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雪姫の夏  作者: 杏羽らんす
第四幕『愛しの雪童子』
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第四幕/1

/1



 雪音が去ったあと、凛は重苦しく辛い気持ちに苛まれつつもひとり学校を出た。


 そして現在、凛は自宅アパートのドアの前にいる。その手にはスーパーの買い物袋が提げられている。


 というのも雪音が去り、学校でしばらく立ち尽くしていた凛だったが、気がつくと足は自然とスーパーへと向かっていたのだった。


 制服は破れ上半身裸の状態だったため、代わりにリュックの中に入っていた女子制服のワイシャツを着た。降雪に見舞われ寒い思いをしたものの、ボタンの左右の違い程度しか男物との差異は無いため、着ているのが女物のワイシャツだと誰かに気づかれることはなかった。


 そうして買い物を終えた凛の手に提げられた袋には、一人暮らしの学生が一度に買う量よりも明らかに多くの食品が詰められている。しかしそれは次に食材を買うときまでの日数を稼ぐためでも、スーパーが特売日だったからなどという理由でもない。



 ――その袋にはたくさんの冷凍コロッケが入っているのだ。否、冷凍コロッケしか入っていない。



 凛は、雪音に拒絶の意思を告げられたとき、まるで自分という存在が輪郭だけを残して全て空っぽになってしまったような、殻だけになってしまったような虚無感と、周りを冷たい壁で囲われて、あらゆる道を閉ざされてしまったような閉塞感に呑み込まれてしまった。


 その絶望から逃れようと、唯一残った彼女との繋がりの証しである『冷凍コロッケを買うという約束』にすがりつき、それを買い漁っていたのだ。





 凛はドアノブに手をかける。小さく溜め息をついた。


「馬鹿だなあ……。いまさらコロッケを買ってきたところで……」


 もう雪音は、ここへは帰ってこないのに。喜んで食べてくれる人はいないのに。

 そう言いかけて、その言葉を飲み込んだ。口にすれば余計に実感してしまう。その場合に、それを受け止められるだけの自信が凛にはなかった。


 ドアを開けて中に入る。不用心にも鍵は掛かっていなかった。雪音には鍵のことなど教えていなかったから当然だが。


「なんだろう、これ」

 玄関を入ったすぐ脇のところに紙袋が置いてあった。


 凛はそれを手に取って中身を確認し、

「ごめん。もう……必要なくなっちゃった」

 溜め息と一緒に言葉を吐き出した。


 袋の中には女物の衣服が数着と化粧道具が入っていた。おそらく差出人は魅魚だろう。気を利かせて――といっても半分は面白がっているのだろうが――女装に必要なものを届けに来てくれていたのだ。


 しかし今となっては何の役にも立たない。

 それどころか、雪音を騙していたという事実を改めて突き付けられているような気さえした。痛みが胸を刺す。気持ちは深く沈んでいく。


 凛は玄関の隅に差し入れの紙袋を戻すと、肩に溜まった雪を払い部屋へと向かった。


 鞄とリュック、それに買い物袋を適当なところに置き、私服に着替える。


 久しぶりの男物の洋服だ。


 昨日までは男物の服を着られる日が来るのを待ち遠しく思っていたはずなのに、今では陰鬱になるばかりだった。自然と溜め息が出た。


 肉体的な痛みと精神的な痛みで重くなった身体にムチを打ち、凛は買い物袋を持って冷蔵庫の方へ向かう。


「もう……散らかしっ放しじゃないか」


 冷蔵庫の前には昨日と同じようにジュースのボトルや外された中板が散らばっていた。


 雪音は片付けずにここを出て行ったのだろう。


 おもむろにペットボトルを手に取る。迷惑でしかなかったはずの雪音の行為――雪音の居た証が、今はとてつもなく愛おしかった。


 それらを片付けぬまま凛は冷凍室の扉を開けた。


 ひんやりとした空気が顔を撫でる。


 雪音と初めて会ったときに感じた冷気に似ている。どうしてこの家には雪音のことを思い出させるものばかりあるのだろうか。


 買ってきた冷凍コロッケをしまった。中はそれでいっぱいになった。


 扉を閉じ、そのまま部屋へと戻る。散らかったボトルと中板は、まだ片付けないでおくことにした。彼女の居た証を少しでも残しておきたかった。








 時刻は六時をまわっていた。


 凛は部屋の片隅で膝を抱えて座っている。電気は付けていない。夏とはいえ天気は相変わらずの雪空のため、部屋は薄暗い。


 凛は思う。この部屋は、こんなに広かったのかと。八畳のこの部屋は決して狭くはないが、実際の広さ以上に広く感じてしまうのは、やはり雪音がいないから、彼女を失ってしまったからだろう。


 それほど彼女の存在が凛の中で大きくなっていた。自分でも気付かぬ内に。


 部屋でくつろぐ雪音が笑顔で自分をむかえてくれる。それが嬉しかった。暖かかった。独りじゃないという安らぎがあった。


 ――それが今はもう無い。


 そう思うたびに、心は深く沈んでいく。ひどい喪失感が心を蝕む。


 不意に、胸が痛みだした。


 孤独になったときに感じる心の痛み。雪音と出会ってからは感じることのなかったそれが再び顔を出す。ずっしとした鈍痛が胸の中心に居座っている。


 希望など見えるわけもなく、気持ちはどんどん暗くなっていく一方だった。



 まるで、あの雪空で覆われた外の景色のように、暗く――。



「え……」


 外の、景色の――ように……?


