終焉
倉庫のドアを勢いよく蹴り開け、俺は中へ飛び込んだ。
埃っぽい空気が肺に詰まり、暗闇が視界を狭める。
薄暗い照明が天井から吊り下げられ、コンクリートの床に影を落とす。
梨央奈は古いパイプに縄で縛られ、手首から血がにじんでいる。
彼女のスーツが乱れ、髪が顔にかかり、目が広く見開かれている。
息が浅く、頰に汗が伝う。
紙風は彼女の前に立ち、手を伸ばしたところで凍りついた。
マスクの下から、驚きの目が見える。
俺の息が荒く、胸が激しく上下する。
怒りが全身を駆け巡り、拳が自然に握り締まる。
あの男の狂気が、梨央奈を傷つけようとしている。許せない。
警察のサイレンが遠くから聞こえ始め、俺の背中を押す。
「梨央奈!」
俺の叫びが倉庫に反響する。
紙風の目が血走り、狂気の光を帯びている。
ゆっくり立ち上がり、マスクを外す。
ボサボサの髪が顔を覆い、汗でべとべとだ。
口元が歪み、笑う。
「やぁ、秀太君……か。ダメじゃないか、人のものを勝手に取ったら。習わなかったのかい?でも、梨央奈ちゃんは僕のものだ」
彼の声は低く、粘つく。
俺は一歩踏み込み、拳を構える。
倉庫の床に散らばった埃が舞い上がり、照明の光が揺れる。
梨央奈の目が俺を見て、希望で輝く。
「秀太君……!」
彼女の声は震え、頰に涙の跡がある。
俺の視線が紙風に固定される。
彼はポケットからナイフを取り出し、刃が光る。俺の血が沸騰する。
「梨央奈に近づくな!」
俺は叫び、突進する。
紙風の腕を掴み、ナイフを弾き飛ばす。
金属の音が響き、ナイフが床に転がる。
紙風の力が意外に強く、俺を押し返す。
息が臭く、目が狂っている。
「君は邪魔だ! 梨央奈ちゃんは僕の理想だ! 幼い頃から、誰も愛してくれなかった僕の……!」
俺は拳を振り上げ、彼の腹に叩き込む。
紙風がよろめき、息を詰まらせる。
すると、腹を思いっきり蹴られて、思わずその場に一瞬うずくまる。
それでも何とか力を振り絞り、俺は梨央奈に駆け寄り、縄を解いた。
「梨央奈!大丈夫か…?」
彼女は頷き、俺にしがみつく。
「秀太君……ありがとう」
彼女の体温が伝わり、胸が熱くなる。
すると、紙風が立ち上がり、ナイフを拾う。
「…許さない!」
彼の声が響き、俺に向かって突進する。
刃が空を切り、俺の腕をかすめる。
痛みが走り、血が滴る。
俺は梨央奈を庇い、紙風の腕を捻る。
痛みの叫びが倉庫に響く。
「ぐあっ!」
彼の体が崩れ、俺は彼を地面に押さえつける。
膝で背中を抑え、ナイフを蹴り飛ばす。
すると、警察のサイレンが近づき、扉が開く。
警官たちが突入し、「動くな!」 と叫ぶ。
そのまま紙風は地面に押さえつけられ、手錠をかけられる。
彼の目が、恨めしげに俺たちを睨む。
「梨央奈ちゃん……僕のなのに……」
警官が梨央奈を助け上げ、俺の腕の傷を手当てする。
彼女の目が俺を見て、涙で輝く。
「秀太君……」
俺は彼女を抱きしめ、そして、キスをした。
唇の温かさが、胸を満たす。
数年ぶりのキスは今までのどのキスよりも印象的で忘れられなかった。
こうして、事件は一件落着となった。
◇
事件直後、救急車で病院へ運ばれた。
病院の待合室は白く、無機質だ。
昔からあまり好きではなかった。
そして、ナイフで切られた俺の腕を縫う間、梨央奈は隣で手を握っていた。
彼女の手首には包帯が巻かれ、痛々しさが残っていたが、まるで気にしていないような素振りを見せる梨央奈。
それから、医師に「軽傷です。安静にしていればすぐに治るでしょう」 と、ややいちゃついているところを見られて、恥ずかしくなり、そのまま家に帰り、ベッドで休んだ。
家に帰ってきてからもしばらくは彼女の体が震え、その度に俺は彼女を抱き締める。
「もう大丈夫だよ」
彼女は涙を流し、「ありがとう……秀太君。本当に怖かった」と呟いた。
◇
翌朝、ニュースが事件を報じた。
テレビの画面に、「IT企業社員によるストーカー誘拐事件」のテロップが流れる。
梨央奈の名前は伏せられていたが、詳細が次々と明らかになる。
「容疑者は社長の親族、長期ストーカー被害」
新聞の記事も、紙風の過去を掘り下げていた。
社長の親族として守られていたこと、会社内の隠蔽疑惑にこれまで何度も被害を訴えていたが動かなかった会社と警察。
ネットでは、ストーカー被害の議論が広がり、結局会社は公式謝罪を発表し、社長は辞任する形となった。
