10章:『翔』とマスター
お疲れさん。
「…ホントにね…アレは、かなり疲れるから、あんまりやりたく無いんだよね」
まぁ、そういうなって…オーナー、こちらの女性に冷たい飲み物を。
「気が利いているじゃないか…でも、何にも出ないよ?」
まぁ、労いってことで…で、依頼者は?
「事務所に向かう姿は確認したよ」
そうか…で、彼の方は?
「う〜ん…ちょっと、やりすぎちゃったかも?」
…後で、文句を言われるのは、多分…俺だぞ?
「まぁ、経営者の責任って事で、諦めてよ…ハハッ」
笑い事じゃないんだけどな…あっ、そうだ。
「ん?他にもなにかあったかい」
お前の名前、『翔』になったから。
「なったからって…既に、決定事項なのは、どういう事だい…?」
依頼者に、その名前を聞かれて、とっさに紹介したからな…まぁ、諦めてくれ。
「不満が無いわけじゃないけど…まぁ、そういうのには慣れているし…拝領しておくよ」
そうかい…それは、よかった。
「…で、僕らはいつ戻るんだい?」
そうだな…ある程度話がつけば、すぐにでも戻りたいんだけどな…。
「ふ〜ん…オーナー呼んでくれるかい?」
そんなの、自分で…って、今は、他の客もいるから無理か?
「大声は、ちょっと出せないかな?…っと、呼ばなくても来てくれたみたい」
タイミングが良かったな…注文したミルクだな?
「冷たい飲み物は、これに限るからね」
「待たせたな、お嬢」
マスターは、そう言いながら、翔の前にミルクの入った皿を置く。
「お嬢は、辞めてって言っているだろ?…で、マスター、また、頼みがあるんだけど…」
「…『伝言』か?」
「うん、場所は、このオッサンの事務所」
…俺は、オッサンか…。
まぁ、あんまり気にしないで良いか。
この二人の会話は、いつも珍妙だが、いい加減慣れてきたな…。
「旦那の事務所か…2〜3分ってとこだな」
「じゃあ、オッサンのツケで…このミルクもね」
「毎度あり」
オーナーは、そういいながらこちらに視線を向けてきた。
「俺の受けた仕事でもあるから…まぁ、報酬の方から必要経費として払わせてもらうよ」
「ミルクも必要経費かね?」
「う〜ん…設備投資ってところかな?」
「…僕は設備じゃないよ?…まぁ、ということだから、マスターよろしく」
「わかった、戻ってきたら、領収書持って来るから少し待ってくれ」
そう言って、マスターは席を外した。
…ところで、あの人とお前の関係って何なんだ?
「う〜ん…ちょっと、説明が難しいかなぁ…あんたからすれば、ちょっとした同業者かな?」
同業者…?
「僕みたいなのを使役しているというかね…そういう点では同業者…まぁ、僕自身が使役されているとは思わないけどね」
使役…ねぇ、お前は自由に動き回っているからな…って、ちょっと待てよ…ここの喫茶店って。
「まぁ、お察しの通り…というより、結構前から気づいていたんじゃないの?」
…まぁ、お前とあのマスターとのやり取りを見ているしな…そういえば、何で、『お嬢』なんだ?
「…僕が聞きたいよ」
…お前も、苦労していたか…っと、マスターが戻ってきたみたいだな。
「お待ち、お嬢…とりあえず、旦那の事務所には、男女一組が居て、険悪…ってわけではないが、沈黙しているみたいだな」
「なるほどね…ありがと、マスター」
「こっちも、商売だからな…旦那、コレな」
マスターから請求書を渡される…まぁ、経費で落とさせてもらうことにしよう。
「とりあえず…コレで、釣りは…コイツが来たときにでも、適当に使って構わないから、今日の分の領収書もらえるかい?」
そういいながら、請求書の額より多めに現金をマスターに渡す。
「毎度あり…名前は、いつも通りで?」
「ああ、よろしく…っと、もう出るから、領収書はカウンターの方で受け取るよ」
「了解…じゃあ、こっちへ…」
「…ご馳走様」
ん?礼を言うなんて珍しいな?
「今日の分じゃなくて、次回以降の確約に対するお礼の先払いってやつかな?…感謝はすぐ忘れる性質でね」
まぁ、それもそうだな…裏のないものとして、素直に受け取っておくとするさ。
「僕は、もう帰って大丈夫かい?…流石にちょっと疲れてさ」
そうか…色々と無茶言って悪かったな。
「いや、いいよ。…最初に話を持ちかけたのは僕の方なんだし」
そういえば、そうだったな…まぁ、今回の件は、もう蹴りもついたし…明日にでも、事務所に顔を出してくれよ。
「了解…じゃあ、今日はとりあえず帰るね」
…そういえば、帰るって何処に?
「…そういう野暮なことは、女性には聞くもんじゃないだろ?」
ははっ、それもそうだな、じゃあ、また明日な。
「うん、また明日」