第三幕/8
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部長の雨宮が不在であるという点を除けば、剣道部の練習はいつも通りに終了した。
着替えを終え、剣道場を後にした凛はひとり廊下を歩く。
練習による疲れはあるものの、しかしそれは清々しい疲れで、凛の気持ちは妙に高揚していた。
雪音に「早く帰る」と言っておいたからだろうか。早く帰って雪音の顔が見たいなと凛はそう思っていた。
「あ。そうだ、今日こそは食べ物を買ってこなくちゃ」
食料品が切れていたことを思い出す。気持ちがはやって、危うく買い出しを忘れるところだった。
今日買い忘れると、冷凍食品はおろか食べる物自体がなくなってしまう。その事態は避けなければならない。アボカドも魅魚専用のものなので、できれば手を出したくないし、どの道それでは主食にはなり得ない。
「それと冷凍コロッケ」
雪音のリクエストも忘れてはいない。
「遠回りになるけど、買い物をしてからアパートへ帰ろう」
凛は靴に履き替えると、今日の夕飯を考えつつ校舎を出た。
雪はまだ尚降り続いている。
幸いにも勢いは弱く、極端な積もり方はしていないので帰り道がつらくなることはなさそうだが。
「そうだ。異常気象のこと……。帰ったら雪音さんに聞いてみよう。雪女の雪音さんが町に来たから雪が降っているんだとは思うんだけど、だとしたら止めてもらわないと……」
凛は校門へ向かって歩き出そうとし、なんとなく――もしかしたら何かの気配を感じたのかもしれない――後ろを振り返り、
そこに、強烈な違和を見た。
「見ぃーつっけたあー!」
そこにいたのは『白い着物』を着た少女だった。
一瞬、雪音が学校に来てしまったのかと思ったが、それは違う。
袖が極端に大きく、しかし裾はミニスカートのように短いアンバランスな着物だった。和服というより浴衣と言った方が近いかもしれない。雪音が着ているものとはだいぶ違う。そもそも今日、雪音は和服ではなく凛の女物の私服を着ていたはずだ。
そして何よりも、決定的に違うのは髪の色。なんとも『変わった色』――それは『水色』をした髪だった。
艶やかでまるで氷のような、とても冷やかな印象を抱かせるその髪を片側で束ねていた。
凛は、少女に何か(あなたはいったい……?)問おうとして。
唐突に。
凛の全身を、冷気が駆け抜けた。
「ぐっ――!」
凍てつく強風に打たれ、体中が冷える。針のむしろで刺されるような鋭い痛みが全身を襲う。
「ははっ。冷たくて気持ちいいでしょう?」
少女は愉しそうな声で凛に問うた。
この全身を襲ってくる異様な風は、明らかに目の前の少女によって起こされたものだ。凛は寒さからくる痛みをこらえ、目の前に突如現れた少女を睨むように見る。
(なんなんだ、いったい――?)
雪景色の校舎前。
ちらつく雪を背に立つ少女の姿を見て。
雪音との差異はあるが、凛はその少女の姿を見て雪女を想起し――
「ああ……! そう、か……!」
ひとつ、今までの思考における決定的な欠落に気がついた。
(……僕はこんなにも単純なことを見落としていたのか!)
