初夜
梨央奈の告白を聞き終え、部屋に重い沈黙が落ちた。
彼女の言葉が、俺の胸にずっしりと響く。
あの会社の上司——紙風という男——の行為は、想像以上に生々しく、狂気じみていた。
ストーカー、盗撮、侵入……。
一見完璧に見える彼女が、そんな恐怖に耐えていたなんて。心の中で、怒りが湧き上がる。
彼女を守りたい、という思いが強くなる。
偽装とはいえ、これは間違いなく本気の感情だ。
梨央奈はソファに座ったまま、少し疲れた顔をしていた。
夕陽が窓から差し込み、彼女の頰を淡く染める。
長い髪が肩に落ち、目が少し伏せられている。
肩がわずかに下がり、息が浅い。
俺は勘違いをしていた。
完璧な人間なんて存在しない。
そんなことはわかっていたのに勝手に完璧を押し付けていた。
いや、これは憧れと嫉妬…かもしれない。
完璧であって欲しいという、傲慢な感情。
「梨央奈……大変だったね。俺に何ができるか分からないけど…そばにはいてあげられるから。何かあったらなんでも言って」
本当の関係なら、手を握り抱き寄せてそう言えたのだが、この関係はあくまで偽。
それでも彼女が信頼して告白してくれたことに少なからず喜びを感じていた。
彼女は小さく頷き、左手の指輪を弄ぶ。
銀の輪が、光を反射してきらめく。
彼女の指先が、少し震えているのがわかる。冷や汗が背中を伝っているのか、彼女は軽く身をよじる。
流れる無言の空間で彼女の恐怖を共有する。
紅茶のカップがテーブルに置かれたまま、冷めていく。
その少しの沈黙の後、俺は緊張をほぐすために、適当な話を振ってみた。
重い雰囲気を変えたい一心だった。
「そ、そういえば、昔やってた古いゲーム機も運んできたんだけど、梨央奈はゲームとかする?」
下手なフリに梨央奈は少し驚いた顔をし、ゆっくりと顔を上げる。
疲れた表情が、わずかに柔らかくなる。
「……ゲーム? ほとんどやったことないわ。昔から勉強ばかりやってきたし…。高校も放課後は生徒会とバイトで時間取られてたから。でも、興味はあるかも。どんなの?」
少し興味を示してくれて俺はホッとして、続ける。
ソファのクッションが沈み、彼女の肩が少し近くなる。
「俺がやってたのは…結構王道のRPGかな。ほら、勇者が世界を救うみたいなストーリーとか。逆に勇者がやっていたことが実は世界を壊す手助けだったーとか、そういうのも好きだったな。でも、梨央奈はどっちかというと戦略ゲームとかパズルとか向いてそうかも」
彼女はくすりと笑い、目を細める。
「戦略ゲームね……。確かに得意かもしれないわね。いえ、それぐらいしか取り柄がないだけかもしれないけど」
「そんなことないでしょ」
「そうかしらね。…ねぇ、あなたは私に話しておくことはない?別に無理に聞き出そうとかそういうつもりはないのだけれど」
「…そうだね。いや、あるかな…。けど、ごめん。今はまだ話したくないかも。その…信用してないとかじゃなくて…下手したら泣きかねないし…」
「そう。じゃあ、泣いてもいいと思えるようになったら教えてね」
その言葉に、少しだけ俺の胸が温かくなる。偽装の同居生活なのに、なんだか本物に近付いているような、そんな気がしていた。
同棲はまだこれから始まるのに。
彼女の笑顔が、部屋の空気を少し軽くする。夕陽が徐々に沈み、部屋がオレンジから紫に変わっていく。時計の針が、ゆっくり進む。
「じゃあ、晩御飯作ろうか。引っ越しで疲れたし、簡単なもので」
俺は立ち上がり、キッチンに向かう。
梨央奈も立ち上がり、ついてくる。
「一緒に作るわ。材料は何があるの?」
キッチンは新しく、ステンレスのシンクがピカピカだ。
冷蔵庫を開け、引っ越し前に買っておいた野菜や肉を取り出す。
