第一幕/4
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結論から言うと、凛はスクール水着を着るのは断った。
スクール水着を着て下校するというのは、男としてという問題以前に人間として踏み越えてはいけない一線だと頑なに主張し続け、なんとか却下することに成功したのだった。
魅魚は「せっかく、独自のルートであなたの体格に合うスク水を調達したのに……残念ね」と文句を言っていたが、最早そんなことは関係ない。
ちなみに、彼女の言っていた心の準備とは『凛を女装させる』という自分の趣味のため『凛に人の道を踏み外させてしまうことを決心する』ということだったらしい。
そんなこと勝手に決心しないでよ! と、いつも言いくるめられてしまう凛のわりには一所懸命の抵抗を見せて、何とか災難を逃れたのだった。
しかし。
帰路についた二人は、ともに女子制服姿である。
魅魚に「スク水を着ないなら、代わりにこっちを着なさい」と渡されてしまったのが、数日前に凛が着せられたものと同じ、霞西高校の女子制服だった。これも魅魚が独自ルートから調達したものらしい。
頑張って断ろうとはしたものの、はじめにひとつ頼みを断った手前、次もまた断るのは気が引けるという心理が働いてしまい、なおかつ巧みに言いくるめてくる魅魚の話術によって、結局このあり様なのだった。
放課後で時間も遅くなっていたため、人目に付くことなく学校を出ることはできたが、それでも凛の羞恥心はかなりのものだった。
真っ赤にした顔を俯かせ、ためらいがちな足取りの凛を見て、魅魚は非常に満足そうではある。凛の恥ずかしがる様子が魅魚の嗜虐心を刺激しているのではないだろうか。
「ほら、見なさい。あなた、化粧してなくても充分かわいいわよ」
言って、折りたたみ型の手鏡を差し出す。
渋々受け取り、凛は鏡を見た。
当たり前だが、そこには凛の顔が映し出されている。髪型は、ヘアピンでアクセントをつけながら整えられている。もちろん魅魚がやったことだ。
即席ではあるものの、女顔の凛にはぴったり似合っていた。女子生徒らしく、可愛らしく見せるという意味において。
「うう……」
自然と、悲観的な呻き声が漏れた。
よくよく考えてみれば女子の制服を着て外を歩くのだって充分に人としての一線を越えているのではないだろうか……と凛の頭に一抹の不安が過ぎる。
(だけど……)
鏡を見ながら凛は思った。
(僕って、本当に女の人みたいな顔をしているなあ……)
普段は特に何も考えない無造作な髪型だが、今は魅魚によるアレンジが加えられている。
髪を下ろし、クシで丁寧に梳いたあと、ピンクのヘアピンで前髪を留めただけという簡単なものでも、充分に女性に見えるのだ。肌がきれいということもあるが、なによりも顔の造りそのものが女性的だ。
中性的ともまた違った、まるで男の子の顔として描き始めた絵を途中から女性に描き直したような、そんな顔立ちだった。
(なんで僕はこんな顔なんだろう……)
決して自分の顔が嫌いなわけではないが、それでも不思議に思う気持ちは確かだった。
「どうしたの。黙りこんで」
魅魚の声に、はっと気づけば、そこは交差点だった。
「それじゃ、わたしはあっちだから。また明日ね。うふふ」
楽しそうに、策士めいた笑みを浮かべると魅魚は交差点を渡っていく。後ろ手に組んで鞄を持つ小さな後ろ姿が、さらに小さくなっていく。
ぼうっとしたまま魅魚を見送り、彼女の姿が見えなくなったところで、凛はひとつの事実に気がついた。
「どうしよう……! 僕、ひとりだ」
この状態で、男が女装して外を歩いていることがバレたらどうなってしまうのだろう、と不安が急激に膨らみ胸の内を制していく。
寒いからか今は幸いにも通行人はいない。ときおり車が通り過ぎるが、さすがに車内から気付かれることはないだろう。しかし、いつ誰がここを通ってもおかしくはないのだ。
もし気づかれれば通報されてしまうだろうか。「きゃー変態よー誰かー」と警察に連絡され、しまいには『女装好き高校生、街を練り歩く!』なんて報道をされてしまうだろうか。そうなっても元凶である魅魚はくすくす笑って傍観者に努めそうで怖い。
そんなことを考え、凛は最も単純な結論『とにかく急いで帰る』を導き出した。
