第四幕/2
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雪音は公園にいた。もちろんひとりだ。
雪の降る公園には冷たい風が運ばれてくるが、それが雪音の怒りを冷ましてくれることはなかった。
雪音は凛が男だったということを知り平静を保てなくなり、人気のないこの場所に逃げ込むようにして入ったのだった。そして二本の鎖で吊り下げられた椅子――ブランコに腰を下ろし、湧き上がる怒りを堪えていた。
(――男は、大っ嫌いなのだ)
雪音は頭の中で延々と同じ言葉を繰り返していた。
自分は男が嫌いだ。大嫌いだ。だから、男である凛も嫌いだ。大嫌いだ。
たしかに女として接してきていたときの凛には好意を抱いていたが、それは偽りの姿に、虚像に抱いていた感情にすぎなかった。凛は男だ。だから許せない。苛々する。
そして、もうそんな奴のことは考えなければいいのに、なぜか何度も繰り返し思い出しては、怒りを再燃させている自分に対しても苛々が募る。
凛の顔が浮かんでは消えて、また浮かぶ。忌々しく感じ思考の隅に追いやったつもりが、気づいたときには再びひょっこりと姿を見せている。それを反復するたびに怒りは輪をかけて激しくなる。熱く灼けるように、雪女である自分の身を溶かしてしまいそうなほどに感情が煮えたぎる。
本当に苛々する。なぜ、こんなにもあの男は自分の気持ちに大きく影響してくるのか。心の中を占拠するのか。
「う~……あぁーもうっ!」
癇癪を起したように叫び、頭を抱えて俯いた。
自分の男嫌いの原因になった出来事――あのときもその男に腹を立てたが、ここまで怒りがこみ上げてくることはなかった。
こんな感情は初めてだった。
何かに怒りを覚えたことなら何度もある。それでもこんなにも深く根を張り、薄れる気配のない怒りではなかったのに。どうして――。
「同じ日に二度逢うなんて、奇遇ね」
不意にかけられた声に雪音は振り向いた。
そこにいたのは、自分に高校の場所を教えてくれた少女だった。
「学校には、無事にたどり着けたのかしら」
やはり小柄で幼げな容姿には似合わない冷静な口調で尋ねると、少女は雪音の隣のブランコに座った。
「うむ。そなたの説明が的確だったおかげでな。しかし……たどり着けなかった方がよかったのかもしれぬ」
雪音の声は暗く、重く沈んでいた。
さすがに二度顔を合わせただけの相手に八つ当たりをするようなことはないが、かといって今の気持ちを隠して会話ができるほど雪音は器用じゃない。それに、もしその器用さを持っていたとしても、隠しきれるほどこの感情はちっぽけなものでもなかった。
「もしかして、喧嘩でもしたのかしら。顔にそう書いてあるわ」
まるで全てを見透かしているかのような表情と雰囲気だった。
「むう。喧嘩ではない。うちが一方的に突き放したのだ。しかし、この件に関しては……あれが悪い! うちは、あれを信じておった! なのに……なのにっ! ――ああ。いや、すまぬ。こんなことをそなたに話しても迷惑なだけだな」
つい熱が入ってしまい、感情的になりかけたのを自覚した雪音は慌ててそれをやめた。
「気にしないでいいわ。むしろ……良ければ聞かせてくれないかしら、その話。それに、誰かに話すとすっきりすることもあると思うの」
少女は優しくほほ笑んだ。ほんの一瞬の微笑ではあったが、あまり感情の読めない相手だと思っていただけに、その何の裏もない素直な笑みに雪音は妙に引きこまれてしまった。
少しだけ話してみようと思った。笑顔に魅せられたというだけでなく、この少女は精神的に非常に成熟していると思った。自分はただ長い年月を生きてきただけで、俗世間のことや、とくに他人との関わりについては非常に疎い。
それに少女の言うとおり、誰かに話せばすっきりする気がした。
「んむ……その、だな」
雪音は事の次第を、順を追って説明した。
さすがに自分が雪女であるということは伏せたが、とある事情で偶然出会った女性の家に居候していたこと。そこでの生活。冷凍コロッケが美味中の美味だったこと。しかし今日学校に会いに行ってみたら、その女性が実は男だったと発覚したこと。そして雪音は彼を突き放す言葉を告げ、今はこの公園で……湧き上がる苛立ちと奮闘していたこと。
ときに歓喜し、ときには消沈し、最終的には奮起しながら、ありのまま思うままに事の次第とその感情を吐露した。そして最後に、
