多分、この時
アラームの音が、ぼんやりとした意識に響く。
スマホの振動がベッドサイドテーブルを震わせ、俺は目を細めて手を伸ばす。
まだ暗い部屋に、梨央奈の声が優しく入ってくる。
「アラーム鳴ってるわよ。起きなくて大丈夫?」
目を開けると、そこには彼女の顔がすぐ近くにあった。
朝の柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、彼女の長い髪を優しく照らす。
パジャマ姿の彼女は、昨夜の疲れが少し残っているようだが、目がぱっちり開いていて、既に起きていたらしい。
距離が近すぎて、息が混じり合う。
寝ぼけた頭で、思わず本音がポロッと漏れる。
「あっ……可愛い……」
彼女は少し驚いた顔をし、それからくすりと笑う。
俺の頰を軽くつねってくる。
つねられた感触が、ぴりっと痛くて、ようやく目が覚める。
「ありがと。でも、起きなさい」
彼女の指先が温かく、頰が少し熱くなる。
俺は慌てて体を起こす。
やばい…寝不足だ。
昨夜、梨央奈の過去の話を聞いたことと、ベッドで美女と2人という状況に興奮と心配でなかなか眠れなかった。
ベッドの端で寝ようとしたけど、結局彼女の寝息を聞きながら、ドキドキが止まらなかった。
時計を見ると、まだ6:30。
いつも二度寝するために早めに設定している1回目のアラームだった。
二度寝をしようと考えたが、彼女の姿を見てい気持ちを改める。
すると、彼女は散らかった引っ越し後の小物を片付け、窓を開けて空気を入れ替える。
テキパキとした動きに、俺は感心する。
「……」
俺は起きたもののぼーっとしていると彼女が笑う。
「もしかして寝れなかった?」
「…ううん。大丈夫」
確かに、この新居から駅までは今までのアパートより近い。
通勤時間が短くなった分、余裕がある。
それでもベッドを整える。
梨央奈はキッチンに向かい、朝ごはんの準備を始める。
俺もついていき、手伝う。
「朝ごはん何作る?」
キッチンで、彼女は冷蔵庫を開け、パンや卵、野菜を取り出す。
俺はトースターをセットし、卵を焼く。
彼女はサラダを切り、ヨーグルトをボウルに盛る。
朝の光がキッチンを明るく照らし、卵の焼ける音が心地よい。
彼女の髪が少し乱れ、朝の素顔が新鮮だ。
俺はコーヒーを淹れ、テーブルに並べる。
「紅茶でいい? それともコーヒー?」
「コーヒーで。ありがとう」
俺たちはテーブルに向かい合い、朝ごはんを食べる。
パンにジャムを塗り、卵をフォークで刺す。
彼女はゆっくり噛み、窓の外を眺める。
朝の街並みが、穏やかだ。
「ごめんね。寝れなかったの私のせいよね」
彼女の声は少し申し訳なさげ。
俺は首を振る。
「いや、話してくれてありがとう。嬉しかったよ」
すると、彼女は微笑み、コーヒーを飲む。
朝の時間がすごく心地よい。
そのまま、食事が終わり、片付けを一緒にする。
彼女は洗い物をし、俺はテーブルを拭く。
それから準備を終え、出社する。
ドアを開け、彼女と別れる。
「行ってらっしゃい」
彼女の声が、背中を押す。駅に向かう道中、昨夜のドキドキを思い出す。
この生活が、好きになりそうだった。
◇
会社に向かう地下鉄の中で、雫と遭遇した。混雑した車内、吊り革に掴まっていると、彼女が隣に立っていた。
ショートヘアが少し乱れ、大きな目が俺を捉える。
「秀太先輩! おはようございます。寝不足ですか? 目が赤いですよ」
彼女の声は明るい。俺は苦笑する。
「まぁな……引っ越しで疲れたよ」
雫は目を輝かせ、肘を突く。
「引っ越し? 新居ですか! 新婚生活、どうですか? 奥さん可愛いから、毎晩ハッスルしすぎなんじゃないですかー? w」
「ハッスルなんかしてないから。後輩が先輩にセクハラすな」
俺は小声で返すが、雫はくすくす笑う。
「え!? してないんですか!? マンネリですか!?」
「ばっか、声でけーよ! 周り見ろ」
車内の視線を感じ、俺は慌てる。
雫は肩をすくめ、声を小さくする。
「ごめんなさい!でも、先輩、新婚さんなのに寝不足って……奥さんとの生活、詳しく聞きたいです」
「普通に朝ごはん食べただけだ」
「へえー、いいですねー!私も結婚したいなー」
それから会社に着き、デスクに座る。
雫はすぐに寄ってきて、質問攻め。
「先輩、奥さんのお弁当は? 手作り?」
「まだだよ。引っ越ししたばかりだし」
雫は目を細め、「えー!それは残念ですね!」とはしゃぐ。
「こんな話聞いて楽しいか?
「私、先輩の幸せ話聞くの好きなんですよ!」
俺は曖昧に笑う。
雫の好奇心に、梨央奈の過去を思い出し、守りたい気持ちが強くなる。
それからは仕事に集中し、コードを叩く。
午後、ミーティングで上司の話を聞く。
いつものルーチンだが、今日は梨央奈のことが頭から離れない。
◇
いつもより清々しい朝だった。秀太くんとの日常は……想像以上に私にとってプラスな気がしていた。
偽装結婚を焦ったのがストーカー被害にあっているからという理由もあったことに対して、少なからず嫌な顔をされると思っていたが、秀太くんはただ本気で心配してくれていた。
それが嬉しかった。
それに寝る時も色々と私に気を遣ってくれていて……久しぶりに熟睡することができた。
今までの不眠により少し寝不足気味ではあるが、今までより体が軽い。
会社に行く支度をしながら、鏡の自分を見る。
少し顔色がいいかもと思った。
会社に着き、デスクに座る。
モニターを起動し、メールをチェック。
今日のタスクを整理する。
チームメンバーの挨拶が飛び交う中、紙風先輩のデスクが目に入る。
ボサボサの髪、陰気な表情。
視線が私に向く。心の中で、警戒する。
新居に現れた彼の姿が、フラッシュバックする。
どうやって住所を知った?
会社のデータベース?
それとも、また尾行?
不安が胸を締め付ける。
それからミーティングで、彼の隣に座らざるを得ない。
声が低く、「梨央奈ちゃん、資料見ておいて」 息が近く、不快だった。
それからも何かと視線が絡みつく。
仕事に集中しようとするが、集中力が散漫になる。
なんとか1日が終わり、早く退勤しようとする。
エレベーターを待つ間、後ろに気配を感じる。振り返ると、彼がいた。
目が合う。
心臓が鼓動を早める。
エレベーターに乗り、階下へ。
早歩きで会社を後にしようとする。
後ろを振り返ると、彼もエレベーターから降り、ついてくる。
足音が同期する。
誰か助けて、と思う。
会社を出た瞬間、声がかけられる。
「梨央奈!……迎えに来たよ」
そこにいたのは秀太くんだった。
私は思わず、彼に抱きついた。
いきなりのことに驚く彼だったが、すぐに事情を察してか、彼も私を抱きしめてくれた。
「ごめんなさい……ッ」
色々な意味での謝罪をすると、「大丈夫。とりあえず……俺についてきて」と、彼に手を引かれてそのまま家に帰ることができたのだった。
私は……多分この時……。




