第一幕/1
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都会と田舎の中間のような、派手でもなければ地味でもないという中途半端な地域――霞町。そこに建てられた県立校が、凛の通う霞西高校である。
ここ数週間、冬のような気象が続いているため忘れがちだが暦の上ではすでに七月に入っている。もうすぐ夏休みという時期のせいか、生徒たちの顔も心なしか晴ればれとしていた。
霞西高校は二学期制をとっているため定期試験は夏休み明けに行われる。そのためテストのことを気にしている生徒も少数で皆が思い思いに高校生活を満喫している。
現在、時刻は正午を過ぎ――昼休み。
凛の在籍する二年三組の教室では、他愛もない雑談を楽しむ者、机を囲んで昼食をとっている者、机に突っ伏して寝ている者という風に過ごし方は様々である。
その中でなら凛たちは雑談を楽しむ者に分類される。クラスメイトの幸太郎と一緒に昼食をとり終えた凛は、その後にやってきた魅魚を交えた三人で談笑をしていた。
「ほう? 凛よ。おまえ、ナンパされたのか……。となれば、もちろん……ついていったんだよな」
さらりとした前髪を指で弾くと、幸太郎は不敵な笑みを浮かべた。
凛、幸太郎、魅魚の三人は、高校入学からの――つまり一年と数カ月程度の付き合いではあるが仲は良く、普段から一緒にいることが多い。
「残念だけど、わたしが追い払ったわ。その領域は、まだ凛には早すぎるでしょ」
凛に代わって答えたのは魅魚だ。
仲が良いといっても力関係まで等しいというわけではなく、三人の中では魅魚の権力が最も強い。
「焦って先走っても、満足のいく結果は出せないわ」
そう言うと、手にした紙パック――中身は魅魚の持参したアボカドジュースだ――のストローを「はむ」とくわえる。ちゅーと飲み始めると、後は我関せずといった雰囲気を醸し出した。
「ふーむ、そうか……。確かに、物事は順序が大切だな。一歩一歩、着実に段階を踏んでいかねば、凛のような弱々しい男はたちまち道を踏み外し、転げ落ちてしまうだろう。なーに焦ることはない! 人生は長いのだからな!」
ふはは! と無駄に凛々しい笑い声をあげながら幸太郎は凛の背中を叩いた。
「ま、待ってよ。ぼ、僕は、男の人と……その、そういう趣味は、ないよ。うん、無い。まったく」
凛はたじろぎながらも慌てて反論する。
魅魚に女装させられているときは恥ずかしさのあまり弱々しさが目立つ凛だが、まともな服――今なら学生服――を着ている普段の状態であれば普通に会話できる。
とはいえ気が弱いという根本的な部分ではさほど変わりないのだが。
「なるほど!」
合点した、と手を叩く幸太郎。
「つまり、女性とならしたい、と。喜んで御受けすると。さぁボクをメチャクチャニシテ! と。そういうわけだな。はっはっは! なーに恥ずかしがらんでいい。お前もそういう年頃というだけだ」
「不潔なのね、凛ったら。幸太郎は汚物だけど」
幸太郎の揚げ足を取る言葉に、すかさず魅魚が加勢する。実際のところは幸太郎にまで攻撃が及んでいるのだが、本人は気にしていない様子である。
「そ、そういう意味じゃないよっ! 誤解だ」
二対一。完全に劣勢に立たされてしまった。これではいつものように弄り倒されて休み時間が終わってしまう。
三人の力関係は魅魚を中心に、日によって二つのパターンにわかれる。すなわち、凛が弄られるか、幸太郎が弄られるかである。
今日は凛がその餌食になってしまったようだが……。
それでもなんとか反撃しようと、凛は幸太郎の顔を指さし口撃を試みる。
「ぼ、僕ばっかり女好きみたいに言うけど、幸太郎の方こそ、女の人に興味があるから、そういうことを言うんじゃないのっ?」
何とも単純な発想だがそれゆえに的を射ていて効果的でもある。これでどうだ、と凛は満足げな顔を浮かべた。さらにもうひと押し、言葉を付け加える。
「女好きなのは幸太郎だ!」
「そうだぞ」
平然、の二文字に尽きる。あっさりと肯定されてしまった。
「変態ね」
魅魚がぼそっと呟いたが、幸太郎はそれにも動じなかった。
「あぁ、オレは変態だ。趣味が女体研究なのだからな。だが、人間としてやっていいことと、いけないことの区別はつけている『つもり』だから安心するがいい」
つもりの部分を強調しつつ自信満々に胸を叩き、流し目でウィンクする。正直言って気持ち悪い。
「うぅ……」
凛が抵抗を諦め、会話の流れも止まった。
焦っていたために忘れていた。幸太郎は自身を変態と公言して憚らない人間なのであった。せっかく反論した凛だったが、その効果は皆無で終わり、それどころか変に幸太郎をパワーアップさせてしまった風でさえある。
「おう、そうだ」
何かを思い出したように幸太郎は椅子から立ち上がった。腰に手を当てたポーズを取り、魅魚の方を見る。
「ところで神谷よ」
「なにかしら」
魅魚は興味なさげに、幸太郎の方は向かずに声だけで返答する。
「おまえのその陰湿かつサディスト的性格を内包するにはアンバランスなロリィな肢体についてじっくり研究したいとオレは思っているのだ」
教室内だというのに幸太郎はとんでもないことを堂々と口にした。
周囲からは「また幸太郎よ」「本当に変態ね」「近づかない方がいいわ」などと囁きが聞こえてくる。
一緒にいる凛の方が真っ赤になってしまう。なんでこんな男と友達なのだろうと凛はあらためて自分の交友関係に疑問を抱いた。しかし、
