後輩
翌朝、いつものようにアラームが鳴り響く。ベッドから起き上がり、窓の外を見ると、曇り空が広がっている。
灰色の雲が低く垂れ込め、街全体を覆うように見える。
昨日の出来事が、夢のように感じる。
婚姻届にサインしたこと、有本さんの淡々とした説明……すべてが現実だった。
心の中はまだ混乱しているが、仕事に行かなければならない。
俺は簡単な朝食——トーストとコーヒー——を済ませ、ネクタイを締めて家を出る。
通勤電車は混雑し、吊り革に掴まりながら、ぼんやりと窓の外を眺める。
雨粒が窓ガラスを叩き始め、街の風景をぼやけさせる。
彼女の顔が浮かぶ。
あの完璧な笑顔と、合理的な言葉。
偽装結婚だと理解しているのになぜか胸がざわつく。
彼女の香り、喫茶店での会話、すべてが鮮明に蘇る。
俺は本当にこれでいいのか?
親を騙すことになる。
もちろん、騙して何かしてやろうというわけではないけど、きっと純粋に結婚を喜んでくれると思うと心が痛い。
いや、でも経済的なメリットを考えれば……。
そんな葛藤が、電車の揺れとともに心を揺さぶる。
駅に着き、会社に向かう道中、雨が本降りになる。
傘を忘れたことに気づき、軽くため息をつく。肩を濡らしながらオフィスビルに入る。
会社は、街の中心部にある中堅のIT企業だ。主に企業向けのウェブアプリケーションの開発と保守を請け負っている。
俺の部署は開発チームで、日々コードを書き、バグを潰すルーチンワーク。
入社して二年、ようやく慣れてきたが、納期のプレッシャーが常にある。
オフィスに着き、デスクに座ると、モニターを起動する。
今日のタスクは、クライアントの在庫管理システムの機能追加。
キーボードを叩き始めるが、集中できない。
頭の中は有本さんのことでいっぱいだ。
彼女の瞳の輝き、淡々とした声調。
高校時代の憧れが、突然現実になった。
偽装とはいえ、彼女と関わる日々が始まるなんて……。
ワクワクと不安が混じり合い、指先が少し震える。
そんな中、廊下から明るい声が聞こえてくる。
「秀太先輩、おはよー! あれ、雨に濡れちゃったんですか? びしょびしょじゃないですか!」
振り向くと、後輩の梁間雫が笑顔で近づいてくる。
彼女は入社一年目の22歳。
ショートヘアが可愛らしく、大きな目が印象的だ。
性格は活発で、いつも周りを明るくするタイプ。
人懐っこくて、俺にもよく話しかけてくる。
今日は白いブラウスにスカート姿で、手にコーヒーを持っている。
彼女の元気な様子に、少し心が軽くなる。
「おはよう、雫。うん、傘忘れちゃってさ。今日も元気だな」
俺は微笑み返す。
雫は俺のデスクの横に腰を下ろし、コーヒーを差し出す。
「先輩、昨日は遅くまで残業だったんですか? 顔色悪いですよー。はい、これ飲んで元気出して! 私のおすすめのラテですよ」
「ありがとう。いや、昨日は早く帰ったよ。ただ、ちょっと寝不足で…」
本当は、有本さんとの出会いが頭から離れなくて、夜更かししてしまった。
雫は目を輝かせ、肘を突く。
「寝不足? もしかして、ゲームやりすぎ? それとも……シコりまくってたとか?ダメですよー?おかず探しはほどばとしないと」
「セクハラだぞ、それ」
「では、上司にでも相談でもしてください」
「それはやめとく」
雫とはよく雑談する仲で、以前、俺が「彼女はいない」って言ったのを覚えている。
それがいきなり結婚となったら…色々言われるかもだな。
雫はくすくす笑い、肩を叩く。
「ふふ、そんなんじゃいつまで経っても独り身ですよー。私、応援してるんですから!いつか先輩に彼女ができますようにって!もし彼女できたら、絶対教えてくださいね。デートスポットとかアドバイスしますから!」
彼女の無邪気な笑顔に、少し心が和む。
