第四十四話:軽微な揺らぎとして
翌朝。
澪は、いつも通り起きた。
目覚ましより少し早く、
静かに。
顔を洗い、
髪を整え、
コーヒーを淹れる。
何も変わらない。
変わらないように、
動いている。
「おはよう」
「おはよう」
会話も、
昨日と同じ。
だが、
澪の端末には
小さな通知が残っている。
《状態フラグ:軽微》
赤ではない。
黄色でもない。
灰色。
曖昧さを
そのまま色にしたような表示。
澪は、
それを開かない。
午前。
澪の仕事用端末に
新しい案件が割り当てられる。
件数は、
一件。
内容は――
自己判断補助。
クライアント名は、
伏せられている。
澪は、
一瞬だけ画面を見る。
そして、
通常通りログインする。
感情波形。
穏やか。
大きな乱れはない。
だが、
“補正履歴”が異様に多い。
「……これ」
澪が、
独り言のように言う。
何度も、
「問題じゃない」に
戻されている波形。
削られ、
ならされ、
丸くされてきた跡。
澪は、
指を止める。
本来なら、
ここで
“再調整”を入れる。
だが、
少しだけ躊躇う。
補正を
入れなければ、
依頼は未完了になる。
未完了は、
システム上
“異常”だ。
「……軽微、か」
澪は、
呟く。
彼女は、
自分のノートを開く。
昨日の一行。
・「はい」を選んだ
今日、
そこにもう一行足す。
・軽微として処理された
午後。
澪の個人端末に
メッセージが届く。
感情管理局から。
簡潔な文章。
《現在の状態は、
日常範囲内の揺らぎと判断されました》
《引き続き、
経過観察とします》
それだけ。
澪は、
しばらく画面を見つめる。
納得も、
反発も、
湧かない。
ただ、
胸の奥に
薄い膜が張る。
「ねえ」
夕方。
ソファで並んで座りながら。
「もしさ」
澪が言う。
「私が、
もう少し揺れてたら、
どうなってたと思う?」
「……どうだろ」
俺は答える。
「もう少し、
様子見じゃない?」
安全な推測。
澪は、
小さく笑う。
「だよね」
その笑顔は、
安心とも、
諦めともつかない。
「“軽微”って、
便利だね」
澪は続ける。
「無視していいし、
向き合わなくてもいい」
「悪い言葉じゃないよ」
俺は言う。
「危険じゃない、
って意味だし」
澪は、
ゆっくり首を振る。
「危険じゃない、
じゃなくて」
少し間。
「“重要じゃない”
って聞こえた」
その夜、
澪はノートを閉じる。
ページは、
まだ余っている。
だが、
何かを書く気には
ならない。
布団に入る前、
澪が言う。
「ねえ」
「なに?」
「もし、
この揺れが
大きくなったら」
俺は、
続きを待つ。
「それでも、
“軽微”って
言われるのかな」
答えは、
用意できない。
「……分からない」
正直な返答。
澪は、
それ以上聞かない。
灯りを消す。
闇の中で、
澪の呼吸が
少しだけ不規則になる。
制度は、
今日も正しく動いた。
問題は、
まだ無い。
そう判断された。
だが、
その判断の内側で、
確実に一つ、
揺れは保存されている。
軽微な揺らぎとして。