「社内調査を徹底し、再発防止に努めます」
そんなニュースを見ていると俺のスマホに、川島からメッセージが届く。
「おい、大丈夫か? ニュース見たぞ。英雄じゃん」
雫からも、「先輩! 奥さん大丈夫ですか? 心配です!」 と、いろんなメッセージをもらった。
少しの休暇をもらった数日後に出勤すると上司が「大変だったな」と声をかけてくれた。
その期間に事情聴取も行われた。
警察署の取調室は、病院より冷たく無機質だった。
灰色の壁、蛍光灯の白い光、テーブルの上に置かれた録音機。
俺と梨央奈は別室で呼ばれ、警官の質問に答える。
俺は倉庫での出来事を詳細に説明した。
「ドアを蹴り開けて、梨央奈を助けようとした時、紙風がナイフを振り回して……腕をかすめました」
警官の筆記音が響き、俺の声が少し震える。
あまり思い出したいことではない。
更に梨央奈の聴取は俺より長く長く、過去の被害をすべて洗いざらい話すようにいわれて、彼女の表情が疲れ切っていた。
聴取は数日続き、証拠の確認、紙風の供述との照合……。
弁護士が付き添い、会社側の隠蔽も調査対象になった。
◇
事件から1ヶ月後、ようやく訪れる日常。
朝、キッチンでコーヒーを淹れ、梨央奈の紅茶を隣に置く。
彼女の髪が朝陽に輝き、笑顔で「おはよう」 俺の胸のざわつきが、喜びに変わる。
ほぼ完全にストーカーの影が、消えた朝だった。
「おはよ」と俺が返すと、目を瞑り唇を差し出す。
「…んっ」
朝のキスを終えてからいつもの日常が始まる。
そうして、数年後…。
◇
リビングの柔らかな陽光が、床に散らばったおもちゃの上に優しく差し込んでいる。
娘の小さな手が、俺の膝に絡みつきながら、積み木を積み上げる様子を眺めていると、時間は穏やかに流れる。
無邪気な笑顔が、心を溶かすように温かい。あの頃の俺には、想像もつかなかった光景だ。家族のぬくもり、日常のささやかな幸福。
すべてが、遠い夢のように感じる。
「あ、ママ帰ってきたー!」
玄関のドアが開く音に、娘が飛び上がるように立ち上がり、駆け寄る。
俺はソファから身を起こし、微笑みながらその様子を見守る。
妻が帰宅したのだ。
彼女は仕事着のまま、疲れた表情を浮かべつつも、娘を抱き上げて優しく撫でる。
その仕草を見るだけで、胸の奥が熱くなる。彼女の存在が、俺の人生をどれほど変えたかを実感する瞬間だ。
「ただいま。いい子にしてた?」
「うん!いい子にしてた!」
娘の返事に、妻は満足げに頷き、それから俺のほうへ視線を移す。
彼女の目には、いつもの柔らかな光が宿っている。
ゆっくりと近づいてきて、俺の頭に手を置き、優しく撫でる。
その指先の感触は、くすぐったいのに、心地よくて離れたくない。
「……俺の頭を撫でるな」
俺は思わず苦笑するが、心の中では喜びが湧き上がる。
彼女のこの仕草は、俺たちだけの親密な合図だ。
昔の彼女を知る俺にとって、これは奇跡のような変化だった。
合理的で、感情を表に出さない彼女が、こんなに自然に甘えてくるなんて。
「あら? 反抗期?」
彼女は楽しそうに笑い、目を細める。
その笑顔に、俺の心はさらに溶けていく。
荷物を置くと、彼女は俺の背後に回り込み、突然後ろから抱きついてくる。
彼女の体温が背中に伝わり、甘い香りが鼻をくすぐる。
あぁ、この瞬間が永遠に続けばいいのに……そんな切ない願いが、胸を締め付ける。
「あぁ……癒されるわ」
彼女の声は、甘く溶けるように響く。
俺はため息をつきながら、彼女の腕を軽く握り返す。
彼女の存在が、俺の孤独を埋めてくれた。
「それなら好き放題抱きつくといい」
「うん。そうする」
彼女はそう言って、俺の首筋に顔を埋め、匂いを吸い込むように深呼吸する。
まるで大切なペットを可愛がるように、頰を擦りつけてくる。
彼女の髪が俺の肩に落ち、柔らかな感触が心を落ち着かせる。
俺は目を閉じ、この幸福を噛み締める。
まさかあの彼女が、こんな風になるなんて……。
あの合理的で、真面目でお堅い彼女が、こんなに甘えん坊になるなんて、想像だにしていなかった。
すべては損得勘定から始まった関係だったのに、今ではかけがえのない家族になっている。
娘の笑い声が部屋に響く中、俺は静かに過去を思い浮かべる。
あの出会いから、すべてが変わったのだ。
そんなことを考えながら、昔のことをぼんやりと思い出すのであった。




