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第三十話:沈黙の選択


雨は降っていなかった。


だが、

空気は湿っている。


朝の境界市は、

いつもより音が少なかった。


恒一は出勤前、

玄関で靴紐を結びながら、

澪の気配を背中に感じていた。


キッチンで、

カップを置く音。


少し遅い。


ほんの、

わずかに。


――気のせいだ。


その判断が、

即座に下される。


「行ってきます」


「……行ってらっしゃい」


返事の間に、

ほんの隙間がある。


0.1秒。


だが恒一は、

それを「生活音」として処理する。


ドアが閉まる。


外は、

特別なことのない朝だ。


職場では、

軽いトラブルが起きていた。


ログの齟齬。


感情整形オペレーターの一件で、

「本人申告と内部数値が一致しない」という報告。


「大した誤差じゃないですね」


同僚が言う。


「最近は、

本人が違和感に気づかないケースも多いですし」


恒一は画面を見る。


確かに、

数値は安定している。


「問題にするほどじゃないですね」


その言葉を、

自分が言ったことに、

恒一は何も感じない。


合理的だ。


全体として、

問題は起きていない。


昼休み。


恒一はスマートフォンを見ながら、

澪からのメッセージに気づく。


『今日は少し遅くなる』


理由は書いていない。


以前なら、

「大丈夫?」と返していた。


だが今は、

違う。


『了解』


それだけで、

十分だと思う。


心配は、

信頼を損なう可能性がある。


干渉は、

善意でも重い。


そう教えられてきた。


夕方、

帰宅。


部屋は静かだ。


照明は点いているが、

澪はいない。


恒一はソファに座り、

無意識に時計を見る。


いつもより、

少し遅い。


だが、

それは想定内。


――社会人だ。


夕食をどうするか考え、

冷蔵庫を開ける。


食材は揃っている。


問題は無い。


その時、

端末が通知音を鳴らす。


システムメッセージ。


《感情安定度:良好》


澪のアカウント。


恒一は、

それを見て安心する。


数字は、

嘘をつかない。


22時過ぎ、

澪が帰宅する。


「おかえり」


「ただいま」


声が、

少し低い。


だが恒一は、

聞き流す。


「遅くなったね」


「うん」


澪は靴を脱ぎながら、

一瞬、

立ち止まる。


何か言いかけて、

やめたような。


恒一は、

待たない。


待つという行為は、

期待を生む。


期待は、

相手を縛る。


だから、

何も言わない。


夕食は簡単に済ませる。


テレビもつけない。


沈黙が、

部屋に馴染んでいる。


澪が言う。


「ねえ」


恒一は顔を向ける。


「最近さ」


言葉が、

途中で止まる。


「ううん、なんでもない」


恒一は、

微笑む。


「無理しなくていいよ」


その言葉は、

優しさとして出てくる。


だが同時に、

扉を閉める言葉でもある。


澪は、

それ以上話さない。


夜、

二人は並んで横になる。


距離は近い。


触れ合っている。


だが、

どこか遠い。


恒一は思う。


――自分は、

ちゃんとしている。


相手を尊重し、

過剰に踏み込まず、

問題を作らない。


それは、

正しい大人の態度だ。


だから、

この沈黙も正しい。


澪が、

小さく息を吸う。


何か言葉にならないものが、

そこにある。


だが恒一は、

目を閉じる。


見ないことも、

選択だ。


聞かないことも、

判断だ。


そしてその判断は、

今日も世界を壊していない。


――少なくとも、

そう記録されている。


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