第五十一話:ずれていることに、気づかないために
朝のアラームは、
鳴った。
鳴ったはずだった。
澪は
音が止まってから
目を開けた。
自分が止めたのか、
鳴り終わったのか、
わからない。
わからないまま、
起き上がる。
キッチンから
湯の音がする。
――今日も、
ちゃんとしている。
その確認だけで、
胸の奥が
少し軽くなる。
澪は
洗面所へ向かい、
鏡を見る。
目の下に
影がある。
でも、
昨日もあった。
昨日あったものは、
今日あっても
問題にならない。
歯を磨き、
顔を洗い、
いつもの動作を
なぞる。
動作が
滑らかだから、
違和感は
無いことになる。
「おはよう」
恒一の声。
澪は
一拍遅れて
振り向く。
「……おはよう」
間は、
ほんの
わずか。
恒一は
気にしない。
澪も
気にしない。
気にしない、
という選択が
同時に成立する。
朝食。
トーストの
焼き色が
少し濃い。
「今日は
よく焼けたね」
恒一が言う。
「そうだね」
澪は答える。
実際に
そう思ったかは、
関係ない。
会話が
成立した事実だけが
残る。
仕事。
澪は
端末を開く。
依頼は
いつも通り。
数値は
安定している。
感情曲線は
きれいに
均されている。
処理速度が
少しだけ
遅い。
〇・一秒。
測定誤差の
範囲。
だから、
問題は無い。
昼前。
澪は
メッセージを
書こうとして、
止める。
何を書こうと
していたのか、
思い出せない。
思い出せないことを
思い出そうと
しない。
その方が、
楽だから。
午後。
画面の中の
感情が、
少し重く見える。
でも、
処理はできる。
できるなら、
大丈夫だ。
夕方。
恒一が
帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
声の高さは
合っている。
視線が
一瞬、
合わない。
でも、
一瞬だ。
夕食。
澪は
箸を持ったまま、
動きを止める。
「……どうした?」
恒一が聞く。
「ううん、
何でもない」
言い切る。
言い切れたから、
それは
何でもないことになる。
恒一は
それ以上
踏み込まない。
澪も
踏み込ませない。
踏み込まない関係は、
安定している。
夜。
並んで
画面を見る。
内容は
頭に入らない。
それでも、
笑うタイミングは
合っている。
合っている限り、
外から見れば
問題は無い。
寝る前。
澪は
布団に入り、
天井を見る。
何かを
考えようとして、
やめる。
考えなくても
今日が
終わるから。
恒一は
隣で
眠りにつく。
呼吸が
一定になる。
澪は
それを数え、
安心する。
――ちゃんと
生きている。
その安心が、
自分に向けられて
いないことに、
気づかない。
今日も、
何も起きなかった。
何も
起こさなかった。
だから、
ずれは
記録されない。
〇・一秒。
それは
存在しないものとして、
次の日へ
持ち越される。
問題は、
まだ
無かった。




