第三十一話:忘れているという自覚が無い
朝は、いつも通りに始まった。
目覚ましが鳴るより少し早く、恒一は目を覚ました。
理由はない。
正確には、理由を特定するほどの違和感がなかった。
隣で澪が眠っている。
呼吸は規則正しく、胸の上下も安定している。
数値化するまでもなく、「問題ない」状態だ。
恒一は天井を見つめながら、ぼんやりと思う。
(今日は、ゴミ出しの日だっけ)
この思考は安全だった。
世界を壊さない。
誰も傷つけない。
キッチンに向かい、コーヒーを淹れる。
湯が沸く音、豆の香り、カップに落ちる液体。
すべてが、いつも通りだ。
「おはよう」
背後から声がした。
振り向くと、澪が立っている。
「おはよう」
恒一は返す。
声の高さも、間も、適切だった。
澪は少しだけ笑う。
その笑顔は、記録上「良好」と判断される部類に入る。
「今日、少し早めに出るね」
「うん」
恒一はうなずく。
理由を聞く必要はない。
聞かれなかったこと自体が、問題を発生させない。
澪は冷蔵庫を開け、しばらく中を見つめてから閉めた。
その動作に、ほんのわずかな間があった。
0.2秒ほど。
だが恒一は気づかない。
気づくための準備を、していなかったからだ。
「朝、軽くでいい?」
「そうだね」
返答は即座だった。
澪の間に、恒一の間は重ならない。
食卓に並んだのは、簡単な朝食。
栄養バランスも、摂取カロリーも、問題ない。
「最近、どう?」
恒一が聞いた。
この問いは安全だ。
曖昧で、逃げ道が多い。
「うん、普通」
澪はそう答えた。
声は穏やかで、否定も肯定も含まない。
(普通なら、大丈夫だろ)
恒一の中で、判断装置が静かに作動する。
「無理してない?」
一応、聞く。
優しさとして成立するライン。
「してないよ」
澪は即答した。
ここで迷わないのは、慣れだ。
沈黙が落ちる。
気まずさはない。
ただ、言葉が必要とされていないだけだ。
澪が食器を下げる。
その手が、一瞬止まる。
恒一はスマートフォンを見ている。
通知は無い。
世界は平穏だ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる。
静かだ。
あまりにも静かで、
音を立てる理由が存在しない。
恒一はカップを洗いながら、
ふと、思う。
(何か、忘れている気がする)
だが、それはすぐに霧散する。
忘れているものが「何か」分からない以上、
対処のしようがない。
彼は手を止めない。
止めないことが、
これまで世界を壊さずにきた方法だからだ。
窓の外では、
今日も問題なく、
世界が動いている。




