会いに行くから
流したかったものが流せなかったあの頃。
吐き出したかったことをぐっと飲み込んだあの頃。
バカ野郎だった僕をどうか許してほしい。
だから、今……
「おーい、おーいってば!」
微睡みの意識の仲、誰かが僕を呼んでいる。
目覚まし時計の音はまだ聞こえていない。
毎朝ベランダに飛んでくる鳩の鳴き声も、生活道路を横切る車の音もなにも聞こえてこない。
そしてこの声にも、僕の過去において一切の聞き覚えがない。
「夢だな。」
貴重な休日の朝だ、夢なんかに惑わされてたまるものか。
「夢じゃなかったりするんだよなー。」
は?
声の主はおそらく僕の枕元にいて、少しだけ呆れたように声を吐き出した。
どういうことだ?
「ちょっと目を開けてくれよ、ゆうくん。」
「え?」
ゆうくんというのは、母に呼ばれていたあだ名のようなもの。
だから僕はビックリした。
その母親は、数年前に事故で他界していたから。
ついさっきまでの眠気など彼方へと吹き飛んだ僕の頭は、布団から飛び起きてその姿を目の当たりにした。
「……だれお前。」
ピョコピョコと動くねこみみと可愛らしく振らすしっぽ。
そして浮き出た鎖骨が印象的な、パジャマ姿の少女だった。
「やっと起きた。」
呆れ顔のその瞳に、僕は「当たり前だろう。」とツッコんでいた。
「どこから入ってきたんだよ。」
「え、あそこから。」
当たり前じゃんとでもいいたげなその指先には、小さく開いた窓があった。
「何が目的だ、警察呼ぶぞ!」
まだ日が完全に昇りきらない時間帯に、インターホンも鳴らさずに窓から入ってきたねこみみ少女。
漫画の中だったらときめく場面なのかもしれないが、現実に起こったら恐怖でしかない。
「なんで俺の名前知ってんの?」
「なんだろう。知ってる人と友達だからかな。」
……なるほど。
とりあえずわけがわからないがここにいても脅威でないと仮定して、僕は昔の記憶を頭の片隅から情報を拾い集めることにした。
ゆうくんという呼び方は、思い返せば母親以外にも数人の同級生から呼ばれていた気がする。
しかし母親に言われているようでどうも心地が悪く、当時の自分はとても嫌がっていた。
「元気してる?」
「え?まあ普通に生活できてるけど、初対面で聞くことじゃなくね?」
「そうなんだけどねえ。」
そう言って少女は、自分の名前も名乗らないまま優しい眼差しで部屋を見渡していた。
「こういうところに住んでたんだ。」
「……もう起き上がっていい?目さめちゃった。」
この子はベランダの窓からここに入ってきたと言っていた。
しかし僕が住んでいるこの部屋は、地上から数えて五階だ。
どう考えても嘘でしかない……
「休日で助かったわ。」
軽くあくびをしながら台所へ向かう僕のことを、少女は不思議な目で見ていた。
「なんだよそんな目で。コーヒー入れるけどどうする?牛乳のほうがいいか?」
「ぎゅ……牛乳がいい。」
ビックリした様子の声色。
自分から仕掛けてきたなら、もう少し粘ってくれたっていいのだが。
「名前とか教えてくれないの?」
「名前……分からない。」
ふむ。
まあそんな事だろうと思っていたから、自分でも想像以上に冷静に受け入れることが出来た。
「んで?目的があってここに来たんだろ?俺は俺でいつも通り過ごすだけだから、自分のことはさっさと片して帰ってくれ。」
「私が来た理由はもう終わったから、牛乳だけいただいて帰るよ。」
「なんだそれ。」
ここはせめてもう少しだけ理由を持ってもらわないと、可愛い外観がめちゃくちゃ不気味に感じてしまう。
それならいっそのこと……
「あと三十分はここにいろ。ご飯用意するから。」
「……なんで。」
びっくりと困惑と焦りの表情で固まっている少女。
特に理由があるわけでもないし、そもそも僕がこんなことをする必要もないのだが、もう少しだけここにいさせることでささやかな仕返しをしてやろうと思ったのだ。
「で、でも私……!」
なにかを必死に訴えようとしてくる少女の瞳。
時計を確認すると現在の時刻は朝の六時半をすぎる頃。
もしそうだとしたら、あんまり時間はないか。
「甘いものかご飯物、どっち食べたい?」
「え?」
「サンドイッチ作ってやるから好み教えろ。」
「あ、甘いのが好きです……」
「はいよ。牛乳飲んで待ってて。」
甘いものだったら話は早い。
そう思って冷蔵庫の中にストックしていたいちごジャムを手にとって、薄切りの食パンに塗っていく。
「うーん……」
なんだろう。
こんなことをする必要なんかまったくないのに、これでいいのかと思ってしまう自分がいるのだ。
「仕方ねえな。」
冷蔵庫の中をもう一度見てみると、昨日に買っておいたホイップクリームのチューブがあった。
「少しは豪華になるか。」
少女は時間がないと言っていた。
その言葉をとりあえず信用するとして、すっからかんの状態で帰すのもなんだか気が引ける。
僕が先程から感じている考えが本当なら、この少女を邪険にすることなんか出来ない。
「もうすぐその時期だもんな。」
「どういうこと?」
「いや、お前はそれでいいよ。来てくれてありがとう。」
「……」
少女はつい先程までとは違う僕の態度に、驚いた表情を見せた。
「ここに来たバツだ。これを絶対にこれを届けてくれ。」
「届ける……」
「手前においておくだけでいい。これ以上俺からいうことはない。頼むから意図を汲み取ってくれ。」
「……うん、わかった!」
先程までの困惑の表情から、一気に決心した力強い表情に変わった。
「牛乳だけでよかったのか。」
「うん、ありがとう。」
それならよかった。
この言葉って、あの日から言うも聞くも共に封印していたから。
「それじゃあそろそろ……」
「ああ。また気が向いたときにでも来いよ。ただ窓から勝手に入ってくるのはやめてくれ、心臓に悪い。」
「ごめんなさい……」
「ほら、時間があるんだろ?約束ちゃんと守ってくれよ!」
「うん!」
そう言って笑顔になった少女は、ベランダの壁をピョンと飛び越えて、朝の陽だまりの中に消えていった。
「ふう。」
残ったのは、いつも通りの朝のはず。
なのにどうしてだろう、心の奥に沈めていたはずの寂寞の思いが、ダムを決壊させたかのように溢れ出してきていた。
「……泣かねえぞ。まだ泣かない。」
スマホで予定を確認すると、今日の予定は全て後日に回せるものだった。
俺はとんだ親不孝者だ。
あれから逃げるように普通の生活を送っていたことが、なんだかすごく馬鹿なことをしている気がした。
母さんごめんな。
会いに行くから……
完
次回更新は9月10日深夜の予定です




