第三十二話:戻れると思っていた
朝、目が覚めたとき、恒一は一瞬だけ時間を確認した。
いつもより、ほんのわずかに早い。
「……まあ、いいか」
そう思った理由を、彼自身も説明できなかった。
ただ、急ぐ必要はない、という感覚だけが先にあった。
キッチンでは、澪がコーヒーを淹れていた。
湯気の立ち方が、昨日と少し違う。
それに気づいたのは、カップを受け取ったあとだった。
「ありがとう」
澪は一拍遅れて、うなずいた。
「うん」
返事の速さが、ほんのわずかにズレている。
恒一はそれを「眠そうだからだろう」と判断した。
その判断は、意識に上がる前に終わっていた。
テーブルに並ぶ朝食は、問題がなかった。
味も、量も、温度も。
問題がない、という判断が先に立ち、
比較や確認は行われなかった。
「今日、帰り遅くなる?」
澪が聞く。
視線は、恒一ではなく、窓の外に向いている。
「たぶん。あ、でも連絡はするよ」
「そっか」
また、わずかに遅れる。
0.2秒。
恒一は、それを数値として認識しない。
彼の中では、
**「いつも通り」**というラベルが、すでに貼られている。
玄関で靴を履きながら、恒一はふと思った。
(前も、こういう朝があったな)
だが、その続きを考えなかった。
思い出す必要はない、と感じたからだ。
澪は、背中越しに言った。
「いってらっしゃい」
声は穏やかで、壊れていない。
ただ、恒一がドアを閉めたあと、
その言葉が空気に残り続けていることを、誰も観測しなかった。
外に出て、恒一は深く息を吸う。
(戻れる)
なぜか、そう思った。
何に、とは考えなかった。
戻れると思っている限り、
今はまだ、問題ではない。
そう判断した瞬間、
今日もまた、何かが記録されなかった。




