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第三十九話:誰の判断でもない時間


 朝、目が覚めたとき、

 澪がいなかった。


 時計を見る。

 いつもと同じ時刻。


 トイレか、キッチンか。

 そう思って起き上がる。


 キッチンに澪はいた。


 立っている。

 何も持たずに。


「おはよう」


 声をかける。


 返事がない。


 聞こえなかったのかもしれない。


「澪?」


 一拍。

 二拍。


「……おはよう」


 返事はある。

 遅れは、もう誤差とは言い切れない。


 だが、返ってきた。


 それでいい。


「早いね」


「……うん」


 澪は頷く。


 頷き終わるまで、

 少し時間がかかる。


 だが、意味は通じる。


 コーヒーを淹れる。

 湯を注ぎ終わっても、

 澪は動かない。


「飲む?」


「……あ、うん」


 答えてから、

 カップに手を伸ばすまでが長い。


 指が、少しだけ震える。


 寒いのかもしれない。


 そう思うことにする。


 ニュースが流れる。


「判断支援AIの誤作動は確認されていません」


 アナウンサーの声。


 確認されていない。

 つまり、問題は無い。


「今日、何時まで?」


 俺が聞く。


「……」


 澪は考えている。


 考えること自体は、悪くない。


「夕方……くらい」


 曖昧だが、答えだ。


 予定は流動的だ。

 在宅なら、なおさら。


 出勤前、

 澪が俺の袖を掴む。


 珍しい。


「どうした?」


「……ううん」


 掴んだまま、

 何も言わない。


 視線が合わない。


「何かあった?」


 聞いてから、

 俺は後悔する。


 聞かなくてもよかった。


「……何も」


 澪は言う。


 何も無い。

 それなら、追及する理由は無い。


 俺は袖を外す。


「じゃ、行ってくるね」


「……いってらっしゃい」


 声が遅れる。


 だが、言葉は正しい。


 職場での作業は順調だ。


 判断ログに異常は無い。


 観測値も安定している。


 人間の判断は、

 多少の遅れを含んで当然だ。


 帰宅すると、

 部屋は暗い。


 澪はソファに座っている。


 電気をつけていない。


「ただいま」


 反応がない。


「澪?」


「……あ、ごめん」


 澪は顔を上げる。


 驚いたような表情。


「寝てた?」


「……起きてた」


 起きていたなら、

 問題は無い。


 夕飯を作ろうとするが、

 澪は立ち上がらない。


「今日は、俺が作るよ」


「……ありがとう」


 ありがとう、は言えた。


 食事中、

 澪は箸を止めることが多い。


 咀嚼が、少し遅い。


「体調、悪い?」


 俺は、聞いてしまう。


 聞かなくてもよかったのに。


「……分からない」


 澪は正直だ。


 分からないことは、ある。


 俺も、よく分からない。


「無理しなくていいよ」


 それは、優しさだ。


 澪は頷く。


 だが、その動きは、

 途中で止まりそうになる。


 夜、澪はシャワーを浴びない。


「今日は、いい」


 理由は言わない。


 言わない自由もある。


 布団に入る。


 澪は、俺より先に横になる。


 だが、目は閉じない。


 呼吸が合わない。


 俺の呼吸に、

 少し遅れて追いつこうとしている。


 無意識だろう。


 人は、無意識にズレる。


 俺は思う。


 ――これを、誰に言えばいい?


 医者か。

 制度か。

 それとも、本人か。


 澪は何も訴えていない。


 俺も、確信はない。


 確信が無い以上、

 判断は保留される。


 保留は、否定ではない。


 ただ、今は判断しないだけだ。


 澪が、小さく息を吸う。


 タイミングが、

 少しだけ合わない。


 それを数え始めている自分に気づき、

 俺は目を閉じる。


 数える必要はない。


 判断する必要もない。


 まだ、

 誰の判断でもない時間だからだ。


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