第四十話:気のせいではない、という言い方
昼休み、
端末に一件の通知が入る。
【確認依頼:家庭内観測データの微差について】
珍しい文言だ。
家庭内観測。
つまり、澪。
俺は席を立ち、
通路の端で内容を開く。
データ自体に異常は無い。
数値も、規定範囲内。
ただし、
注釈が付いている。
【反応遅延の分散が、
個体平均との差から外れ始めています】
外れ始めている。
外れてはいない。
始めている、だけだ。
つまり、
まだ問題ではない。
そう解釈できる。
デスクに戻ると、
同僚の佐倉がこちらを見る。
「その顔、何かあった?」
「いや、別に」
別に、で済む。
「最近さ、家庭内観測の問い合わせ増えてるよね」
「そう?」
「うん。
“本人は普通です”ってやつ」
佐倉は笑う。
冗談のつもりだろう。
「本人が普通なら、普通だよ」
俺は言う。
それは、制度の基本だ。
佐倉は肩をすくめる。
「まあね。でもさ、
“普通です”って言葉、
誰が一番使ってると思う?」
「……本人?」
「同居人」
冗談の延長だ。
俺は笑わない。
帰宅途中、
駅のホームで澪からメッセージが来る。
【おかえり、今日は何時?】
文は正常だ。
返信する。
【もうすぐ】
しばらくして、
既読がつく。
返事はない。
家に着くと、
澪はキッチンにいる。
包丁を持っているが、
動いていない。
「ただいま」
「……あ」
澪は気づく。
気づくまでに、
少し間がある。
「今、何作ってた?」
「……何か」
曖昧だが、答えだ。
俺は手を洗い、
隣に立つ。
「手伝うよ」
「……うん」
澪は包丁を置く。
置くまでが、
やはり遅い。
だが、危険ではない。
危険でなければ、
問題ではない。
「今日、仕事どうだった?」
澪が聞く。
聞き返してくるのは、
いつものことだ。
「普通」
「……そっか」
澪はそれ以上聞かない。
聞かれないことに、
少し安堵する。
食事中、
澪は箸を落とす。
音が響く。
「大丈夫?」
「……うん、ごめん」
ごめん、と言う必要はない。
事故だ。
「気にしないで」
それは、正しい対応だ。
食後、
澪はソファに座る。
テレビはつけない。
「澪」
「……なに?」
呼びかけへの反応は、
以前より遅い。
だが、返る。
「最近さ……」
俺は、言葉を選ぶ。
選ぶ時間が、
長くなる。
「ちょっと、疲れてない?」
それなら、言える。
澪は考える。
長い沈黙。
「……分からない」
まただ。
分からない、は嘘じゃない。
「無理しなくていいから」
俺は言う。
逃げ道を作る言葉。
澪は頷く。
だが、その頷きは、
どこか途中で止まる。
「ねえ」
澪が言う。
「私、変?」
心臓が、一拍遅れる。
「そんなことない」
即答する。
考える必要は無い。
変だと断定する材料は無い。
「そう、だよね」
澪は笑う。
笑顔は、
少し遅れて完成する。
夜、
シャワーの音が止まらない。
長い。
だが、水量も温度も正常だ。
異常は無い。
俺は端末を見る。
例の通知が、
もう一度表示されている。
【参考意見:
“気のせい”として処理するには、
観測者の主観が強くなりすぎています】
主観。
それは、俺のことだ。
澪が部屋に戻ってくる。
髪が濡れたまま。
「ドライヤー、使わないの?」
「……後で」
後で、は
いつになるか分からない。
布団に入る。
澪の呼吸が、
やはり少し遅れる。
合わせようとしている。
合わせられていない。
俺は思う。
――気のせい、とは言える。
だが、
気のせい“だけ”では
もう足りない。
それでも、
判断はまだ下せる。
「問題は無い」
そう言うための理由は、
まだ残っている。
だが、
それを言い続けるのは、
誰のためだろうか。
その答えを考える前に、
澪は眠りに落ちる。
呼吸が、
また少しだけ遅れる。
俺は目を閉じ、
そのズレを数えないことを選ぶ。
まだ、
選べてしまう段階だから。




