再会
駅前の喧騒が、耳元でざわめく。
行き交う人々の波が、俺の視界を埋め尽くす中、彼女の言葉が頭の中で反響する。
「結婚しましょう」
それはあまりに唐突で、現実味がなかった。高校時代の人気者が、突然目の前に現れ、そんなことを言うなんて。
心臓の鼓動が速くなり、息が浅くなる。
彼女の瞳は真剣そのもので、冗談の気配など微塵もない。
長い黒髪が風に軽く揺れ、洗練された表情が、昔の記憶を鮮やかに呼び起こす。
あの頃、彼女は学校のアイドルだった。
遠くから眺めるだけの存在だったのに…こんな形で再会するなんて……。
「……えっと……その……」
俺は言葉に詰まる。
頭が真っ白で、何を言えばいいのかわからない。
彼女は少し眉を寄せ、腕を組む。
彼女の視線が、俺を試すように鋭くなる。
「即決断ができない男は嫌いなんだけど。どうする?」
その言葉に、背筋が伸びる。
彼女の声は落ち着いているが、どこか圧力がある。
昔の彼女を思い出す——生徒会長として、いつも完璧に物事を進める姿。
迷いは許さない、そんな雰囲気だ。
俺は慌てて周囲を見回し、近くの喫茶店を指差す。
「……と、とりあえず、あそこの喫茶店で話をしましょう」
彼女は少し考えてから、頷く。
「いいわ。行きましょう」
そう言って、先に歩き始める。
俺は後を追いながら、心の中で呟く。
なんでこんなことに……。
偽装結婚の相手が、まさか彼女だったなんて。
運命的なのか、それともただの偶然か。
少しだけ足取りが重く感じる。
◇
喫茶店に入ると、柔らかな照明とコーヒーの香りが迎えてくれる。
窓際の席を選び、俺たちは向かい合う。
彼女はメニューをちらりと見て、アイスコーヒーを注文する。
俺も同じものを頼み、テーブルに視線を落とす。
店内は静かで、BGMが穏やかに流れている。隣の席のカップルが笑い合う声が、遠く聞こえる。
こんな場所で、偽装結婚の話をすることになるなんて…心の中は混乱の渦。
彼女の美しさが、改めて胸をざわつかせる。高校時代、彼女の名前は有本梨央奈。
学園のマドンナと呼ばれ、成績優秀、容姿端麗、何もかもが完璧だった。
俺なんかが彼女の視界に入るはずもないと思っていた。
だから、初めましてのテンションでこう言った。
「えっと……改めまして、鮎川秀太です。初めまして。よろしくお願いします」
俺は自己紹介を試みる。
彼女はカップを手に取り、静かに微笑む。
「初めましては心外ね。高校ではそこそこ有名なつもりだったのに」
そんな言葉に耳を疑う。
「え?俺のこと…知ってるんですか?」
「知ってるわ。同じ高校なんだし」
知ってる? 彼女が俺のことを? 同じクラスになったことなんか一度もない。
彼女は学校一の有名人で、俺はただの地味な生徒。
部活にも入らず、友達とゲームをするくらいの平凡な高校生活だった。
認識されているなんて、考えたこともなかった。
「……俺のことなんか知っててくれたんだ」
声が少し震える。
彼女は肩をすくめ、当然のように答える。
「生徒会長になった時に、全校生徒の顔と名前は覚えたから。けど、私の記憶が正しければ、確か同じクラスの宮野さんと付き合っていたはずだけど。それも高1から3年まで。彼女とは別れたの?」
その詳細さに、俺は息を飲む。
宮野——元カノの名前だ。
高1から付き合っていたことまで、覚えているなんて。
彼女の記憶力は噂通り、いや、それ以上だ。
俺の過去を、こんなに鮮明に知られていることに、驚きと少しの恥ずかしさが混じる。
あの頃の甘い思い出が、フラッシュバックする。
宮野とのデート、キス、手を繋いだ感触……そして、裏切りに胸が少し痛む。
「そんなことまで覚えてるんですか?」
俺は思わず苦笑いする。
彼女はカップを置き、目を細める。
「記憶力には自信があるのよ」
彼女の声は自信に満ちていて、昔のまま。
完璧主義者で、合理的。
感情をあまり表に出さない、そんなイメージが蘇る。
俺は少し勇気を出して、核心に触れる。
「なるほど……。けど、有本さんなら引く手数多というか……なんであんな掲示板に……」
彼女はため息をつき、窓の外に視線を移す。
外の街並みが、午後の陽光に輝いている。
「確かに引く手は数多ね。社会人になってからも、本当にいろんな人に告白されたものよ。試しに人生経験と思って付き合ったこともあるけど、どうも恋愛ってものがよくわからなくてね。感情が絡むと、面倒くさくなるのよ。けど、普通に損するのも私の性格が許さないから、こうして掲示板で会ってるのよ。それも、損得で結婚するはずが、私に会ったらみんな目の色を変えて……本当の意味で偽装結婚を望む人は少ないみたい」
彼女の言葉に、俺は頷く。