どうして、もっと早く気付けなかったのだろう。
冬のように寒い夏。
その現象は雪音のせいで起きているのではない。なぜなら、
――寒い夏という異常気象は、雪音が人里へ下りてくるよりも前から始まっていたじゃないか。
今までの会話の中で雪音は言っていた。山から下りたのは、凛と出会った時点で「三日前」だと。つまり今日を基準にして言えば五日前ということになる。
だが、寒い日というのはもっと前――夏だというのにここ数週間は寒い日が続いていた――何週間も前から続いていたじゃないか。
つまりそれは『雪音以外の雪女が既にこの町に来ている』ということを意味している。
そして。それが今、目の前にいる少女なのではないか。
寒さと身の危険で震える凛に構わず少女は言う。
「もう、ずいぶん探したんだからっ! ごめんねー早く見つけてあげられなくて。あなたの精気の気配を察知するのに手こずっちゃってさ。さっき道端で見かけた男の精気をつまみぐいしようと思ったんだけど、そのときちょうどあなたが近くにいることがわかってね。つまみぐいはやめて、大急ぎでこっちへ来たってわけ!」
気が強そうな顔立ちを笑顔にして、雪女であろう少女は言う。その姿が雪音と重なり、妙な既視感さえ覚えさせられる。
笑顔でありながらも、放たれる少女の不気味で冷たい威圧感を受けながら、
「雪女……」
凛は呟いた。
「えっ? わかっちゃったの。そっか、雪女を知っているっていうことは……つまり他の雪女との接触があるのかしら?」
少女が雪女であるという肯定と受け取って間違いないだろう。
凛が雪女の存在を知っていることに少女は一瞬驚いていたが、すぐに表情を変えた。笑顔ではない。獲物を捉えようとする肉食動物のように、力強く冷淡な視線で凛を睨む。
「自己紹介がまだだったわね。あたしは、こごめ。あなたの言うとおり、雪女よ。あなたに――会いに来たの」
明るいようでいて、内に捻じれた感情を内包しているような暗い雰囲気を感じた。
こごめは凛に近づいてくる。一切視線は逸らさず、凛の目だけを見つめて。
宝石のようなその水色の瞳に、力が宿ったのがわかった。
吸い込まれるような、心を奪っていくような不思議な力を凛は感じ……。
「ぐっ……」
凍えるという感覚だけでなく、身体が本当に凍るように固くなり始めていることに気付いた。無我夢中で、完全に凍りつく前に凛はとっさに飛び退き、こごめの視界から外れる。
すると、凛の身体の自由が戻った。視線から外れることで、見えない力による身体の拘束は緩和されるらしい。
しかし人間の動きでは移動距離はたかが知れている。間合い自体はたいして変わっていない。あくまで視線から逃れただけであり、危機的状況であることに変わりはない。
「へえ」
こごめは関心したように目を細める。
「雪女の魅惑の視線を浴びてまだ動けるなんて。うーん、やっぱりあなたが半分しか男じゃないから効果が薄いのかしら……」
こごめはひとりで納得したように呟いた。
半分しか男じゃないという言葉に凛はひどくショックを受けたが、
(女顔だということを嘆いている場合じゃない……!)
現状の危機を回避すべく、凛はこごめの行動に意識を集中させる。
彼女のしようとしている行為には心当たりがあった。雪音の言っていたことを思い出せばすぐに結論に行き着く。それは、雪女は人間の男を魅了し、虜にして精気を吸う生き物だということだ。
今しがたの、瞳で見つめて身体の自由を奪うというのが虜にするということなのだろう。とてもじゃないが、そんな力に対抗できる気がしない。となれば逃げるしかない。なんとか隙を見つけて……。
しかし、こごめはそれを許さなかった。
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね!」
言うや否や、こごめは地面を蹴って跳んだ。虎か何かが襲いかかってくるような、殺気と瞬発力をもって凛に跳びかかる。
「うっ!」
首に衝撃が走る。その痛みを感じてから、自分の首が掴まれているということに気がついた。
「あたしには、あなたが必要なの」
こごめは冷たい声でささやく。首を掴むその手も冷ややかだった。
「誰かっ…………うっ」
助けを呼ぼうとしたが、首を締める力が強くなり声を出すのを妨げられた。