でも、内心では罪悪感が募る。
有本さんの存在を隠しているような気がして。
仕事中も、雫は時折デスクに来て、コードの相談をする。
「先輩、この部分のエラー、どうしたらいいですか? 私、Pythonのこのライブラリまだ慣れなくて……」
彼女はモニターを指差し、真剣な顔で尋ねる。俺は説明しながら、彼女の熱心さに感心する。
雫はプログラミングが得意で、俺のミスを指摘してくれることもある。
昼休みには、一緒に社食を食べ、くだらない話で盛り上がる。
「先輩、週末は何してるんですか? 私、最近Netflixのドラマにハマってて。おすすめあります?」
「俺は本読むくらいかな」
「つまんないですねー」
「うるせ」
雫の存在は、会社生活のささやかな楽しみだ。でも、今日の俺はどこか上の空。
有本さんの連絡が、スマホに届いているか確認してしまう。
まだ何もない。
午後、雨が止み、窓から差し込む薄い陽光がオフィスを照らす。
コードをデバッグしながら、ふと思う。彼女との偽装生活が始まったら、
こんな日常はどう変わるのか……。
◇
夕方、仕事が終わり、オフィスを出る。
外はすでに薄暗く、街灯が灯り始めている。
雨上がりの空気が清々しく、濡れたアスファルトが光を反射する。
雫が後ろから追いかけてくる。
「先輩、今日は一緒に帰りましょうよ! 駅までおしゃべりしながら。てか、雨止んでよかったですよねー」
「そうだな。行くか」
俺たちは並んで歩き出す。雫は今日の仕事の愚痴をこぼし、俺は相槌を打つ。
彼女の歩調は軽やかで、時折俺の腕を突く。
「今日のミーティング、部長の話長すぎませんでした? 私、途中で眠くなっちゃって……先輩はどうやって耐えてるんですか?」
「慣れだよ。最初は俺もきつかったけど」
そんな他愛ない会話が続く。
すると、会社のビルの前に、意外な人物が立っていた。
有本さんだ。
仕事着のスーツ姿で、スマホを弄っている。
明らかにできる美人な彼女の美しさが、周囲の空気を変える。
長い髪が夕風に揺れ、洗練された立ち姿が目を引く。
俺は思わず足を止める。
「……有本さん」
彼女は顔を上げ、微笑む。
だが、その目は少し鋭い。
「あら、婚約相手を苗字呼びなんて悲しいわ。梨央奈でいいのに」
その言葉に、俺は凍りつく。
婚約相手……。
雫が隣で固まっているのがわかる。彼女は俺の袖を引っ張り、目を丸くする。
「……秀太先輩……誰ですか? この人。婚約者って……」
雫の声は、少し震えている。俺は慌てる。
雫には、彼女がいないって言っていた。
いや、正確には元カノの話をして、「今は誰もいない」ってぼやいていた。
急に婚約者が出てきたら、驚くのも無理ない。
心臓が早鐘のように鳴る。
どう説明すれば……。喉が乾く。
「えっと、これは……その、最近の話で……」
言葉が出てこない。
有本さんは俺の様子を見て、察したようだ。
彼女は軽く頭を下げ、雫に微笑む。
「あら、お邪魔だったかしら。少し話したいことがあったのだけれど……また連絡するわね。じゃあね、秀太」
そう言って、彼女は踵を返し、歩き去る。
彼女の後ろ姿が、夕暮れの街に溶けていく。
俺はホッとするが、同時に罪悪感が募る。
雫は俺を睨み、腕を組む。
「先輩……説明、してください。婚約者? 彼女がいないって言ってませんでした? 私に嘘ついてたんですか?」
彼女の目は本気だ。
少し傷ついたような表情に、胸が痛む。
俺はため息をつき、近くのベンチに座るよう促す。
「ごめん、雫。座って話そう。高校の知り合いで、最近再会して……」
雫はベンチに座り、俺を追求する。
「急に? そんなのありえないですよ! いつから付き合ってるんですか? どうやって知り合ったの? あの人、めちゃくちゃ美人じゃないですか。先輩、隠してたんですか? 私、信じてたのに……」
