第五話:記録は静かに肯定する
境界市の朝は、通知音から始まる。
恒一の端末が短く震え、画面が点灯した。
業務用のアプリだ。
自動配信の定期レポート。
【生活安定指数:基準値内】
【感情変動:許容範囲】
【要観測事項:なし】
恒一は、特に考えずにスワイプした。
いつものことだ。
洗面所から、水音が聞こえる。
澪が顔を洗っているのだろう。
「今日、外出る?」
「うん、午後に少し」
「そっか」
それ以上、聞かない。
行き先も、用件も。
必要があれば、澪の方から言う。
今までずっと、そうだった。
恒一はテーブルに座り、業務端末を開く。
観測補助員としての仕事は、
“判断が妥当だったか”を後から確認することだ。
ログの一覧が並ぶ。
・問題なし
・対応不要
・当事者申告なし
その中に、一件だけ澪のIDが表示されている。
【対象:雨宮 澪】
【記録種別:感情調整後経過観測】
【自己申告:問題なし】
恒一は、ほんの一瞬だけ指を止めた。
だが、開かない。
見る必要が無い。
本人が「問題なし」と言っている。
それが最優先だ。
澪が洗面所から出てくる。
「顔、少し白い?」
「そう?
気のせいじゃない?」
「そっか」
それで終わる。
“気のせい”という言葉は便利だ。
午後。
澪は外出の準備をしていた。
「遅くなる?」
「どうかな。
でも、夕飯までには戻ると思う」
「了解」
玄関で靴を履く澪を、恒一は見送る。
ドアが閉まる音が、軽い。
静かだ。
問題がある音ではない。
恒一は再び端末を開く。
上司からのメッセージが届いていた。
【最近、家庭内の記録、安定してるね】
【本人申告も一貫してる】
【理想的なケースだと思う】
恒一は短く返す。
【そうですね】
【特に対応は必要なさそうです】
送信。
“理想的”。
その言葉に、違和感は無い。
夕方。
澪は予定通り戻ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
買い物袋を持っている。
「牛乳、買ってきた」
「あ、ありがとう」
冷蔵庫に牛乳が補充される。
足りなかったものが、埋まる。
恒一は安心する。
生活が、正しく更新された。
「今日、どうだった?」
「うん、普通」
澪はそう言って微笑む。
その表情は、崩れていない。
“普通”。
“問題なし”。
その二つが揃えば、
それ以上の確認は不要だ。
夜。
恒一は業務ログに今日の補足を書き込む。
【家庭内環境:安定】
【当事者の主観:問題なし】
【第三者視点:介入不要】
保存。
記録は、静かに肯定する。
人よりも、確実に。
澪は先に寝室に入っている。
電気は消えている。
恒一は一人、リビングの灯りを落とす。
——もし何かあったら。
——もし本当に問題があったら。
制度が拾う。
本人が言う。
記録に残る。
だから今は、何も無い。
そう判断して、恒一は寝室に向かう。
その背後で、
今日という一日が正式に確定する。
問題は無かった、という記録だけが残った。