まだ部活動をやっている生徒もいるだろうが、それは校舎を挟んで反対側にある校庭で行っている運動部がほとんどだ。教師も校舎の中にいるだろう。都合よく外を眺めている者がいるとは考えにくい。日もほとんど落ちたこの時間帯では偶然誰かが近くを通りかかるのも期待できない。
助けを求めて叫ぶことさえできないこの状況は、絶望的だった。
「視線で虜になってくれないなら、まず肉体的に弱ってもらうしかないね」
手間そうに言うと、こごめはもう片方の手を凛の胸元に当てた。
「ああ――!」
瞬間、衝撃が駆け抜け、凛は凍てつくような痛みに顔を歪めた。
そして、閉じた目を開き驚愕した。
自分の上半身。身に付けていた制服の上着――コートも学ランも――が凍っていた。まるで氷で作った衣服のようにさえ見えた。こごめの手が触れている部分に関しては、波立つ海の起伏をそのまま凍らせたような、氷の波が形作られていた。
「もう一回、してあげるね」
再びの衝撃。
先程とは比較にならないほどの痛みが全身を襲い、肺から空気という空気が漏れ出ていく。
その威力によって、氷化した制服は粉々に砕け散り、中に着ていたワイシャツがぼろぼろになりながら肩に引っ掛かっている程度になった。みぞおちのあたりを中心に、肌は軽い凍傷で赤くなっていた。
「準備かんりょうっ! 今度こそ、美味しくいただいちゃうよ。大丈夫……気持ちイイから」
凛の意識が遠退いていく……。視界はほぼ暗転し、ぼうっとした気だるい感覚が全身を支配する。痛みのせいか、甲高い、不協和音のような耳鳴りがする。
その不快な音に混じって、耳に女声が流れこんできた。
獲物を手に入れたこごめの歓喜の声――ではない。
「そなた、大丈夫か!」
突き抜けるような、強烈な叫び声。
その声で凛は意識を繋ぎとめた。
倒れかけていた身体を、誰かの手が支えてくれているのがわかった。背中に回された冷ややかな手。
目を開ける。その声、手の主は――雪音だった。
「雪音、さん……」
「む? 凛……? そなただったのか。……大丈夫か? うちが学校の門を通った途端に、妙な冷気――つまりは雪女の気配と、それに襲われている人間の姿が目に入ったのでな。駆け付けたのだ。感謝するがよい」
「ありがとうございます……。でも、どうやってここまで……」
「え。いや、その、それは……あれだ! 散歩をしていたら、ぐ、ぐーぜんにも学校に辿り着いたのだ。偶然だぞ、意図してやって来たわけではないぞ、決して誰かに道を尋ねたりなんてしておらぬからな!」
その口ぶりに凛は雪音がここにいる理由を察し、場違いにも小さく笑みをこぼした。その様子には雪音は気づいていないようで、さらに続ける。
「今朝そなたの言っていた、学校に棲む化け物とはあやつのことか?」
言って雪音は顔を凛から別のところへと向ける。おそらくその先にはこごめがいるのだろう。
朝方、雪音に言った化け物とは違うがこの際そんなことはどうでもよかった。そういえば首を絞めていたはずのこごめは……と、凛は雪音の視線の先を追う。
(――いた)
こごめは、凛たちからだいぶ距離をあけたところに立っていた。少し頬が赤くなっていたが、その表情や姿勢からは未だに獲物を狙う意思が感じ取れる。
「そなたが化け物に襲われていたので、とりあえず突き飛ばしておいたぞ」
雪音は余裕そうに、たいしたこともなさそうに言う。
まさかあの雪女の力など、雪音からしてみれば取るに足らないものなのだろうか。
次に、雪音はこごめに向けて、
「雪が降るなどと、どうも快適な天候だと思っておったが、どうやら原因は貴様のようだな」
重く鋭い声で問うた。
こごめは答えない。しかし、それが肯定を表わしていた。
「凛よ。雪女はな、自分の縄張りを主張する意味で天候を雪や吹雪、雹に変えるのだ。しかしそれは自分の治める雪山でやること。それも特別な立場にある雪女のやることだ。人里の気象を変えるなどという無闇に秩序を乱すような真似は、まともな雪女ならせぬ」
雪音はこごめに視線を固定したまま、雪女について詳しくない凛のために説明を入れる。そしてそれを凛が理解したことを確認すると顔を伏せ申し訳なさそうに言った。
「うちもうっかりしていた。久々の人里で季節という概念を忘れておった。雪山は常に冬のようなものだからな。この町で雪がちらついていても、過ごしやすいという程度にしか思っていなかった。もっと早く、この町にうち以外の雪女がいることに気づいておれば、そなたを危険な目に合わせることもなかったのに……。すまぬ」
