見ていた。
瀬央は何の言葉もかけず、机に向かった男に向かって発砲した。事務所で、田之上に見せられた写真の男だった。写真を見たときは、レクチャーと同じで、相手に特別な感情はなかった。今は『何の恨みもない相手』ではなかった。仲間を撃った男の上司だ。
額に穴を空けたその男を、瀬央は冷たく燃える目で一瞥して、背を向ける。
井口はまだ息をしていた。瀬央は事務所にある電話の受話器を取った。救急車を呼べば、間に合うかもしれない。パトカーのサイレンは、もうすぐそこまで来ていた。いっそパトカーで運んでくれればいいと瀬央は思う。