「男は大嫌いなのだ。だから、あれのことも大嫌いなのだ。記憶から消し去ってしまいたい程だが……そう思えば思うほど何度もあれの顔が頭に浮かんできて、いつまでも苛立ちが治まらんのだ」
そう締めた。その言葉通り、雪音の表情には不機嫌の要素しかない。
「そう……」
少女は小さく相槌を打つと、何か考えるように目線を雪音から外し、数秒の間を置いてから再び雪音の目を見た。
そして変わらぬ落ち着いた口調で雪音に語りかけた。
「わたしにあなたの気持がわかるとは言えないわ。それはわたしがあなたじゃないから。あなたの感情はあなただけのものよ。けれど、想像すること、あなたの気持を推し量ることならできると思うの」
それは曖昧な言い方なだけなのかもしれない。どうにでも受け取れる使い勝手のいい言葉なのかもしれない。けれど今の雪音には、ただ単純に気持ちをわかると言われるよりもずっと、理解してもらえているような気がした。
「確かにその男はあなたに嘘をついたのかもしれないわね。それは、いけないことだわ。けれど……あなたもひとつだけ――嘘をついているんじゃないのかしら」
言われ、雪音はまさかと反論する。身体をブランコから乗り出して、綺麗に整った眉を吊り上げる。
「そんなことはない! うちは何ひとつ偽ってなどおらぬ! そなたにはうちの正直な気持ちを話しておるのだぞっ! 今伝えたことも、ひとつとして偽りのない事実だ! なのになぜ……!」
せっかく理解者を得られたと思ったのに期待と違う返答が来て、雪音は不本意だと言わんばかりに語気を強めた。
しかし雪音の勢いに一切怯むことなく、少女は話を続ける。
「誤解しないで。嘘をついているのは、あなたがわたしに対して、ではないわ。そして、あなたがその男に対して、でもない」
雪音を見る少女の瞳に一層力がこもり、
「――あなたが、あなたに対して、よ」
少女の中ではそれで話に一区切りついたのか、視線を雪音から外す。前を向くと、ゆっくりブランコを漕ぎだした。ほんの数センチ揺らす程度だが、前後する度に金属の擦れる切ない音が響いた。
「むぅ……」
そんな少女の隣で雪音は唸り声をあげた。
少女の言葉の意図がよくわからなかった。自分が自分に嘘をついている? それはつまり……どういうことなのだろう、わからない。
「悩んでいるみたいね」
少女はブランコを漕ぐのをやめると、雪音の顔を見つめて微笑した。先程のような優しい笑顔ではなく、何かを企んでいるような、妖しい笑顔だ。
そして視線を空へと投げると独り言のように呟いた。ただしその声は、雪音に聞こえなさそうで、しかし耳を傾ければ聞きとれる微妙な大きさで、
「嘘をつかれるのって気持ちのいいことではないわよね。それが好きな人なら、尚更」
「なっ……」
思わず声が漏れた。
たしかに嘘をつかれたことは腹立たしい。しかし「好きな人なら」というのは何なのだろう。自分は凛のことはもう嫌いでしかないし、この少女にもはっきりとそう伝えたのに。
雪音の困惑した顔が面白かったのか、少女は口元に手をやりながら「ふふ」と婉然な笑みを見せた。そして今度は、はっきりと雪音に向けた言葉として言う。
「あなたは、女性だと語っていた相手が実は男だったからという理由で怒っていて、だからその相手も嫌いだと言うのよね」
「そうだ。うちは男が嫌いなのだ。だからあれのことも嫌いなのだ」
当然のことのように雪音は答える。
「本当にそうなのかしら。それなら、二度と会わないって言って絶縁してしまえばいいことでしょう。もともと、赤の他人なのだから」
「赤の、他人……」
どうしてだろう。
その言葉の響きがとても嫌だった。
少女の言うことは至極もっともで、凛との関係も詰まるところ他人でしかない。数日の間泊まる場所を借りたとはいえ、とくに深い間柄ではない。片方から関わりを絶ってしまえば、連絡さえとれなくなるだろう。それこそ少女の言う絶縁だ。けれどその言葉は、その提案は受け入れたくない。
うまく言葉を見つけられないでいる雪音に構わず、少女は続けた。
「でも、あなたの怒りは収まらない。むしろどんどん大きくなっていく。あなたの力では抑えきれないほどに。なぜなのかしら」
「それは……」
雪音の頭に、先程の少女の独り言のような呟きが頭に浮かんだ。一言一句完璧に覚えていたわけではないのだが、嘘をつかれるのは不快なことでその相手が好きな人なら尚更、というような言葉だったはずだ。
(好き……? うちが……凛を……?)