「……具体的にはどうしたいのかしら」
相手にしないかと思いきや、魅魚は拒絶することなく、むしろ前向きに話を進めるような返事をした。チャンスとばかりに目を怪しく輝かせて、幸太郎は答える。
「ふむ。そうだな……。誰もいない放課後の教室でおまえの肢体に触れさせてくれ。入念に、丹念に! ああ、それと記念に!」
この男には理性だとか恥じらいだとかという感情は無いのだろうか。凛は口をあんぐりと開けて二人のやり取りを傍観していた。
「いいわよ」
魅魚がまさかの了承をした。
「なに! 本当か!」
幸太郎の表情も爛々と輝く。
「ええ。けれど条件があるわ」
魅魚はアボカドジュースのパックを机に置き、ここでやっと幸太郎の方を向いた。
そして、じっと幸太郎の目を見据える。
「わたしに触れる前に、あなた、自害しなさい」
「ぬわぁにぃ!」
幸太郎は両手を上げて身体をのけ反らせる。オーバーリアクションとしか思えない、しかし素の驚きを見せた。
「わたしの肢体に触れたいのなら、まずあなたが死体になれということよ」
「触れたい……。しかし、触れるためには死ななければならない。しかし、死んでしまっては触れることはできない! ぬぬぉ……なんというパラドックス! ああ……」
そして頭を抱え込み、なにやらぶつぶつと呪文のように「肢体……自害……死体……肢体……したい……シタイ……」と繰り返している。
教室のどこかから「また幸太郎君が負けたのね」「さすが魅魚ちゃんだわ」「幸太郎なんて本当に死ねばいいのよ」と囁き声が聞こえた。
「ふふ」
魅魚が微笑し、凛の方を見た。
「この男みたいに積極的な変態になっちゃだめよ。でないとあなたを女装させる楽しみが半減してしまうもの。嫌がるあなたを無理矢理女装させるところに醍醐味があるのだから」
あなたも充分変態です、と言う度胸は凛には無かった。
「僕は、女装なんて好きじゃ……」
ない。と言おうとしたが、しかしそれは意味がなかった。魅魚は聞く耳持たずと言わんばかりに明後日の方角を向いて、再びアボカドジュースを飲み始めていた。
「なあ」
不意に、うずくまっていた幸太郎が立ち上がった。
「凛よ。部活の方はどうなんだ」
「部活?」
オウム返しに凛は聞き返す。
凛は剣道部に在籍している。実力はそこそこといったところで、大会では二三回戦あたりまで進出できる程度だが。しかし帰宅部の幸太郎がなぜ剣道部のことを気にするのだろうか。
「夏の大会に向けて、試合に重点を置いた練習をしているくらいで、とくに変わったことはないけど」
「違う、そうではない。練習の内容などどうでもいい。練習のときの様子だ。最近はやけに寒い日が続いているだろう。となれば、だ。剣道部の女子部員たちはどういう悩みを抱えていると思う」
霞西高校の剣道部は男女合わせても人数が十人程度のため練習は合同で行っている。凛は実際の練習風景を思い出し、推測してみることにするが、
「うーん……。夏なのに寒いねーって言っているくらいで……。これといって変わったことはないよ」
事実その通りで、なかには「例年なら夏の暑さで防具が蒸れるところを今年は寒いおかげで回避できる」と喜んでいる者もいるくらいだ。
何か問題でもあるのだろうかと不思議に思っていると、幸太郎が鼻で笑って言った。
「ふ、当事者だからこその認識の薄さか……。まだまだ甘いな。よいか……!」
そして街頭演説でもするかのような身振り手振りを交えて熱弁する。
「この寒さで、剣道場の床は凍ったように冷たくなる。足の裏が冷えてしまい、冷え性の女子たちはまともに練習できまい! となれば、この不肖幸太郎! かの豊臣秀吉が主君の草履を温めたように、女子たちのおみ足を温めるべく、この手でスリスリすりすり~と」
「本当に不肖ね。愚かだわ。愚の骨頂ね」
錐揉みのように手を前後させる幸太郎の暴走に、魅魚が横槍を入れた。
「寒い日が続いていると言っても、凍えるほどじゃないでしょ」
ちなみに、魅魚も幸太郎と同様に帰宅部である。
「く……神谷よ。おまえ……オレの心からの善意を愚弄するつもりか!」
重傷を負った兵士のように胸元を手で押さえ、掠れ気味の声で問う。
「ええ、そうよ。それと心からの善意じゃなくて、悪心からの私意でしょ」
涼しげに言って、飲み干したジュースのパックを折り畳む。
「いくら神谷とはいえ、もう許さん! こうなったら強引にでもおま――」
「捨ててきてちょうだい」
遮り、幸太郎の胸元へぞんざいにパックを突き出す。
「くっ……。神谷とはいえ、女子の頼みは断れん。感謝しろ!」
悔しそうに、しかしどこか嬉しそうな表情を浮かべた幸太郎は、紙パックを受け取ると駆け足でゴミ箱へと向かっていった。
「ねぇ、凛」
視線を逸らすように流し目を教室の隅に向けつつ、魅魚は凛の名を呼んだ。
「なに?」
「忘れないうちに言っておきたいから、いま言うわ。放課後、部活動が終わったら、この教室へ来て。教室に誰もいなくなってから――。……一人でね」
「えっ……?」
そのとき、タイミングを見計らったかのように午後の授業開始の鐘が鳴った。
魅魚は、ゆっくりと椅子から立ち、自分の席へ戻ろうとする。
「放課後にひとりで教室へ? それはどうして……」
小さな彼女の背に向けて問いかける。
魅魚は凛の方へちらりと顔だけ振り向き、
「後で。それに……わたしにだって、心の準備が必要なのよ」
淡い微笑みを浮かべて、魅魚は自分の席へと戻っていった。