第四十一話:それは違う、と言えない理由
朝、
目覚ましが鳴る前に目が覚める。
澪はもう起きていた。
ベッドの端に座り、
カーテンの隙間を見ている。
「おはよう」
声をかける。
澪は、
一拍遅れて振り返る。
「……おはよう」
声は正常。
音量も、抑揚も。
ただ、
“起きている理由”が見えない。
「早いね」
「……うん」
理由は付かない。
それも、異常ではない。
朝食の準備は澪がしている。
だが、手順が変わっている。
卵を割り、
フライパンを温める前に
火をつけていない。
「火、つけなくていいの?」
「あ」
気づく。
「……後でつけようと思ってた」
思っていた、は嘘ではない。
だが、
“今”ではなかった。
俺は火をつける。
「ありがとう」
澪は言う。
感謝は適切だ。
だから、
それ以上何も言えない。
食事中、
澪は箸を持ったまま止まる。
「どうした?」
「……今、
何考えてたか分からなくなった」
珍しく、
説明しようとする。
「考え事?」
「ううん。
考えてたはずなんだけど……」
澪は言葉を探す。
「輪郭だけあって、
中が無い感じ」
俺は一瞬、
言葉を失う。
だが、
診断にはならない。
「疲れてるんだよ」
言える範囲の言葉を選ぶ。
「そうなのかな」
澪は否定しない。
だが、
納得もしていない。
出勤前、
澪が言う。
「ねえ、恒一」
「なに?」
「今日、
私、ちゃんと在宅できるかな」
在宅、という言葉。
仕事の話だ。
「できるでしょ。
今までもできてた」
事実だ。
「……そうだよね」
澪は笑う。
その笑顔は、
自分に言い聞かせる形だ。
職場で、
朝のミーティング。
家庭内観測の話題が出る。
「最近、“自己申告ズレ”が増えてます」
上司が言う。
「本人が
“自分がおかしいかもしれない”
と言い出すケースです」
誰かが言う。
「それって、
問題になるんですか?」
上司は即答する。
「なりません。
主観ですから」
空気が緩む。
俺も、
その中にいる。
昼、
澪からメッセージが来る。
【今、
何してたか分からなくなって、
少し怖くなった】
指が止まる。
どう返すか。
事実を否定するか。
感情を肯定するか。
【一旦休もう】
それを選ぶ。
安全な言葉。
【うん】
返事は早い。
早すぎるくらいだ。
帰宅すると、
澪は床に座っている。
ソファではない。
ラグの上。
「どうした?」
「……どこに座ればいいか
分からなくなって」
冗談のように言う。
だが、
笑ってはいない。
「いつもソファじゃん」
「……そうだったね」
澪は立ち上がり、
ソファに座る。
だが、
そこに“馴染んでいない”。
「澪」
呼ぶ。
「……なに?」
「最近、
ちょっと変だと思う?」
ついに、
直接聞いてしまう。
澪は黙る。
長い沈黙。
「……思う」
初めて、
肯定した。
胸の奥が、
ざわつく。
「でもね」
澪は続ける。
「それを
“問題”って言われたら、
多分……」
言葉を探す。
「私、
安心しちゃう気がする」
俺は、
何も言えない。
「問題じゃないって言われ続けると、
私が間違ってるのか分からなくなる」
それは、
責める言い方ではない。
事実の提示だ。
「だから、
変って言われたいわけじゃない」
澪は言う。
「ただ……
“気のせいじゃない”って
誰かに言ってほしい」
それは、
制度の外の言葉だ。
俺の役割の外。
だが、
同居人としては
外ではない。
喉が詰まる。
「……気のせいじゃない、とは
言えない」
正直に言う。
澪は頷く。
「うん。
そうだと思った」
分かっていた、という顔。
「でもね」
澪は微笑む。
「否定されないだけで、
ちょっと楽」
それが、
一番残酷な言葉だ。
夜、
布団に入る。
澪は俺の袖を掴む。
力は弱い。
「ねえ」
「なに?」
「私が
“問題じゃない”ままでいたら、
ここにいられる?」
質問の形をした、
確認。
「……いられるよ」
即答する。
それは、
嘘ではない。
だが、
正解でもない。
澪は目を閉じる。
呼吸が、
少し遅れる。
俺は思う。
――それは違う、と
言えない理由。
それは、
間違っている証拠が無いからではない。
言ってしまえば、
俺の立っている場所が
崩れるからだ。
そして、その場所は、
まだ“安全”という名前で
呼べてしまう。
だから今日も、
判断は保留される。
誰のためかを
考えないまま。