鞄には自分の学制服が入っているため、公園のトイレにでも駆け込んでそこで着替えるという手もあるが、公園へ行くには今来た道を戻る必要があるし、ここからなら自宅のアパートの方が近い。他に着替えができそうな場所も思いつかない。さすがにコンビニやファーストフード店のトイレを借りるわけにもいかない。
(トイレで変身するヒーローってけっこう大変なんだなあ……)
凛は、微妙にズレた感想を抱きつつ、家へ帰るべく歩き出した。
――ふと、胸が苦しくなった。
(ああ……)
凛は胸に手を当てる。決して肉体的な痛みがあるわけではない。これは一人になったことによる孤独感が生み出す精神的な心の痛みであった。
ときおり凛の胸はこのように痛みだす。それは決まって心が独りを感じたときだ。
凛は幼い時に両親を亡くしている。親戚に引き取られるという家庭環境で育ち、その延長で今は一人暮らしをしている。そんな背景を抱える心の孤独が引き起こす心因性の痛みなのだった。
昔はとくに酷かった。友達のいなかった凛は常に孤独状態にあり、常に胸の痛みに苛まれていた。高校へと進学した今でこそ、魅魚や幸太郎という友人ができ、痛みが発現することも少なくなったが、それでも完全に解消されたわけではない。
友人ができた今でも、心のどこかで一人ぼっちを、孤独を感じてしまうのだ。それは凛の求めている安らぎが友人関係よりさらに深い心の繋がりからでないと生まれないものだからなのかもしれない。
「気にしちゃいけない。早く帰ろう」
凛は手で胸をとんと叩き、頭を左右に数回振る。それを気分転換がわりにして、再び歩き出した。
――と。
「え?」
鼻の頭に冷たい感触がした。小さく柔らかい何かが落ちてきたような――水のようで、それでいて形のある冷たいもの。
それが空から降ってきたのだと気づき見上げれば、
「こ、これは……?」
雪が降りだした。
いつの間にか曇天のため灰がかっていた空から、真っ白な無数の雪が音もなく舞い降りていた。
凛は疑問に思った。当然である。確かにここ数週間は寒い日が続き、日を追うごとに冷え込んでいくようになってきていたが、それでも季節は夏だ。七月初旬のこの時期、雪が降るというのは度が過ぎている。異常でしかない、と考えた――そのとき。
ふと、視線を感じた。
凛は、前方に誰かがいることに気づき、顔をあげる。
「な……っ」
凛の位置からほんの五メートル分ほど離れたところ、横断歩道の真ん中に一人の女性が立っていた。
彼女はゆっくりとこちらへ向かってくる。
ひと目見て、普通じゃないと感じた。
その女性は裸足で、純白の和服に身を包んでいた。色が白という点もそうだが、それだけでなく大きなスリットが入っているという点でも変わった和服であった。光沢のある黒い帯もまた、白い和服によく映えている。
「…………」
一歩。
無言のまま女性はゆっくりと近づいてくる。スリットからのぞく白い足は、今降っている雪と同化してもおかしくない程にまばゆく優美な白。
そして最も特徴的なのは、腰まで伸びた銀色の長髪だった。鮮やかな銀のそれは決して老いややつれを感じさせる白髪のようなものではなく、彼女の美しさを飾り立てるように寒風に乗って優雅に揺れていた。彼女の姿はあまりにも美しく妖艶で、異質さに危険を感じつつも、思わず見惚れてしまうほどだった。
「…………」
また一歩。
年上なのは間違いないが、具体的な年齢はわからない。美少女と美女の中間のような、どこか可愛らしさを残した端正な顔立ち。その瞳には髪と同じ銀色の光が宿っていた。
不思議な光を奥に宿した銀の瞳。
いや、光って見えたのは気のせいだったかもしれない。しかし、そう感じるほどに美しく透き通った、まるで人の心を吸い込み虜にしてしまうような、妖しい光。
いつの間にか、その女性は凛の目の前に立っていた。
目と鼻の先に、圧倒的な美を持つ彼女の顔がある。しかし、その表情はどこか虚ろで――。
「――――!」
女性の銀色の瞳に強く見据えられた瞬間、まるで身体が凍り付いたように動かなくなった。
逃げ出したかった。しかし、逃げられない。足は動かない(まるで凍って……)。身体も動かない(凍ってしまったみたいだ……)。
「ぁ、あ……っ」
声にならない声で凛は必死に叫びをあげる。
氷のような冷たさを感じさせる銀色の瞳、美しい銀の髪、凍り付けのように相手を動けなくする力、雪を背景に佇む純白の和服姿。これは――。
凛は思った。
まるで――雪女じゃないか、と。
そのとき女が小さく口を開いた。
金管楽器のように透き通りながらも、しかし衰弱しきった声で、
「飯を……くれないか」
「……え?」