日常と報酬
家に到着してドアを閉めると、梨央奈はようやく息をついた。
彼女の顔は青ざめ、額に薄い汗が浮かんでいる。
俺はキッチンでコーヒーを淹れ、2つのマグカップに注ぐ。
湯気が立ち上り、部屋に苦い香りが広がる。彼女をソファに座らせ、カップを差し出す。
「これ、飲んで落ち着いて」
梨央奈はカップを受け取り、両手で包むように持つ。
指先が少し震え、湯気の向こうで彼女の目が少し潤んでいる。
会社を出ようとした時、またあの男——紙風——につけられそうになったとのこと。
今日は俺が仕事が早く切り上げられたので、少し不安になって迎えに行ったわけだけど、常に早く迎えに行けるわけではない。
彼女の恐怖が、俺の胸にも移る。
あの男の影が、まだ彼女を追っている。
心の中で、怒りと心配が混じり合う。
「ありがとう……秀太君」
彼女の声は小さく、息がまだ乱れている。
俺は隣に座り、彼女の肩を軽く叩く。
偽装とはいえ、彼女の安全が俺の責任だ。 コーヒーを一口飲む。
苦味が舌に広がり、俺も少し落ち着く。
部屋の照明が柔らかく、夕陽の残光がカーテンから漏れる。
引っ越しの荷物がまだ少し残り、部屋に新しい匂いが混じる。
「今日はたまたま早く終わったけど、毎回迎えに行けるわけじゃない。何か対策を打たないとな」
俺の言葉に、梨央奈は頷く。
コーヒーをゆっくり飲み、息を整える。
彼女の目が、少しずつ落ち着きを取り戻す。
「そうね……。警察に相談するのは、もうしたけど、証拠が不十分で動いてくれないの。それに会社内では社長の親戚ってことあって…強く言えないの」
俺は考える。梨央奈の過去の話を思い出し、胸が痛む。
あの男の狂気が、彼女をどれだけ苦しめたか。そして、これからも苦しめるのか。
「弁護士に相談しよう。ストーカー専門の。そういうのいるはずだから。それに…できるなら転職とかも…」
梨央奈は目を細め、考える。「弁護士か……。費用はかかるけど、最悪これにしかないわよね。改めて証拠を集め直すわ。メッセージや写真、全部保存してる。それと、転職はなるべくしたくないわ。一応いい企業に勤めているわけだし」
「わかった」
俺はスマホを取り出し、検索する。
「アプリで位置共有とか、緊急通報のボタンがあるよ。俺のスマホと連動させて、危ない時はすぐ知らせて」
彼女は頷き、「ありがとう。それと、帰宅ルートも変えるわ。なるべくタクシーを使う日も増やす」
さらに、俺は提案する。
「念の為、防犯カメラを家に設置するのは? 玄関やリビングに。証拠になるかも」
梨央奈はメモを取り、「それもいいね。ネットとかで探してみるわ」
それから案を出し合い、リストを作る。
少しすると、コーヒーが冷め、部屋の空気が少し軽くなる。
彼女の肩から力が抜け、疲れた笑顔を見せる。
「ありがとう、秀太君。あなたがいると、落ち着くわ」
その言葉に、俺の胸が熱くなる気がした。
◇
翌日、会社に行くと、同期の川島に声をかけられた。
デスクでモニターを起動していると、彼がコーヒーを片手に近づいてくる。
「おい、そろそろちゃんと教えろよ。なんであんな美人と偽装結婚できたのかをよ」
そう言えば、あの掲示板を教えてくれたのはこの川島な訳だが、あれから忙しくなかなか話す時間がなかった。
てか、俺が偽装結婚できたのはこの川島のおかげであり、唯一事情を少し知っている男だった。
ストーカーの件も含めて相談してみるとするか…。
「おう。悪いけど、会社終わりは時間ないから昼休みにでも話そう」
「わかった」
昼休み、社食の隅のテーブルで向かい合い、俺はこれまでのことを簡単に説明する。
掲示板の出会いと再会、偽装の理由、ストーカー被害……。
「おいおい……まさかのあの掲示板の人が偶然美人同級生で……再会してすぐ結婚して……うまいことやってるだと?」
「話聞いてたかよ。ストーカー被害とかで大変なんだよ」
「でも、こんな美人と一つ屋根の下だろ! くっそ羨ましいぜ!」
そう言うと、彼は俺のスマホを取り上げ、画面に映った梨央奈の写真を見る。
引っ越しの時にこっそり撮った一枚、彼女の綺麗な横顔が映されている。
「所詮は偽装だっての」
「…でも、何が起こるかは分からないだろ?」
川島はスマホを返し、目を細める。
「ふーん? お前、既に本気じゃねーの? 目が輝いてるぜ。接している間に惚れちまうんじゃねねーの?」
俺は苦笑する。
「そんなことないよ。ただ、守ってやりたいだけだ」
川島は肩を叩き、笑う。
「まあ、頑張れよ。美人奥さんと幸せになれよ。俺も掲示板見てみようかな」
その言葉が、胸に残る。
仕事に戻り、コードを叩く。
梨央奈の顔が浮かび、守りたい思いが強くなる。
午後、ミーティングで上司の話を聞く。
いつものルーチンだが、今日は梨央奈のことが頭から離れない。
ストーカー対策のアプリをインストールし、位置共有を設定する。
彼女の安全を、俺が守る。
◇
梨央奈は1人でため息をついていた。
あれから秀太くんになるべく会社に迎えに来てもらって帰る日々が続いていた。
遅くなりそうな時は、会社の休憩室で時間を潰して……すごく負担をかけてしまっていたけど、秀太くんは気にしていないようで「大丈夫。気にしなくていいよ」というばかりだった。
普段は地下鉄で通勤しているものの、私のために車で出勤してくれていた。
朝の渋滞を抜け、夕方の混雑を避ける。
でも、秀太くんの笑顔を見ると、そんな大変日常も楽しく感じるようになっていた。
「ごめん、負担かけて」 というと、彼はいつも「梨央奈の安全が大事だから」と返してくれた。
そんな日々が続き、心の不安が少しずつ薄れていく。
そんな土曜日のこと。
私は何かお返しをしたいと思っていた。
負担をかけてばかりで、申し訳ない。
秀太くんはいつも優しく、守ってくれる。
すやすやと眠る彼を見て、こっそり寝室を抜け出し、彼の荷物部屋に侵入する。
何か欲しいものをこっそり買ってあげたいという一心で。
部屋は少し散らかり、ゲーム機や本が並ぶ。棚を眺め、コントローラーや古いゲームソフトを見る。
部屋を見ていても欲しいものがよく分からず、そのまま部屋を出た。
それから、私は親友に相談してみることにした。
スマホを取り、LINEでメッセージを送る。
『男の人があげたら喜ぶものって何かな?』
返信は即答だった。
『エッチなおもちゃ』
私は画面を見て、ため息をつく。
親友の冗談めかしたアドバイスに、苦笑する。
『私は本気で悩んでるんだけど』
『本気で答えてるから!それかコスプレとか、エッチなご奉仕とか…』
そのままスマホを閉じる。
そういうことじゃないんだよ。
でも、ふと思う。
秀太くんは、そんな人じゃない。
けど…もしそういう気持ちがあるのを抑えてるとしたら?
「…エッチなことなんて…//」と、頭を悩まされる私であった。




