音の行方
通勤地獄を常とするサラリーマンである私。恒常的といって良い程に長時間労働してるはずだが、その労働時間と懐の温まり具合が比例しない事に溜息をつく事もまた恒常的となっている。よって潤いのある衣食住等は望むべくもない状況にある訳だが、そんな私でも無理して拘っている事がある。それは日常的にスーツを着用する私にとってスーツの相棒にして必須アイテムである革靴。今時、数千円で買えなくもないそんな足元に対する小さな拘りがある。ブランド物? いいや違う。地面を踏み締めた瞬間、なんとも言えぬ足裏に感じるシットリ感。そして使い込むうちに足裏にフィットしてゆく。そう、それはソールがレザーであるという事だ。
レザーソール。それはシットリ感にフィット感は勿論の事、何と言ってもラバーソールでは味わえぬレザーソールが奏でる独特の靴音がまた堪らない。通勤中といった雑踏の中ではほぼ聞こえないものの、それは全体的にシットリした音を奏でる。特に砂利の上を歩いた時の音はレザーソールならではといったうっとりする程の音を奏でる。だがそんなレザーソールにも天敵が存在する。それは水分である。雨の日や濡れた道を歩けばその水分は容赦なくレザーソールに染み込む。ほんの少し染み込んだ位であれば気にする事もないが、多分に濡れればそれは中へと容易に浸透し靴下へと浸透し、脱がない限り不快感を味わい続ける事になる。そして帰宅後は乾燥させる事になる訳だが、太陽の下でカラッカラに乾かせば良いと言う事では無く、新聞紙等の吸湿性のある物を靴の中に入れ陰干しにて乾かす必要がある。
レザーというのは油分も含み、それが継続的な柔軟性を生んでいる。そして多量の水分を含んだレザーをカラッカラに乾かしてしまうと良くない収縮が起こると同時に、元々持っていた油分も水分が乾燥する際に引っ張られるようにして抜けてしまい、結果、柔軟性を失い固くなり脆くもなる。その状態で使用すればレザーが割れてしまう可能性があり、そうなってしまうとソールの張替えといった事にもなりかねない。故に常に地面に設置しているソールといえどもアッパー同様に油分と水分の適度な保湿が欠かせない。そもそも靴の中は常に湿度が高い。毎日歩き通しといった仕事をしていれば汗からの水分が多分にアッパーやソールに吸収される事になる。それは雨の中を歩く程ではないにしてもレザーに多分な水分を与える事であり、脱いだ後にその水分が蒸発する事で同時に油分も失われレザーにダメージが蓄積されてゆく。そもそもレザーソールを含めた革製品は吸湿性がある。そして放出も行っている。いわば水分の呼吸をしている。そして放出の際には油分も放出している。油分の減少理由は他にもあるものの、だからこそ定期的に保湿剤等でのメンテナンスが必要になる。
コスパタイパで言えば間違いなくラバーソールに軍配が上がる。というよりフェイクレザー且つラバーソールであればソールにもアッパーにも防水性がある。またレザーソールは滑りやすく油分を含んでいる事からも尚更滑りやすい。反対にゴムソールは排水性やグリップ力を考慮したデザインのソールが採用される事も多く、晴れの日は勿論の事、雨の日でも滑りづらい設計になっていたりする。更にはレザーソールはゴムソールよりも摩耗が早いこともありコスパに関しては比べるまでもない。そんな事もあってかレザーソールを履く人の中にはソールがすり減らないようにと滑らないようにという理由でもってソール用のラバーシートを貼る人もいるという。それはフィット感は失われないものの、あの靴音を放棄してしまっている事でもある。あの靴音に酔いしれる私にはとても出来ない選択だ。とにかく、フェイクレザー且つゴムソールであればメンテナンスも特段必要なく、アッパーが汚れたなと思えばウェットティッシュで拭けばいいだけであり、コスパタイパで考えればレザーソールという選択肢は無く、見栄の為にアッパーのみリアルレザーという選択肢があるのみだろうか。つまりレザーソールという選択は趣味に近い、若しくは経済的に余裕のある人達のお洒落アイテムと言えるだろう。
私は週一回のサイクルで靴のメンテナンスをする。アッパーを磨き保湿しソールも汚れを落としつつ保湿する。その頻度が多いのか少ないのかは分からないが、とりあえず私はその作業が嫌いではない。寧ろ好きな作業である。車好きが毎週末に自分で洗車をする感覚と同様だろうか。まあ何にしてもその時間は私にとって大事な時間である。そんな私が潤いのある衣食住を送れるようになるのは果たしていつの事だろうか。もしかしたらこの先、潤いのある生活など一度も送る事は無いかもしれない。今のこの些細な拘り、いや趣味だろうか? とにかくそんな些細な趣味を維持する事が精一杯の一生を送るのかもしれない。若しくはそんな些細な趣味さえも維持出来なくなる日が来るのかもしれない。まあ、先の事は何にも分からないが、とりあえず今は靴を磨くとするか。
◇
草木も眠る丑三つ時。それは午前二時から午前二時半を指す。そんな終電も無くなった時刻、私は靴音を噛みしめるようにして家路を歩いていた。その時間、タクシーを捕まえようとすれば捕まるかもしれないが、それは自腹となる訳でそんな金などあるはずもなく、持っていたとしても勿体なくて使うはずもなく、私は当然のようにして三時間弱といった家路をひたすらに歩いていた。
幅4メートルといった住宅街を貫くアスファルトに覆われた生活道路。漆黒の闇の中、百メートル置きに設置してある街灯のおかげもあって、深夜であっても特段歩くに不自由は無い。寧ろ私はその時刻であるからこそ静寂といった利点を得ていたとも言える。
