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第四十二話:問題の置き場所


 朝、

 澪は洗面所で歯を磨いている。


 鏡の前に立ち、

 同じ動作を二度繰り返す。


 歯ブラシを口に入れ、

 一度止まり、

 もう一度、同じ場所を磨く。


「澪」


 呼ぶと、

 一拍遅れてこちらを見る。


「……なに?」


「今、

 同じとこ磨いてた」


 指摘。


 澪は鏡を見る。


「あ、本当だ」


 笑う。


 だが、

 “失敗した人の笑い”ではない。


「大丈夫?」


 いつもの言葉。


「うん。

 問題ないよ」


 澪が言う。


 自分で。


 その言葉に、

 小さな違和感が混じる。


 会社で、

 自己報告ログの確認。


 “軽微な違和感”

 “生活上支障なし”

 “本人は継続可能と判断”


 いつも通りの文言。


 だが、

 今日はその文字列が

 やけに整いすぎて見える。


 昼休み、

 同僚が言う。


「最近さ、

 “問題ない”って言葉、

 便利すぎない?」


 冗談めかして。


「全部そこに入るじゃん」


「まあ、

 問題が無いからね」


 誰かが返す。


 笑いが起きる。


 俺も、

 笑う。


 帰宅すると、

 澪は机にノートを広げている。


 紙のノート。


 珍しい。


「なにしてるの?」


「……整理」


 曖昧な答え。


 近づくと、

 ページには箇条書き。


 ・朝、歯磨きを二回した

 ・昼、仕事の画面を三分見失った

 ・夕方、音が遠くなった


 出来事の列。


「これ、

 どうするの?」


「置いておく」


 澪は言う。


「どこに?」


「ここ」


 ノートを指す。


「私の外」


 言葉の選び方が、

 少しだけ変わっている。


「記録?」


「うん。

 でも、報告じゃない」


 澪は続ける。


「判断してもらうためじゃなくて……」


 言葉を探す。


「私が、

 “何を無かったことにしてるか”

 分かるように」


 胸の奥が、

 きしむ。


「問題だと思ってるの?」


 慎重に聞く。


「分からない」


 即答。


「でもね」


 澪はページをめくる。


「問題じゃないって言われ続けると、

 どこに置けばいいか分からなくなる」


 問題、という言葉を

 物のように扱っている。


「だから、

 一旦ここに置くの」


 ノートの上。


「判断は、

 後でいい」


 俺は、

 それを否定できない。


 夕食中、

 澪は味噌汁を一口飲み、

 少し首を傾げる。


「味、変?」


「いつもと同じだと思うけど」


「……そう」


 澪はもう一口飲む。


「分からなくなった時は、

 同じって言われた方が楽だね」


 ぽつりと。


 夜、

 布団の中。


 澪はノートを枕元に置く。


「それ、

 見せてもいい?」


 聞く。


「ううん」


 即答。


「これは、

 私の“置き場”だから」


 拒絶ではない。


 境界の宣言。


 電気を消す。


 暗闇の中で、

 澪の声。


「ねえ、恒一」


「なに?」


「もし、

 これが全部

 問題じゃなかったとしても……」


 少し間。


「私が

 困ってた事実は、

 消えないよね」


 問い。


 制度には、

 答えがある。


 だが、

 今はそれを使えない。


「……消えない」


 それだけ言う。


 澪は、

 小さく息を吐く。


「よかった」


 その言葉が、

 何より重い。


 俺は天井を見る。


 問題の置き場所。


 それを

 彼女は初めて、

 自分で決めた。


 判断は、

 まだ下されていない。


 だが、

 もう“空中”ではない。


 それが、

 本当に安全なのか。


 俺には、

 まだ分からない。


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