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第三十三話:まだ、戻れると思っている


 朝は、昨日とほとんど同じだった。

 カーテンの隙間から入る光の角度も、湯気の立ち上がり方も、床の冷たさも。


 違いがあるとすれば、澪の動きが、ほんの少しだけ遅いことだった。


「……おはよう」


 声はいつも通りだ。

 眠そうで、柔らかくて、波風を立てない。


「おはよう」


 俺も同じ調子で返す。

 返せてしまう自分に、疑問は生まれない。


 澪はマグカップを両手で持ち、少し考えるように立ち止まってから、テーブルに置いた。

 その間、0.1秒。

 言われなければ、誰も気づかない程度の間。


 俺はスマホを確認する。

 通知は無い。

 問題も、無い。


「今日、作業あるの?」


「うん。午前中だけ」


 返事までに、また一拍。

 それでも、会話は成立する。


 成立している以上、何も言う理由はない。


 澪は席に座り、パンを一口かじる。

 噛む回数が、少し多い。

 飲み込むまでが、少し長い。


 ――疲れてるのかもしれない。


 その結論は、俺の中で即座に採用される。

 便利で、角が立たず、誰も傷つけない。


「無理しないでな」


「うん」


 澪は笑った。

 安心したような、許可をもらったような笑顔。


 その瞬間、胸の奥で何かが引っかかる。

 けれど、それは形になる前に溶ける。


 だって、戻れる。

 まだ。


 おかしいと思ったら、言えばいい。

 深刻になる前に、立ち止まればいい。


 今は、まだその時じゃない。


 澪が洗い物を始める。

 水の音が、少し遅れて流れ出す。

 蛇口をひねる力が、ほんの少し弱い。


 俺は背中を見る。

 特別な違和感は、無い。


 観測補助員としての仕事の癖で、

 数値にならない変化は「誤差」に分類してしまう。


 誤差なら、問題は無い。


 澪は振り返って言う。


「ね、あとで時間あったら……」


 言葉が途中で止まる。

 探すような間。


「……やっぱ、いい」


 その選択を、俺は尊重したつもりになる。

 踏み込まないことが、優しさだと信じているから。


「そう?」


「うん。大丈夫」


 大丈夫、という言葉は便利だ。

 言った本人も、聞いた相手も、少し楽になる。


 俺は靴を履きながら考える。

 本当に問題があるなら、澪は言うはずだ。

 言わないなら、それはまだ問題じゃない。


 そうやって、世界は保たれている。


 玄関で靴紐を結び直す。

 結び目が一度、緩んだ。


 結び直せばいい。

 それだけのことだ。


 ドアを開ける前、澪が言う。


「行ってらっしゃい」


 声は、少し遅れた。

 でも、ちゃんと届く。


「行ってきます」


 ドアが閉まる。

 鍵をかける音が、いつも通り響く。


 廊下を歩きながら、俺は思う。


 ――まだ、戻れる。


 そう思えているうちは、

 きっと大丈夫だ。


 だから今日も、

 俺は何もしない。


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