その道の所々には薄っすらと砂利が浮いていた。付近には砂利が存在するような場所も工場も無いはずなのだが、恐らくは砂利トラとかがこの道を抜け道として利用し、故意では無いにしてもそれらの車が落としているのだろうと勝手に想像していた。住民からすれば大迷惑な話であろうが、私はこの数キロ先の住人なので特に害は無く、寧ろその砂利の上をわざと歩きつつレザーソールと砂利が奏でるハーモニーに酔いしれていた。
「はぁぁ、この音、マジで堪らん」
砂利と言っても鉄道レール下のバラストといった数センチ程の石ではなく、一センチにも満たない砂粒の大きい物である。逆にバラストは勿論、センチ単位の石をレザーソールで踏みつけると軽い青竹踏み状態となり、それらはゴツゴツという不快感を容赦なく足裏に伝えてくる。というわけで丁度いい砂利を見つけた私は敢えてそれらを踏みつけ、その音に酔い痴れながらに歩いていた。
「……?」
暫くの間、ハーモニーに酔いしれていたのだが、不意にして小さなノイズが混じりだした。私のレザーソールと砂利のハーモニー対して微妙にずれる不快な音。それは「コツ、コツ、コツ」といったこれぞ靴音といった音だった。静寂の中に響くその音に不快さを示したかった訳では無かったが、私はその音の原因は誰だという思いで足を止め、おもむろに後ろへと振り返った。
「…………」
見える範囲には誰も居らず、私が歩みを止めた途端にその音も消え去った。
「ひょっとして……反響?」
その道の両側には家々のブロック塀が遠い先まで整然と並び、家々は存在するが午前二時という時刻も相まって静けさが静けさを呼んでいると言うほどに静かであり、ひょっとしたら自分のハーモニーが反響しあった事でそんな音が聞こえたのかなと勝手に解釈し、私は踵を返し再び歩み始めた。すると先と同様に私の物とは異なる靴音が、今度は私の歩みに合わせるようにして聞こえ始めた。
「……………」
最早それは不快な音という認識に変わった。とはいえ周囲には誰もいないので気にしすぎてるだけだと自分に言い聞かせ歩き続ける。そうして暫く歩き続けるも、やはり音は私の後を一定の距離を保ちつつピタリとついてくる。だが人間不思議な物で五分もするとさほど気にもならなくなっていた。
「……?」
ちょっとした変化に私は気がついた。あの靴音が先ほどよりも近づいた。いや、徐々に私へと近づいてくる。
「…………」
そしていよいよそれは私の直ぐ傍までやってきた。私を追い越すつもりなのか、それとも別の意図があるのかとあらぬ思考が駆け巡り、その靴音は私の中で恐怖に変わった。
ゴクリ…
今、私が歩いている場所は住宅街である事もあり、きっと大声で叫べば誰かしらが目を覚まし直ぐにも家の照明を点け窓を開けドアを開け何かあったのかと顔を出し、何かを目にしたのであれば直ぐにも駆け付けてくれる、若しくは大声を出してくれる、はたまた不審者ではないかと直ぐにも通報してくれるかもしれない。いや、本来であればまずは私が歩みを止めて状況を確認し、必要であれば携帯電話を手に自らで通報する事こそが本筋であろう。だが丑三つ時の今、例えそこが住宅街であったとしても言いしれぬ恐怖が勝り、今取れるべき行動はただただひたすらに前を向きつつ等速を保ちつつ歩みを止めない事であり、それ以外の選択肢等無いに等しかった。
「!」
なんとソレは私と重なった。後ろでも無く前でもなく右でも左でもなく私と重なった。私と見えないナニかが同化していると、足の運びも同化していると、そんな表現が一番相応しいだろうか。そして私の脳裏には私の目線よりも少し上からの映像が見えていた。状況的にその映像は私と同化したナニかの視点の映像である事はほぼ確実であろう。私ではない誰かの視点。だとしても今その場所を歩くのは私しか存在しない。だがそれは私の視線の映像で無い。私は言いしれぬ恐怖の中で叫ぶことも出来ず歩みも止められず、自分の目で見えている映像と、ナニかが見ている映像を同時に認識しつつといった状況の中で、ただただ足を動かし続けた。傍目からこの状態はどう写っているのだろうか。私一人しか見えていないのだろうか。それとも私ではないナニかが見えているのだろうか。私とナニかが重なって見えているのだろうか。
「!」
先程から何一として理解出来てはいなかったが、更に理解出来ない状況が発生した。今、私の眼の前には何も存在しないが、私の眼の前に音が存在する。そう、私と重なっていた音がついには私を追い越したのだ。だがその音のある場所には何も存在せず音だけが存在していた。手を伸ばせば届きそうな程に近い位置にあるはずのその音。だが私の目には映らない。
私は音のする場所をじっと見続けていた。何も無いその場所を目を見開くようにして見続けていた。するとそこには誰も居らず何も無いはずなのに、ソレが歩みを止め振り向き私に向かって微笑んだ……いや、そのように見えた、いや感じた。そして今度は私がソレを追い越した。その瞬間、私の前に突然人が現れた……いや人なのか人の姿をしたナニかなのか全く分からないが、とにかく人らしきナニかが突然現れた。今の今まで誰もいなかったその場所に、私ではない長身の人間らしきナニかが突如として現れた。そしてソレは「コツ、コツ、コツ」という靴音をたてながらに真っ直ぐに歩き続ける。その足音は先程から私と重なっていた音であり、徐々に私から遠ざかってゆく。
静寂の闇の中、住宅街では先程までレザーソールと砂利のハーモニーが奏でられていた。だがそれは突如として消え失せ、今は長身のナニかが奏でる靴音のみが聞こえていた。
2026年08月27日 初版
「夏のホラー2026」企画投稿作品/テーマ「音」