梨央奈はエプロンをかけ、手を洗う。
彼女の動きは慣れていた。
俺は包丁を手に、玉ねぎを切る。
彼女はフライパンで鶏肉を炒め始める。
キッチンの照明が明るく、油の音がパチパチと響く。
俺は彼女の横で、野菜を切る。
肩が触れそうになり、ドキッとする。
彼女は全く気にせず、調味料を振る。
「味見は梨央奈に任せるね」
俺は鶏肉をフォークで刺し、彼女に差し出す。
「あら、ふーふーはしてくれないの?」と、少し意地悪な笑みを浮かべながらそう聞いてくる。
「え?あっ…ふー…ふー…。これでどう?」
「ありがと」
そのまま彼女は口に運び、頷く。
「少し塩が足りないわね」
俺たちは並んで作業し、簡単な鶏肉の野菜炒めとご飯、サラダを作る。
キッチンの蒸気が上がり、部屋にいい香りが広がる。
梨央奈の髪が少し湿り、頰が赤らむ。
疲れた顔が、少し生き生きとしてくる。
こんな日常が、もし偽装じゃなかったら……。
テーブルに料理を並べ、2人で食べる。
夕食の照明が柔らかく、フォークの音が静かに響く。
梨央奈はゆっくり噛み、俺を見る。
「美味しいわ。秀太君、意外と料理上手ね」
「いや、梨央奈のおかげだよ」
会話が弾み、引っ越しの話、明日の予定……。
先ほどの緊張が、少しずつほぐれていく。
彼女の目が、穏やかになる。
食事が終わり、片付けを一緒に行う。
夜が更け、梨央奈が立ち上がる。
「お風呂先入らせてもらうわ」
「え?う、うん…」
彼女は着替えの一式を持って脱衣所に向かう。
俺はリビングで待つ。
お湯の音が聞こえ、卑猥な想像が膨らむ。
偽装とはいえ、同じ屋根の下。
心臓が速くなる。
「馬鹿か!」と、自分の頬を叩く。
あんな告白をされて、ストーカー行為を長年されてきたのに、俺が似たようなことしてどうする!
美人と一つ屋根の下…何か過ちがあってもなんて考えるな!
そのままイヤホンを耳にはめて、怪談を聞くことで卑猥な気持ちを恐怖に変えることにした。
それからしばらくして彼女が出てきた。
すでにドライヤーも済ませており、お風呂上がりの少しの顔の赤さ、そして意外なほど可愛いパジャマ姿の彼女がやってくる。
「次、どうぞ」
「う、うん」
そのまま俺は入ることに。
彼女が入ったであろう湯船を少し見つめてから、邪念を捨てるために滝行のごとく水を浴びようとするが、その冷たさに思わず変な声が出る。
それから、湯船につかり、今日の出来事を振り返る。
そうして、俺もお風呂から上がり、ドライヤーとかを済ませてリビングに行くと彼女の姿はなかった。
そのままリビングの電気を消して、寝室に入ると、彼女がスマホをいじる姿が目に入る。
ダブルベッドの広さが、俺を緊張させる。
少し大きめとは言え…寝返りの打ち方次第では全然体が触れ合うレベル。
できればギリギリの所で寝よう…。
そう思いながらのっそりとベッドに入ると、彼女の髪の香りが、近くでする。
ドキドキが止まらない。
彼女の息遣いが聞こえ、体温を感じる。
心臓の音が、耳に響く。
「寝る時は真っ暗にするタイプ?それとも少し明かりをつけるタイプ?」
「え?あー…真っ暗かな」
「そう。私は少し明かりがついている方が安心するのよね」
「じゃあ、つけておいて大丈夫だよ」
「…優しいのね」
「いや…普通だよ、普通」
そのまま彼女はすぐに目を閉じ、静かな寝息を立て始める。
俺とは対照的に、まるでいつものことのようにすぐに眠りに入る梨央奈。
彼女はこちらを向いて寝ているため、その横顔がはっきりと見える。
俺は彼女に背を向けて、なるべく距離を取るようにしてから目を閉じる。
…俺の中の理性よ。
頑張ってくれ。
そう1時間ほど念じた後に眠りにつくのだった。