「そんな。雪音さんのせいじゃありません。それに、こうして僕を助けてくれましたし」
女性に助けられるのはちょっと情けないかな、などと思いつつ笑顔で返した。
そこへ、こごめの声がかかる。
「いちゃいちゃしているとこ悪いけど! あたしの方も見てくれないかな。――でも、ちょうどいいや。『雪姫』の方から現れてくれるなんて」
凛は『雪姫』という初めて聞く言葉に疑問を浮かべる。口ぶりからして雪音に向かって言われたものであるのは間違いないと思うのだが。
そんな凛に構わず、雪音はこごめに答える。
「それを知っておるということは、そうか、貴様うちの雪山の者だな」
雪音の口調が、凄みのある凛々しいものに変わった。
「うちの管理の甘さが蒔いた種だったか。……どうやら、ここで刈り取らなければならぬようだな」
雪音は一歩前に出る。
髪の色が銀に変わった。冷気が彼女の周囲を包み、きらきらとした雪の結晶を伴って渦を巻く。
「闘うなら、うちは和服の方がよいのだが、着替えを取りに行く暇もない。それに貴様程度ならこれでも充分だ」
挑発なのか、それとも本心なのか、おそらく両方であろう言葉を浴びせ雪音は一歩、また一歩とこごめへ近付いて行く。
「ふん……」
こごめは、苛立たしげに目を細め、雪音を睨む。
「うちは本気で貴様を消すつもりだ。雪姫であるうちと、一介の雪女でしかない貴様の力の差は歴然だと思うが。逃げるなら、今の内だぞ」
「逃げる必要なんてないわね」
そう言うこごめの顔には、何らかの自信があるように凛には見えた。
「そうか。ならば容赦はせぬ。己の愚かさを悔いるがよい。だが、最後にひとつだけ問おう。……なぜ、凛を狙った」
その、至極単純な質問が――引き金になってしまう。
「なぜって……? 決まっているじゃない。精気が欲しかったから。これだとちょっと言葉が足りないんだけど結局はそういうことになるわ。あなたも雪女なんだからそんなの常識でしょ? 雪女は精気を吸うことで、生命維持や力の強化を行う」
こごめの答えに、最も敏感に反応したのは凛だった。
精気が欲しかった――その言葉により導かれる真実。
それに雪音が気づいてしまうことを危惧したのだ。
そして、それは現実となる。
「凛の……精気?」
怪訝そうに呟き、雪音は凛の方へ振り返った。
その顔は初め、こごめが何を言っているのか理解できない、という表情をしていた。それは当り前のことだ。
――雪音は、凛のことを『女』だと思っているのだから。
だから、こごめが凛を襲った理由がわからなかったのだ。
雪女が精気を吸うのは人間の男に対してだけである。なのに、なぜ女性であるはずの凛を襲ったのだろうかと雪音はそう考えていたのだ。
「りん……?」
しかし、こごめが当然のように言った「精気が欲しかったから」という言葉。そして振り向いた雪音の瞳が捉えているもの――ワイシャツが破けあらわになった男性でしかあり得ない細くも逞しい凛の体躯。
雪音はそれらから答えを導き出してしまったのだ。
――凛は男である、と。
気付かれて当然の状況だった。むしろ、こごめに襲われていた所を助けられた時にすぐに気づかれなかったことの方が奇跡に近い。おそらく、雪女に襲われている人間を助けてみたらそれが凛だったと後から気付いたことや、身体を支えるため密着しており凛の顔ぐらいしかまともに見えていなかったことにより、凛は女であるという先入観がより強く働いていたのだろう。
「凛……」
雪音の表情が変わった。驚愕と、軽蔑と、騙されたという失望の形に。
「そなたは……」
雪音の顔色が変わった。蒼白に、暗澹に、裏切りに対する赫然の色に。
「男、だったのか……?」
絞り出すように言葉を紡ぎだした雪音の震える唇は、もうそれ以上何も言うことはなかった。
凛は、何も答えることができなかった。
そして雪音はこごめの方へと振り向く。凛へ背を向ける。
雪音の顔が見えなくなるその瞬間。事実を受け入れたくない、できれば何かの間違いや誤解であってほしい、そう懇願するような悲哀の表情が見えた気がした。
しかしそんなものは凛の淡い希望、おろかな妄想だと言わんばかりに雪音は無言を貫いたまま、一歩踏み出した。




