第二十七話:安定値、良好
定期レポートの提出日だった。
澪は端末を開き、
自分自身の状態ログを確認する。
〈睡眠効率:98%〉
〈情動変動幅:低〉
〈反応遅延:微小〉
〈総合評価:安定〉
「……問題なし」
声に出して読んでから、
澪はその言葉を一度、飲み込む。
問題が無い。
それは、仕事では何度も使ってきた言葉だ。
だが今日は、
それが自分に向けられている。
送信ボタンに指を置く。
一拍。
ほんのわずかな間。
指は、自然に動いた。
送信完了。
画面が切り替わり、
〈評価反映まで24時間〉と表示される。
「終わった……」
そう呟いたとき、
胸の奥に小さな空白が生まれる。
終わった、という実感。
だが、何が終わったのかは分からない。
昼過ぎ、恒一からメッセージが届く。
〈今日は少し遅くなる〉
〈ごめん〉
〈了解〉
即答だった。
迷いも、感情の揺れも無い。
――待つ、という感覚も薄い。
そのことに、
澪は気づかない。
夕方、評価が更新される。
〈安定度指数:A〉
〈生活適応率:良好〉
〈対人摩擦:検出なし〉
〈介入必要性:無し〉
「……Aか」
悪くない。
むしろ、理想的だ。
画面の下部に、小さく注釈が表示される。
〈※安定状態が継続した場合、
感情処理負荷は今後さらに軽減されます〉
軽減。
澪はその言葉を、
何度か頭の中で繰り返す。
負荷が減る。
楽になる。
それは、
望ましい未来のはずだった。
恒一が帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
返事は、自然なタイミング。
「今日、どうだった?」
恒一は靴を脱ぎながら聞く。
「うん、評価出たよ」
「どう?」
澪は少し考える。
正確に答えようとする。
「安定してるって」
恒一は笑う。
「やっぱり。最近ほんとに調子いいもんね」
「……そうかな」
「うん。正直、前より全然いい」
前より。
その比較に、
澪の中で何かが引っかかる。
前の自分。
それは、
どんな状態だった?
「ねえ、恒一」
「なに?」
「前の私って、そんなに大変そうだった?」
質問は、
責める調子ではない。
ただ、
確認するように。
恒一は少し考える。
「大変っていうか……」
言葉を選ぶ。
「考えすぎてた、って感じかな」
考えすぎ。
「今は?」
「今は、ちゃんと現実見てる」
現実。
その言葉は、
澪の中で重く響く。
「そっか」
澪は頷く。
否定はしない。
できない。
なぜなら、
評価も、数値も、
同じことを言っている。
夜、ひとりで端末を見る。
評価画面を閉じても、
数字の感触が残る。
A。
良好。
問題なし。
それらは、
澪を守る鎧のようでもあり、
同時に、
何かを封じる蓋のようでもある。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
その言葉は、
いつの間にか、
判断装置の出力と同じ響きを持っていた。
布団に入る。
眠りは、すぐに訪れる。
浅くも、深くもない。
ただ、均一。
その安定した眠りの中で、
澪は夢を見ない。
夢を見る必要が、
数値上、
もう無いからだ。




