第三話:問題が無い、という判断装置
朝は、特別な音を立てずに始まる。
カーテンの隙間から差し込む光は、昨日と同じ角度で床を照らし、同じ場所に影を落とす。
「おはよう」
キッチンから、澪の声がした。
柔らかく、引っかかりのない声。
「おはよう」
恒一はそう返して、洗面所へ向かう。
歯を磨きながら、鏡に映る自分を見る。少し寝癖がついているだけで、異常はない。
コーヒーの匂い。
食卓に並ぶ、いつものパンと果物。
「今日は、仕事?」
「うん。午後から」
「そっか」
会話は、そこで一度途切れる。
沈黙は不自然ではない。二人にとっては、よくある間だ。
澪は、カップを両手で包み込むように持っている。
その指先が、わずかに赤いことに、恒一は気づいた。
「……手、冷たい?」
澪は一瞬だけ瞬きをしてから、微笑った。
「大丈夫。エアコン効きすぎてるだけ」
『本当に大丈夫?』
そう聞こうとして、言葉を飲み込む。
理由ははっきりしている。
——澪は、嫌なことがあれば言う人だ。
——言っていないなら、問題じゃない。
恒一の中で、いつもの思考が回り始める。
「まあ、暑かったり寒かったりするよな」
「そうだね」
澪は、穏やかにうなずく。
否定も、補足もない。
その日の午後、恒一は在宅で簡単な報告書をまとめていた。
観測補助員としての仕事は、異常を見つけることではない。
**「異常が無いことを確認する」**ことだ。
端末の画面に表示されるチェック項目。
・暴力行為:なし
・明確な拒否表現:なし
・生活機能の破綻:なし
澪の背中が、リビングの端で見える。
イヤホンをつけて、仕事をしているらしい。
その姿を見ながら、恒一はチェックを進める。
「……澪」
呼びかけると、澪はすぐに振り返った。
「なに?」
「最近、無理してない?」
自分でも、曖昧な聞き方だと思った。
それでも、これ以上踏み込む理由が見つからない。
澪は少し考えるように視線を落とし、それから首を振った。
「無理ってほどじゃないよ。
仕事も、ちゃんと出来てるし」
『出来ている』
その言葉に、恒一は安心する。
「なら、いいか」
「うん」
澪は、また作業に戻る。
その横顔は、静かで、整っている。
恒一は思う。
——本人が問題ないと言っている。
——生活は回っている。
——自分が過敏なだけかもしれない。
判断は、誰かが下さなくてはいけない。
そして多くの場合、それは**「何もしない」という判断**だ。
その夜、二人は並んでベッドに入る。
灯りを消す前、澪がぽつりと呟いた。
「ねえ」
「ん?」
「……やっぱり、私、ちゃんと出来てるよね?」
一瞬だけ、胸の奥がざらつく。
だが、すぐに理由を見つける。
「出来てるよ。
何も問題ない」
澪は、ほっと息を吐いたように微笑う。
「よかった」
灯りが消える。
暗闇の中で、澪の呼吸がゆっくりと整っていく。
恒一は天井を見つめながら、思う。
——今日も、何も起きなかった。
——確認は取れた。
——判断は正しい。
だから、記録はこうなる。
問題は、無かった。




