梨央奈の日常
オフィスビルに着くと、エレベーターの扉が開き、いつもの喧騒が私を迎える。
足音が響く廊下を歩き、デスクにバッグを置く。
モニターを起動し、今日のスケジュールをチェックする。
プロジェクトの進捗確認、会議の準備……。一流企業での日常は、いつも通り忙しない。
窓から差し込む朝の光が、キーボードを優しく照らす。
昨日秀太君との偽装デートが、頭の片隅に残っている。
カフェでの会話、映画の暗闇、物件の下見……。
すべてが計画通りだったのに、なぜか心が少し軽い。
合理的に考えれば、ただの契約。
なのに、彼の素朴な反応が、胸の奥で温かな余韻を残す。
偽装の関係が、私の計算された世界に、予期せぬ柔らかさを加えている気がする。
こんな感情、久しぶりだ。
けど、仕事に集中しようと、自分に言い聞かせる。
感情は効率を阻害する。
それが私の信条だ。
そんな中、デスクの隣から声がかかる。
「お、おはよ……梨央奈ちゃん」
振り返ると、そこに紙風慎太郎先輩が立っていた。
一つ上の先輩で、同じ部署の直属の上司。ボサボサの髪が目立ち、清潔感のないシャツにネクタイが曲がっている。
陰気な表情で、面白みのかけらもない男。
配属されてから、彼の視線がいつも私を追いかけるのが気になっていた。
地下鉄で待ち伏せされたり、帰り道を尾行されたり……。
あの時の恐怖が、今も胸の奥でざわつく。
合理的に対応しようとしたけど、心の負担は大きかった。
上司に報告したのに、厳重注意止まり。
注意された後の方が、視線が粘つくようになった。
この一件が、私の結婚を焦らせた理由の一つだ。
損得勘定だけでなく、こんな男から逃れるための手段としても、偽装結婚は有効だった。
心の中で、秀太君に感謝する。
彼のおかげで、少し自由になれるかも。
「おはようございます、紙風先輩」
私は淡々と返す。
無視するわけにもいかない。
仕事上の付き合いだ。
彼はデスクに寄りかかり、いつものようにじろじろと私を見る。
目が少し血走っている気がする。
息が少し臭う。
距離を保ちたいのに、近づいてくる。
「梨央奈ちゃん、今日もきれいだね。週末は何してたの?」
その質問に、内心でため息をつく。
プライベートに踏み込むな、と言いたいが、穏便に済ませる。
私は左手の薬指に嵌めた銀の指輪を、これ見よがしに動かす。
光が反射し、彼の視線を捉える。
指輪のシンプルなデザインが、朝の光に輝く。
彼の目が指輪に釘付けになる。
「そ、それ……指輪……? え? 左手の……薬指? え?」
予想通りの反応。声が震えている。
私は冷静に答える。
心の中で、優位を感じる。
この瞬間が、少し心地よい。
「はい。近々結婚するので」
彼の顔が青ざめる。
「え!? 彼氏はいないはずじゃ……」
「彼氏は居ないですよ。婚約者はいましたけど」
私の言葉に、彼は唖然とする。
口が開いたまま、言葉が出てこない。
目が泳ぎ、額に汗が浮かぶ。
この指輪が、私の盾になる。
偽装とはいえ、秀太君のおかげで、少し楽になれそう。
紙風先輩はようやく言葉を絞り出し、「そ、そう……おめでとう……」と呟いて、デスクに戻る。
背中が縮こまっている。重い朝の始まりだ。心の中で、ため息をつく。
この男の存在が、私の日常をどれだけ汚していたか、再確認する。
結婚のニュースが、彼を遠ざけるきっかけになればいい。
◇
午前中はチームミーティングで埋まった。会議室に入ると、ホワイトボードにプロジェクトのタイムラインが既に描かれている。
メンバーたちが席に着き、私は資料を配る。私の役割はデータ分析と戦略提案。数字を基に、無駄を排除した計画を立てるのが私の強みだ。
合理性こそが、私の武器。
ミーティングが始まると、紙風先輩が司会を務める。
彼の声はいつも通り低く、陰気だ。私の発言の番になると、彼の視線が絡みつく。
指輪の効果か、今日は少し控えめだが、それでも不快だ。
「有本さん、分析結果を」
私はプロジェクターを操作し、グラフを表示する。売上予測の数字を淡々と説明する。
メンバーたちが頷く中、心の中で思う。
この仕事は好きだ。予測可能で、コントロールできる。
でも、紙風のような人間がいるせいで、ストレスが溜まる。
ミーティングが終わり、デスクに戻る。
紙風先輩が近づいてくる気配を感じ、背筋が凍る。
「あの、指輪……本当におめでとう」
彼の声は震え、目が少し赤い。
感謝の言葉を装っているが、嫉妬がにじむ。
心の中で、冷たく思う。
早く離れてほしい。
「ありがとうございます」と、短く返し、仕事に集中するふりをする。
彼はようやく去る。安堵の息が漏れる。
昼休み、社内のカフェテリアでサラダを食べる。
窓際の席を選び、一人でスマホをチェックする。
周囲の同僚たちの笑い声が遠く聞こえる。
ふと、秀太君のことを思う。
昨日は楽しかった。
彼の反応が、意外と可愛い。
ドキドキしているのが、伝わってきた。
合理的に考えれば、ただの契約相手。
でも、心のどこかで、温かさが芽生えている気がする。
サラダをフォークで突きながら、分析する。私のような人間が、こんな感情を抱くなんて、非合理的だ。
損得で始めた関係なのに、彼の誠実さが、私の心の隙間を埋めているのかもしれない。
カフェテリアのガラス窓から、外の街並みが見える。忙しない人々が行き交う。
私の人生も、いつも効率優先。
でも、秀太君との時間は、違うリズムを与えてくれる。
午後、資料作成に集中する。
エクセルを叩き、グラフを作成。
ヘッドホンでジャズを聞きながら、作業を進める。
オフィスの空気が、少し重い。
紙風先輩の視線を感じるが、無視する。
ふとした瞬間、スマホが振動する。
秀太君からのメッセージだ。
「昨日はありがとう。楽しかったよ。次は家具探し? 何か希望ある?」
シンプルな文面。
でも、なぜかふっと笑みがこぼれる。
頰が少し熱い。
指が自然に動き、返信を打つ。
「うん、楽しみにしてるわ。シンプルなデザインがいいかも」
送信ボタンを押すと、心が軽くなる。
合理的な私にとって、珍しい感覚だ。
周囲を見回す。誰も気づいていない。
笑ってしまった自分に、少し驚く。
この感情、何なのだろう。
偽装の練習のはずなのに、彼の存在が、私の心を少しずつ溶かしている。
非効率的だけど、悪くないかも……。
作業を再開するが、集中力が少し散漫だ。
秀太君の顔が、頭に浮かぶ。
次のデートが、待ち遠しい。
夕方近く、チームの進捗報告で紙風先輩と顔を合わせる。
彼の視線が指輪に落ち、表情が曇る。
心の中で、勝利を感じる。
この男の影が、少し薄れた気がする。
退社時間になり、オフィスを出る。
地下鉄のホームで、周囲を警戒する。
今日は尾行の気配がない。
電車に乗り、窓の外の景色を眺める。
秀太君との関係が、少しずつ変化している。
偽装が、本物に近づいているのかもしれない。
家に着き、ソファに座る。
指輪を眺め、微笑む。この先、どうなるのか。期待が、静かに胸を満たす。
合理性を超えた、何かが生まれている。
今日の1日が、そんな予感を強めた。