「おかしい……それは、おかしいんだ……!」


 外を見て、あることに気づき、凛は絶句した。


 窓へ駆け寄って空を見る。


 雪雲が広がり、真っ白な雪が降るその景色。



 ――ちらちらと、雪が降っている。



 雪音は言っていたはずだ。雪女は自分の縄張りを主張する意味で、その一帯に雪を降らすと。しかし、自らが治める雪山以外、とくに人里でそれを行うという秩序を乱すような真似は正常な雪女ならしない、と。そうも言っていた。


 そしてこの町に雪を降らしていたのは、こごめだった。


「まさか……」


 凛の胸に言いようのない不安が灯る。


 雪音に拒絶されたときのものとは違う。身の危険を感じての不安。



 ――こごめが雪音に倒されたというのなら、もう雪は降りやんでいるはずではないか。



 そのとき。

「うっ……ああ、あぁ――ああ!」

 身体の芯から外側に向かって放出するように、凍てつく冷気が全身を駆け抜けていく。あまりの苦しさと異物感に凛は胸を押さえてうずくまった。


 身体中がガタガタと震え出し、手と足の指先は冷えすぎて感覚が無くなりかけていた。肌も異様な程青白く変わり、とても自分の身体の一部とは思えない。


 そして次の瞬間。


 水の中に入れたドライアイスのように、身体から真っ白な冷気が溢れ出した。

 それは部屋へと充満し、空気中に含まれる水分を凍りつかせていく。部屋のあちこちからガラスの軋みひび割れるような氷結音が聞こえ、天井からは無数のツララが伸びていく。


「ぐっ……うぅ」


 幾度目かの衝撃が胸を打ちつけたとき、とうとう意識が揺らぎ始める。


 ――と。自分の生命力を抜き取られるような不快感がしたのと同時、凛の胸の中から真っ白な球体が浮き出てきた。

 サッカーボール大の球体は水面から顔を出すようにゆっくりと凛の身体から抜け出し、その姿を露わにすると部屋の中心まで進み、浮遊を続けた。


「いったいあれは……」


 立ち上がろうとしたが、身体の急激な衰弱を感じ、そのまま背中から倒れてしまった。


 痛みを堪え、意識をなんとか繋ぎ止め、凛は両手で上半身を起こす。尻持ちをついたような体勢になって、浮遊する白の球体を見上げる。


 球体は空中で回転し、渦巻く真っ白な冷気を纏いながら、だんだんとその形を大きくしていく。

 それは大きくなるにつれ、球形から楕円形に変わっていった。勢いを衰えさせることなく変化を続けていき、やがて見なれた形状――人の形へと変わる。


 見る間にその人型は色づき始め、それと同時に。

「アハハ……」


 聞きたくない声だった。


 聞き慣れたわけではない、なのに記憶にはっきりと刻み込まれている不快な女声。


 渦巻く吹雪を纏った人型の物体は、各所に水色や肌色を帯びていき、やがて――こごめの姿へと変貌した。


(どうして……雪音さんが、倒したはずなのに……!)


 いなくなったはずの存在が現れたことへの驚愕、再び襲われるのではないかという畏怖、そして、もう雪音の助けを期待できないという絶望感が心の中で一挙に入り乱れる。


「――やっと二人きり。これでもう、誰にも邪魔されない」


 こごめの纏った吹雪の渦が徐々に緩慢になっていき、止まった。


 そして音もなく凛の前に降り立ったこごめは、軽く首を横に傾け破顔する。水色のサイドテールが小さく揺れた。その笑みは一見優しいようで、しかし限りなく冷たい。


 彼女の笑みに凛は戦慄を覚え、同時に学校での出来事がフラッシュバックした。足が震えていた。凍えからではない。目の前に立つ、自分の命を狙う少女に対する怖れから。


「何を怯えているの? あたしはあなたの命を『奪う』んじゃないのよ? ただ……『返して』もらうだけなんだから。借りたものは返す、当然のことでしょ?」

 こごめは前屈みになると、ひんやりとした両手を凛の頬に添え、ゆっくりと顔を近付けた。


 咄嗟に逃げようとしたが、間に合わなかった。撥ね退けるだけの力も残っていなかった。


 そして。



 ――凛の唇に、こごめの唇が、そっと触れた。

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