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第四十七話:言おうとして、やめる


 朝。


 澪は、

 目を覚ましてから

 少しの間、

 動かなかった。


 隣で、

 恒一がまだ眠っている。


 その寝息を聞きながら、

 澪は考える。


 ――今なら、

 言えるかもしれない。


 何を、

 とは決めていない。


 ただ、

 “何かがズレている”という感覚を。


 言葉にする前に、

 胸の奥で

 小さく揺れる。


 数えそうになる。


 澪は、

 それを

 止めた。


 今日は、

 数えないと

 決める。


 起き上がる。

 洗面所。


 歯を磨く。

 泡が少しだけ

 口の端に残る。


 いつもなら、

 すぐ拭く。


 今日は、

 一拍遅れる。


 その遅れを、

 澪は

 ちゃんと自覚する。


 ――今。


 朝食の準備。


 恒一が起きてくる。


「おはよう」


「おはよう」


 声は、

 問題ない。


 だが、

 澪は

 恒一の顔を見る。


 いつもより、

 少しだけ

 長く。


「……どうしたの?」


 恒一が言う。


 澪は、

 その問いに

 一瞬詰まる。


 ――来た。


 ここだ。


 ここで言えば、

 何かが変わるかもしれない。


 澪は、

 口を開く。


「最近……」


 言葉が、

 空中で止まる。


 恒一は、

 続きを待っている。


 その“待ち”が、

 優しい。


 だから、

 澪は思ってしまう。


 ――今言わなくても、

 いいか。


「最近、

 パン焼きすぎちゃって」


 自分でも、

 驚くほど

 どうでもいい内容だった。


 恒一は、

 笑う。


「確かに。

 でも美味しいよ」


 問題なし。


 空気は、

 元に戻る。


 澪の中だけ、

 少しだけ

 何かが

 置き去りになる。


 午前。

 在宅作業。


 画面の中で、

 誰かが

 「言えなかった感情」を

 整えられていく。


 澪は、

 そのログを見ながら

 指を止める。


 ――私も、

 今、

 同じことをした。


 整えたのは、

 自分の方。


 数えそうになる。


 澪は、

 深呼吸する。


 午後。

 少し、

 集中が切れる。


 作業ミスはない。


 だが、

 作業の合間に

 “言葉の候補”が

 浮かぶ。


 ・ちょっと疲れてる

 ・最近、反応が遅い

・自分が自分じゃない感じがする


 どれも、

 致命的ではない。


 だから、

 全部

 却下される。


 夕方。

 恒一から電話。


「今から帰るよ」


「うん」


 澪は、

 その声を聞いて

 少し安心する。


 同時に、

 胸が

 ちくりとする。


 ――帰ってきたら、

 言おう。


 そう思う。


 夜。

 二人で食事。


 会話は、

 穏やか。


 テレビの音。

 笑いどころ。


 完璧に、

 日常。


 恒一が言う。


「今日も特に何もなかったね」


 澪は、

 一瞬、

 箸を止める。


 ――“何もなかった”。


 それは、

 本当だ。


 だから、

 言えなくなる。


「そうだね」


 澪は笑う。


 問題なし。


 風呂。

 湯気の中。


 澪は、

 今日一日を

 思い返す。


 言おうとして、

 やめたこと。


 数えなかったこと。


 どちらも、

 “選択”だった。


 布団に入る。


 恒一が、

 先に眠る。


 澪は、

 暗闇の中で

 天井を見る。


 ――言葉にしなかった

 という事実だけが、

 残っている。


 それは、

 ログにも

 記録されない。


 誰にも、

 観測されない。


 だが、

 澪は知っている。


 今日、

 共有できたはずの

 何かが、

 確実にあったことを。


 そして、

 それを

 自分で

 取り下げたことを。


 数は、

 増えていない。


 だが、

 “重さ”だけが

 確実に増えている。


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