第二十六話:楽になった、という評価
朝、目覚ましが鳴る。
澪は音を聞いてから、少し遅れて目を開けた。
ほんのわずかな遅延。
だが、昨日より確かに長い。
身体が重いわけではない。
眠気が強いわけでもない。
ただ、反応が遅い。
恒一はすでに起きていて、シャワーを浴びている音がする。
その音を聞きながら、澪は布団の中で考える。
――起きなきゃ。
命令形ではない。
義務でもない。
ただの確認。
起き上がる。
足を床につけるまでに、一拍。
洗面所で顔を洗う。
鏡に映る自分は、昨日と変わらない。
変わらないはずだ。
朝食を用意しながら、澪は包丁を握る。
切る。
並べる。
火を入れる。
手順は完璧だ。
迷いもない。
「おはよう」
恒一が声をかける。
「おはよう」
返事は少し遅れる。
恒一は気にしない。
――眠いのかな。
その程度の認識だ。
食卓で向かい合って座る。
「最近、澪、落ち着いたよね」
唐突に言われる。
澪は箸を止める。
止まるタイミングが、以前より少し長い。
「……そう?」
「うん。前より余計なこと考えなくなった感じ」
余計なこと。
澪はその言葉を、頭の中で転がす。
「それって、良いこと?」
「良いと思うよ」
恒一は即答する。
迷いがない。
「だって、楽そうだし」
楽。
その評価は、澪自身のものではない。
だが、否定する理由も見つからない。
「そっか」
そう答えながら、
澪は自分の胸の内を探る。
楽かどうか。
分からない。
疲れてはいない。
苦しくもない。
ただ、何も感じていない部分がある。
仕事を始める。
感情整形の画面には、
クライアントのログが淡々と流れていく。
〈不安感:軽度〉
〈自己否定:中度〉
〈調整後予測:問題なし〉
問題なし。
その三文字は、相変わらず美しい。
澪は調整を進める。
迷いはない。
最適解が自動的に提示される。
作業は速く、正確だ。
「……楽だな」
思わず、声に出る。
その瞬間、
自分が誰の言葉を使ったのか分からなくなる。
夕方、外に出る。
コンビニで飲み物を買う。
レジで会計を済ませる。
「ありがとうございました」
店員の声。
「……はい」
返事が遅れる。
店を出たところで、
澪は一瞬、立ち止まる。
――今、何をしようとしてた?
家に帰る。
それは分かっている。
だが、その「帰る」という行為が、
どこか他人事のように感じられる。
夜。
恒一はソファでニュースを見ている。
澪はその隣に座る。
距離は近い。
触れそうで、触れない。
「澪」
呼ばれる。
「なに?」
「最近、ほんとに安定してるよね」
その言葉は、
褒め言葉として発せられている。
澪は微笑む。
「……そうだね」
その笑顔は、自然だ。
少なくとも、そう見える。
恒一は安心する。
――良かった。
その「良かった」は、
澪の状態ではなく、
状況に向けられている。
布団に入る。
天井を見つめながら、
澪は考える。
楽になった。
落ち着いた。
安定している。
それは、
誰の視点での評価だった?
問いは、まだ声にならない。
だが、今日は消えなかった。
消えなかった、という事実だけが、
小さく残る。
そして、澪は気づかないまま、
その違和感を
「問題ではない」と
棚に置く。
眠りに落ちるまで、
その判断が正しいかどうかを、
誰も確認しない。




