偽装の始まり
来週末が近づくにつれ、心のざわつきが強くなっていった。
会社では、雫の追求が続いていた。
あの日以来、彼女は毎日のように俺のデスクにやってきて、婚約者のことを根掘り葉掘り聞く。
「先輩、あの美人さん、どんな人なんですか? 名前は? 職業は? 絶対モデルさんみたいですよね!」
雫の目は好奇心で輝いている。
俺は曖昧に笑い、適当に答える。
「梨央奈さんって言うんだ。同じ高校の先輩で、今は一流企業に勤めてるよ。詳しくはまた今度……」
本当は偽装だと明かせない。
雫は不満げに頰を膨らますが、結局笑って去っていく。
彼女の無邪気さが、俺の罪悪感を煽る。
会社の人に偽の関係を隠すのは、思ったより大変だ。午後の休憩時間、スマホに梨央奈からのメッセージが届く。
細かいエピソードの確認だ。
「初デートのカフェは、渋谷のあの店で。本のタイトルはこれでどう?」
彼女の徹底ぶりに、感心する。
返信を打ちながら、胸が少し温かくなる。
偽装なのに、彼女の気遣いが嬉しい。
週末前日、俺は実家に連絡を入れた。
両親は郊外の小さな一軒家に住んでいる。
父は普通のサラリーマンで、母はパート主婦。
俺が一人暮らしを始めてから、時折顔を出してはいるが、今回は特別だ。
「彼女を連れてくる」って伝えると、母の声が弾む。
「ええ! 本当? 楽しみにしてるわよ! 何か好きな食べ物ある?」
父も後ろで「ようやくか」って呟いているのが聞こえる。
心が痛む。
純粋に喜んでくれる両親を、騙すことになるなんて……。
夜、アパートで鏡の前に立ち、ネクタイを直す。明日の服装を考える。
梨央奈はきっと完璧に決めてくるだろう。
俺も負けじと、シャツをアイロンにかける。
窓の外は星空。
心の奥で、かすかな興奮が芽生える。
彼女と一緒にいる時間が、増えるんだ。
◇
当日の朝、駅で梨央奈と待ち合わせる。
彼女はカジュアルなワンピース姿で、髪を軽くまとめている。
シンプルなのに、美しさが際立つ。
手に小さな手土産——お菓子——を持っている。
「おはよう。準備はできた?」
彼女の声は落ち着いている。
俺は頷き、電車に乗り込む。
車内は週末の混雑で、隣同士に立つ。
彼女の香りが近く、胸が高鳴る。
偽装の練習として、手を繋ぐ設定だったけど、まだ恥ずかしくてできない。
窓の外の風景が流れる中、彼女は小声でエピソードを復習する。
「再会は同窓会で、共通の友人・田中君経由。初デートはカフェで、本の話から……」
「うん、覚えてるよ。ありがとう」
彼女は微笑み、目を細める。
「自然に振る舞ってね。あなたは誠実そうだから、大丈夫よ」
その言葉に、少し自信が出る。
電車の揺れで、肩が触れ合う。
心が少し溶ける気がした。
実家に着くと、母が玄関で待っていた。
五十代半ばの母は、いつも通りエプロン姿。
父はリビングで新聞を読んでいる。
「いらっしゃい! あなたが秀太の彼女さん? まあ、きれいな人!」
母の目は輝いている。
梨央奈は丁寧に頭を下げ、手土産を渡す。
「はじめまして、有本梨央奈です。今日はお邪魔します。お菓子、よかったら」
母は喜んで受け取り、すぐにリビングへ案内する。
父は新聞を畳み、立ち上がる。
穏やかな表情だが、目が少し厳しい。
「よう、座れ。秀太から話は聞いたよ」
俺たちはソファに座る。
リビングは懐かしい匂いがする。
子供時代の写真が棚に飾られ、テレビの音が小さく流れている。
母がお茶を淹れてくれ、テーブルに並ぶ。
梨央奈は自然に会話を始める。
「お父様、お母様、今日は突然お邪魔してすみません。秀太君とは高校時代から知り合いで、最近再会したんです」
母が目を丸くする。
「高校の? へえ、どんな出会いだったの?」
梨央奈は計画通り、淡々と語る。
「共通の友人を通じて同窓会で再会しました。
そこで本の話で意気投合して……初デートはカフェで、秀太君のおすすめの本を貸してもらいました。それから付き合い始めて、3年になります」
彼女の話し方は完璧だ。
自然で、嘘を感じさせない。俺は相槌を打ち、補足する。
「うん、梨央奈は読書好きで、俺の趣味と合ったんだ」
父は頷き、俺を見る。
「お前、ようやくまともな相手を見つけたな。仕事はどうだ?」
「安定してるよ。梨央奈も忙しいけど、支え合ってる」
母は涙目になり、手を握る。
「嬉しいわ。本当に。結婚の話はいつ頃?」
俺はドキッとする。梨央奈が優しく答える。
「近々、籍を入れる予定です。今日はご挨拶に」
両親は大喜びだ。
母は台所に立ち、夕食の準備を始める。
父は昔話に花を咲かせる。
「秀太は高校時代、地味だったけどな。よくゲームばっかりしてて」
梨央奈は笑い、「そんなところも可愛いんですよ」
彼女の言葉に、俺の胸が熱くなる。
偽装なのに、本気のように聞こえる。
夕食は母の手料理——肉じゃがとサラダ——。テーブルを囲み、和やかな時間。
梨央奈は両親の話を熱心に聞き、完璧に振る舞う。俺は横から見ていて、感嘆する。
彼女の適応力の高さ。
心の奥で、かすかな嫉妬さえ感じる。こんな女性が、本当に偽装でいいのか……。
食後、両親は指輪に気づく。
「お揃いね! 素敵!」
母が喜ぶ。父は俺に耳打ち。
「大事にしろよ」
俺は頷くが、罪悪感が募る。
両親の純粋な祝福が、重い。
この関係が偽物だと知ったら、どれだけ傷つくか……。
でも、梨央奈の横顔を見て、決意する。
うまくやっていこう。
◇
帰りの電車で、梨央奈と並んで座る。
窓の外は夜の街並み。
彼女は疲れた様子で、目を閉じる。
「今日はお疲れ様。完璧だったよ」
彼女は目を開け、微笑む。
「あなたもね。ご両親、素敵な人たちだったわ」
「ありがとう。親を喜ばせられたのは、君のおかげだ」
彼女は窓の外に視線を移す。
「偽装だけど、少し本当みたいで……変な感じね」
その言葉に、俺の心がざわつく。
本当みたい……。
彼女も同じことを感じている?
電車の揺れが、心を優しく揺らす。
家に着き、別れる時、彼女は手を振る。
「次は私の親よ。準備してね」
俺は頷き、アパートに戻る。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
今日の出来事が、温かく胸に残る。
偽装の関係が、少しずつ本物に近づいている気がした。
この先、どうなるのか。期待と不安が、夜の闇に溶けていく。




