第三十六話:自動化された判断
最近、考える前に体が動く。
目覚ましを止め、顔を洗い、服を選ぶ。
昨日と同じ順番。
違うのは、確認しなくなったことだ。
澪は、もう起きていた。
キッチンに立ち、湯を沸かしている。
その背中は、以前より少し丸い。
「早いね」
声をかけると、澪は一瞬だけ動きを止める。
「うん」
返事は短い。
悪くはない。
俺はそれを「機嫌が悪い」とは判断しない。
朝だから。
眠いだけかもしれない。
理由は、いくらでもある。
コーヒーを淹れる。
澪は自分の分を用意しない。
――忘れたのか。
――いらないのか。
どちらでも問題はない。
「飲む?」
そう聞くと、澪は少し考えてから頷く。
「お願い」
間がある。
だが、それを「間」だと認識しなくなっている。
カップを渡すと、澪は受け取り、静かに座る。
「今日は、どれくらい仕事?」
「夕方まで」
「そっか」
会話は、成立している。
成立している限り、
そこに不具合は存在しない。
俺はそう理解している。
出勤前、玄関で靴を履きながら振り返る。
澪はソファに座り、スマートフォンを見ている。
画面は点いたまま、指は動いていない。
――集中しているのだろう。
そう判断して、声はかけない。
外に出る。
鍵をかける。
エレベーターの中で、ふと思う。
もし今、澪が何か言いたいことがあったら。
もし、助けを求めていたら。
その仮定は、すぐに打ち消される。
言うはずだ。
澪は大人だ。
問題があれば、きっと。
会社では、判断を下す仕事をしている。
数値を見て、基準と照らし合わせ、
異常がなければ通す。
感覚は、排除される。
「問題ありません」
その言葉を、今日は何度使っただろう。
帰宅すると、部屋は暗かった。
電気をつける。
澪はダイニングに座っている。
食卓には、冷めた料理。
「遅くなってごめん」
「ううん」
澪は首を振る。
視線は、俺ではなくテーブルに落ちている。
椅子に座る。
料理を口に運ぶ。
味は、いつも通りだ。
「今日は……」
澪が口を開き、止まる。
「なに?」
俺は促す。
穏やかに。
澪は少し笑って、首を振る。
「やっぱり、なんでもない」
その瞬間、
俺の中で何かが確定する。
――問題は、無い。
その判断は、もう意識的なものではない。
反射に近い。
「そっか」
それで会話は終わる。
終わってしまう。
風呂に入り、歯を磨き、布団に入る。
澪は隣にいる。
呼吸が、わずかに合わない。
でも、それを調整しようとは思わない。
自然に任せる。
暗闇の中で、澪が小さく身じろぎする。
「……ねえ」
名前を呼ばれる気配があった気がした。
だが、次の音はない。
俺は目を閉じる。
明日も、同じ一日が来る。
そう思えることが、少し心地いい。
判断は、もう自動化されている。
考えなくていい。
疑わなくていい。
問題は、無い。
そうやって世界が回るなら、
それ以上、何をする必要があるだろうか。