そんなことはあり得ない。なぜなら、自分は男が嫌いで、凛は男で……。
(……だが)
雪音は大切なことを忘れていた。
男を嫌いになった根本的な理由がいつの間にか意識の隅に追いやられ、ただ「嫌いだ」という気持ちだけが、固定観念のように先走りしてしまっていた。
そうだ。自分の嫌いな『男』という存在に対して思い浮かべる像に、はたして凛は当てはまっているのだろうか。
――凛は少し頼りなくて、いつも困っていて、だけど優しくて、自分のために頑張ってくれて、それで……なんだか、愛しい。
比較するまでもなかった。ひとつだって当てはまりなどしないじゃないか。
(そう、か……)
自分が間違っていたのだ。この苛立ちは、男だった凛という存在に対してのものではなく、好きな相手である凛が自分に嘘をついていたという、その行為に対しての怒りだったのだ。
嘘というのは、相手のことを信用していないからつくものである。雪音は、もっと凛に自分のことを信じて欲しかったのだ。
そう。真実を凛の方から打ち明けてほしかった。それでも最初は怒っただろうし軽蔑もしたかもしれない。けれど本当のことを言ってくれれば、すぐに笑って許せてしまえただろう。「そなただけは例外なのだ」などと適当なことを言って、笑い飛ばせていただろう。
結局、嘘が発覚するという形で真実を知ったのが辛かったのだ。
そしてその苛立ちが消えないのも、決して凛と縁を切りたいからではなく、むしろ仲直りをしたいのに、それができないもどかしさからだったのだろう。
気づいてみれば、何てことはない単純なことだった。
雪音はやっと自分の感情と苛立ちの原因を理解し、胸のもやもやは晴れ、清々しい気持ちになった。
そこに少女が、
「帰らなくていいの? もう時間も遅いわ」
問いかけた。
意地を張って公園から出ることのできないでいた自分に、ここから出るきっかけを与えてくれているように雪音には聞こえた。
「そなたこそ」
雪音はそっけなく返す。
「日も暮れてきた。女の独り歩きは危険だぞ」
「わたしはちょうど今帰ろうと思っていたところなの」
少女は、ちょこんと跳ねるようにしてブランコから下りた。
雪音は両の拳を腰にあてて胸を張ると、少女の背中に向かって、得意げに言ってやる。
「うちも今帰ろうと思っていたところなのだ。あれが暗い顔をして待っておるだろうからな」
ふっと笑い、一拍置いて、
「最後に、もうひとつ聞いてよいか」
少女が振り返り、目が合った。そしてどちらからともなく笑った。雪音は爽快に、少女は温柔に。
「どうぞ」
少女はしとやかな笑みを崩さない。
「そなたの名を教えてくれ。うちの名は雪音だ」
「わたしは魅魚。神谷魅魚よ」
「そうか、みお。美しい名だ。そなたとはまた逢いたいものだ」
雪音は手を差し出す。
魅魚はその手を優しく握り返して、
「きっと……近いうちに、また会えるわ。そのときはよろしくね」