彼女の美しさが、男性を引きつけるのは想像に難くない。
だが、彼女自身は恋愛に興味がないらしい。
合理的で、損得を重視する性格——それが彼女の魅力でもあるけど、どこか寂しく感じる。俺はさらに尋ねる。
「じゃあ、なんで俺なんですか?」
彼女は俺の目を見て、淡々と答える。
「そりゃ安心できるから。3年も同じ子と付き合っていた実績と、顔見知りという点。共通点も多そうなのも高評価。高校時代に悪い噂も聞かないし。偽装結婚としてはかなり良物件。ということで、結婚しましょう」
そう言って、彼女はカバンから一枚の紙を取り出す。
婚姻届だ。
俺は目を丸くする。
まさか、こんなに準備万端とは。
心臓が再び高鳴る。
彼女の行動力に、圧倒される。
昔と一切変わらず、完璧で合理的で、美しく正しい彼女。
そんな彼女と結婚なんて、舞い上がらないと言えば嘘になる。
胸の奥で、かすかな興奮が芽生える。
偽装とはいえ、彼女と一緒にいる時間ができるなんて……。
「さて、計画の話をしましょう」
彼女は婚姻届をテーブルに置き、淡々と説明を始める。
俺はコーヒーを一口飲み、集中する。
店内の空気が、少し緊張感を帯びる。
まずは、お互いの親に会うこと。
そのために、自分たちの馴れ初めを適当にでっち上げる。
大学時代に再会し、付き合って3年で、同棲生活もして1年経過しているという設定。
彼女の声は落ち着いていて、細かいニュアンスまで考え込まれている。
親への説明の仕方、タイミング、彼女の親が好きそうなタイプはどんなのかさえも。
俺は聞きながら、感心する。
彼女の計画性は、まるでビジネスプロジェクトのようだ。
それから、しばらくは同棲生活をし、国から補助金をいただきつつ、次第に別居生活をしながら、今まで通りの元の生活に戻る。
どうやら、国の補助金の確認も最初の1〜2年程度は家に来て調査があったりするが、以降は申請するだけでもらえるらしい。
彼女はかなり調べているようで、補助金の額、申請書類の詳細、潜在的なリスクまで、細かく話してくれる。
俺はメモを取るふりをしながら、彼女の顔を眺める。
美しいラインの頰、集中した瞳。
高校時代、こんな近くで彼女を見ることなんてなかった。
でも、これは偽装。感情を入れてはいけない、と自分に言い聞かせる。
「大まかにはこんな感じ。何か質問とかはある?」
彼女の言葉に、俺は少し考えて口を開く。
心の奥底で、気になっていたこと。
「……もし、どちらかが好きな人ができたりとかしたら、どうするの?」
彼女は少し考え、冷静に答える。
「その時は離婚しましょう。流石に片方の意見を押し倒すわけにはいかないでしょうし。その代わり、事前にきちんと相手には話すこと」
「…なるほど。共同経営的なイメージかな」
「遠からずって感じね。疑問がないなら、ここに名前を書いてくれる? 証人はうちの両親にお願いする予定だから」
婚姻届が俺の前に差し出される。
俺はペンを握り、ためらう。
心の中で葛藤する。
これは本当にいいのか?
偽装結婚、親を騙すこと、彼女との生活……。
でも、経済的なメリットは大きい。
独身税の重圧から逃れられる。
そして、何より彼女と関われる。
もしかしたら、何かが変わるかもなんて淡い期待が、胸をざわつかせる。
「……そうなんだ」
結局、流されるままに名前を書く。
ペンの感触が、手に残る。
彼女は満足げに頷き、紙をしまう。
「はい、これで完了ね。それじゃあ、まず今度あなたの親に合わせてくれる? 細かい話は連絡するから。それじゃあ」
彼女はそう言って、立ち上がる。
会計を済ませ、店を出ていく。
俺は一人残され、コーヒーの残りを眺める。外の陽光が、テーブルに差し込む。
心の中は、興奮と不安の嵐。
マジか? 色々と追いつかず、思わず頭を抱える。
彼女の香りが、まだ店内に残っている気がした。
この出会いが、俺の人生をどう変えるのか……この時は、まだわからない。
ただ、胸の奥で、何かが動き始めた予感がした。
◇
家に帰ってからも、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
婚姻届にサインしたことの重みが、じわじわと実感される。
偽装とはいえ、結婚だ。
親にどう説明する?
彼女との同棲生活なんて、想像もつかない。高校時代の憧れが、現実になったような感覚。
だが、彼女はあくまで損得勘定。
俺もそうだと思おうとするのに、心のどこかで期待が膨らむ。
スマホが振動し、彼女からの連絡が入る。
細かいスケジュールだった。
その事務的で仕事のようなメール内容に俺はため息をつき、返信する。
この関係が、どう進むのか。
この時は想像もできていなかった。




