最終話:それでも――問題は、無かった。
朝は、いつもと同じ速さで始まった。
目覚ましが鳴る前に目が覚めて、
隣の体温がまだそこにあることを、確かめるでもなく受け取る。
カーテンの隙間から入る光は、少しだけ白すぎて、
それでも今日は晴れるのだろうと、理由もなく思った。
澪は、台所に立っていた。
コーヒーを淹れる音がして、湯気が上がる。
その一連の動きに、昨日との差異は見当たらない。
「今日、少し早いね」
声をかけると、
彼女は一拍だけ遅れて振り返った。
「……うん。そうかも」
その遅れは、説明できる範囲だった。
寝不足。気分。気のせい。
どれでも成立する。
恒一は、それ以上踏み込まなかった。
踏み込まない理由は、いくつもあった。
仕事の時間、天気、彼女の表情が穏やかであること。
そして何より――
踏み込む必要がある、と判断する根拠が無かった。
澪は笑っていた。
いつもと同じように。
朝食を食べ、身支度を整え、
互いの予定を確認して、
「いってきます」と「いってらっしゃい」を交換する。
その間に、
誰も声を荒げず、
誰も泣かず、
誰も助けを求めなかった。
境界市は、今日も問題なく機能していた。
判断装置は正確で、
観測ログは整合性を保ち、
報告書に余白は無い。
恒一は仕事に向かいながら、
ふと、昨夜のことを思い出そうとした。
思い出せなかったわけではない。
ただ、思い出す必要性が見つからなかった。
澪の沈黙。
微細な反応の遅延。
理解に身を預ける癖。
それらはすべて、
「よくあること」という箱に収まり、
箱に入った瞬間、
検討の対象から外れる。
恒一は、善人だった。
自分がそうであると、疑ったことはない。
愛していた。
大切にしていた。
傷つけるつもりなど、なかった。
だからこそ、
自分が関与しているとは思わなかった。
世界は、今日も前に進む。
誰も止めないから。
止める理由が、見当たらないから。
澪は、帰りを待つだろう。
いつも通りの時間に、
いつも通りの顔で。
もし、何かが削れていたとしても、
それは証明されない。
証明されないものは、
存在しないものとして扱われる。
恒一は知らない。
そして、知らないままでいられる。
君もまた、
ここまで読んで、
止める理由を見つけられなかったはずだ。
誰も悪くない。
誰も間違っていない。
ただ、判断が積み重なっただけだ。
記録は閉じられ、
ログは保存され、
結論は一行で済む。
それでも――問題は、無かった。