質問の嵐に、俺は頭を抱える。
雫の好奇心は強いが、今日は少し本気で怒っているようだ。
けど、なんとか適当に誤魔化す。
「本当に最近なんだ。共通の友人経由で再会して、急展開で。まだ詳しくは話せないけど、彼女がいないって言ったのは本当だよ。あの時はいなかったんだ」
雫は納得いかない顔で、頰を膨らます。
「ふーん……でも、怪しい。先輩、絶対何か隠してるでしょ。まあ、いいですけど。おめでとうございます」
彼女は少し寂しげに笑う。
俺は申し訳なくなり、頭を下げる。
「本当にごめん。言わなくて…」
雫は立ち上がり、駅に向かう。
「じゃあ、詳しい話は今度居酒屋で聞きますね! 絶対ですよ!」
彼女の後ろ姿を見送り、俺はため息をつく。ややこしくなったな……。
心の奥で、有本さんへの申し訳なさが募る。
彼女を待たせてしまった。
雨上がりの空気が、冷たく頰を撫でる。
◇
雫を見送った後、俺は有本さんに連絡する。すぐに返信が来て、近くの公園で待っているという。
夕暮れの公園は、人気が少なく、ベンチに座る彼女の姿が遠くから見える。
木々の葉が風に揺れ、街の喧騒が遠く聞こえる。彼女は俺に気づき、手を振る。
俺は近づき、隣に座る。
ベンチの冷たさが、尻に伝わる。
「ごめん、さっきは。変なタイミングで」
有本さんは首を振り、微笑む。
だが、その目は少し心配げだ。
「いいわよ。でも、まさか彼女がいたなんて言わないわよね? あの子の目、ちょっとあれだったけど」
「ただの会社の後輩だけど……彼女はずっといないって言ってたから、変に思われたみたい。誤解を解くのに苦労したよ」
彼女は頷き、目を細める。
「そう。それは訂正しておくべきね。いきなり結婚したとなると噂が広がって面倒よ。会社の人に変に知られると、偽装がバレやすくなるし」
「うん、気をつけるよ。ありがとう」
それから、彼女は小さな箱を取り出し、手渡す。
中を開けると、シンプルな銀の指輪が入っている。
俺は驚く。
指輪の表面が、街灯の光を反射してきらめく。
「……あっ……指輪ね……」
「形は大事だから。お金のことは気にしなくていいわ。大したものではないし。あなたのを買う予算で、私のも一緒に」
「えっ、でも……そんな、悪いよ。俺が払うよ」
「いいの。それより、話を進めましょう。指輪はめてみて。サイズ合ってるはずよ」
俺は指輪を手に取り、薬指にはめる。
少し冷たい感触が、心を落ち着かせる。
偽装とはいえ、婚約の証。
彼女も自分の指に似た指輪をはめ、満足げに眺める。
それから、彼女は具体的な計画を話し始める。
両親に会うのは、来週末。
俺の親にまず会い、その後彼女の親。
「共通の友人を通して再会したという体にしましょう。その友人はこちらで用意しておくから。プロフィールやエピソードも、事前に共有するわ。たとえば、大学時代の同窓会で再会して、共通の趣味——本とか旅行——で意気投合したって設定はどう?」
「…ありがとうございます。それでいいよ。親は喜ぶと思う」
俺は素直に感謝する。
彼女の準備の良さに、感心する。
彼女はスマホを取り出し、スケジュールを共有する。
「いいのよ。私がしたいことだから。あなたも何かアイデアある? 馴れ初めのエピソード、もっと自然にするために」
「うーん、初デートはカフェで、そこで本の話をして……みたいな?」
彼女は笑い、頷く。
「いいわね。それでいきましょう。細かいところまで詰めましょうか」
公園の街灯が灯り、彼女の横顔を照らす。
高校時代の憧れが、今、こんな近くにいる。
偽装の関係なのに、心のどこかで期待が膨らむ。
この関係が、どう変わっていくのか。
この時は、まだ想像もつかなかった。
風が木々を揺らし、夜の訪れを告げる。




